2018年04月10日

「この人が卑弥呼」出版無料キャンペーン

アマゾンにて下記の本を電子出版しました。
「この人が卑弥呼」

平成30年4月20日午前12:00から4月24日午後11:59まで無料で配布します。
Kindle専用端末はもちろん、パソコンでもご利用できます。
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できましたら本のレビューをお願いします。
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2018年04月06日

欠史八代天皇の実在証明

今日の日本古代史論者の多くは、欠史八代の天皇は実在しなかったとする。
だが私は、間違いなく実在したと考える。
そのことによって大和朝廷の始まりが、いつ頃かという考え方の相違となっている。そこで欠史八代天皇の実在を論証する。

『先代旧事本紀』物部氏系譜には、欠史八代の天皇がすべて登場する。中でも欝色謎(うつしこめ)は八代孝元の皇后となり、伊香色謎(いかがしこめ)は九代開化の皇后となったとする。

次の図は物部氏、三上氏、中臣氏の系図である。

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物部氏は三上氏と複数世代で、婚姻関係にある。更に三上氏は中臣氏と婚姻関係に有る。
婚姻関係にある人物は、同時代の人である。系譜上の世代位置に破綻はない。
このような関係を織り込んだ、架空系譜を創作することは不可能である。したがってこれらの系譜は、史実を伝える。物部氏系譜に登場する天皇は実在したのである。
もし実在を否定すると物部氏系譜はもちろん、物部氏とつながる三上氏系譜や中臣氏系譜も否定することになる。
物部氏系譜は、更に出雲色多利姫(いづもしこたりひめ)を通じ、出雲氏の系譜につながり、出雲氏系譜は、沙麻奈姫(さまなひめ)を通じて、三輪氏への系譜につながる。三輪氏の五十鈴依姫命(いすずよりひめ)は綏靖(すいぜい)の皇后、渟中底姫(ぬなそこひめ)は安寧(あんねい)の皇后となる。
このような系譜を、架空の系譜として創作することは、不可能である。これらの系譜伝承に登場する天皇は実在したのである。

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2017年11月16日

富雄丸山古墳が日本最大の円墳。あなたは信じますか?

11月16日の新聞報道によれば、
「奈良市の富雄丸山古墳が、測量調査の結果、従来の説より二十メートル大きい直径百十メートルの円墳と分かり、市が十五日に発表した。埼玉県行田市の丸墓山古墳(直径百五メートル)を上回り、国内最大の円墳とみられる」とする。

直径、百そこそこで国内最大などありえない。なぜなら『魏志倭人伝』は、卑弥呼の墓を、径百余歩とする。径とするから円墳であろう。百余歩とは、おおよそ百五十メートル。直径百五十メートルの円墳が、日本列島のどこかに存在するのである。百十メートルの円墳が、最大であるはずは無い。それでは径百余歩の円墳は、どこに存在するのか。
写真に示す御所市玉手山の円墳がそれである。ここにまぎれもなく直径約百五十メートルの円墳と、長径が百六十メートル程度の楕円墳が存在する。これらこそ列島最大の円墳なのである。
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私は、皆さんに、そのことを検証していただきたいと考えている。
ついては、下記のように、この古墳の現地踏査会を催します。
面白そうだと思われる方の参加をつのります。
もちろん、百五十メートルの円墳などありえない、とお考えの方も歓迎です。
現地にて、ご意見をうかがえれば幸いです。

場所 奈良県御所市玉手山
集合場所 御所市玉手満願寺駐車所
実施予定日(あくまで予定で変更になることもあります、どちらかに参加ください)
   12月16日(土)午後1時から4時まで
   12月17日(日)午前10時から午後1時まで
雨天中止
参加申し込みは、下記ブログの「私へのコンタクト」メールアドレスにご連絡ください。

http://yamatai.sblo.jp/

のちほど詳しい予定を差し上げます。

申し込み締め切り12月10日
posted by 曲学の徒 at 22:16 | Comment(3) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

2017年10月14日

秋津遺跡は卑弥呼の王宮か? (その2)遺構の年代

 秋津遺跡の古墳時代前期とされる地層から、堅固な塀に囲まれた掘立柱建物群が出土した。
調査に当たった橿原考古学研究所が、方形区画施設と名付ける遺構である。同時に周辺地域には数多くの竪穴住居も確認された。
橿原考古学研究所の調査報告書によると、出土土器の大半は布留式土器であり、庄内式土器は見られないとする。したがってこの遺構の年代を古墳時代前期とする。
しかし私は、この年代推定に疑問を持つ。確かに竪穴式住居の存続年代は、古墳時代前期四世紀の中ごろまで存続する。だが方形区画施設と名付けられた、塀に囲まれる高床式建物群の年代は、二世紀末から三世紀前半の遺構と考える。この方形区画施設の内部は清浄に保たれていたらしく、年代を推定できる遺物などがほとんど見当たらないとする。
私は次の3点からこの方形区画施設の年代は、二世紀末から三世紀前半の遺構と考える。すなわち卑弥呼の在位年代の物であり、秋津嶋宮の一部であるとする。

第1は、炭素年代測定による掘立柱建物の測定値は、二世紀末から三世紀前半を示す事。
第2は、二世紀代から三世紀前半とされる多孔銅鏃と同時代の、東海系の土器が出土している事
第3は 橿考研による年代推定の論理に大きな矛盾がある事
他にもいくつかの疑問が在るが、主だった私の論拠は上記の3点である。

第1点の、炭素年代測定値である。出土した遺物の一部について炭素年代測定が行われている。
次の表はその測定値である。
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方形区画施設内部の掘立建物SB0040やSB0030bなどは、相当古い年代を示す。橿考研は自分たちが推定する年代と大きくかけ離れるため、この年代あたりの炭素年代測定値は、実際より古い値が出ることを理由に、炭素年代測定値の結果のみを提示するにとどめる。
ありていに言えば、この炭素年代測定値は信頼性に欠けるとして採用しないのである。
たしかに、北半球用較正曲線IntCal109で、日本列島出土の遺物を較正すると、二世紀から三世紀代では、実年代より古い年代となることが知られている。そこで近年、日本列島出土の年代が解る樹木を用い、日本列島用の較正曲線の作成が試みられている。
そこで、北半球の標準較正曲線IntCal109、南半球のShCal13及び日本産樹木の炭素年代測定値を組み合わせたグラフが下の図である。
houkeikukaku-nenndai75.gif
そのグラフ上にSB0040やSB0030bの炭素年代測定値を重ね合わせてみる。較正曲線との交点をどのあたりに求めるかは、私の直観によるものであるが、これらの年代を三世紀中ごろ以降とすることは無理がある。
二世紀後半から三世紀前半に収まる測定値である。卑弥呼の在位年代の建物なのである。

第2点は、多孔銅鏃とその時代の東海系土器が出土している事
多孔銅鏃は、東海地方を中心に二世紀から三世紀中ごろにかけて周辺地域に広がったとされる。その多孔銅鏃1点が秋津遺跡から出土した。この1点のみなら、たまたま古い物を所有していたと考えることもできるが、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器が複数出土している。複数の二世紀代から三世紀前半と考えられる遺物が出土しているのである。古墳時代前期以前には、古くならないとする橿考研見解を否定する。
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第3は、橿考研が推定する方形区画施設の年代に矛盾がある事。

大型掘立柱建物SB0029の後に、竪穴建物SB0001b更に、竪穴建物SB0001aと建て替えられる。
橿考研はSB0001aの柱穴から出土した土器を、布留古相または中相とする。おおよそ実年代として300年前後を想定する。
houkeikukaku.gif
この建物を取り囲む塀は、方形区画3→方形区画2→方形区画6の順序で建て替えられたとする。また方形区画施設6の柱穴から炭化物が出土している。この炭化物を竪穴建物SB0001aから出土した炭化物と同時代の物として、方形区画施設6の年代を布留古相または中相とする。
したがってそれらの前後関係を次のように推測し、方形区画施設の年代は布留式の年代とする。
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しかしその想定には大きな矛盾がある。塀と竪穴建物とが同時代であれば、掘立柱建物を取り囲むイメージ図とは一致しない。もし橿考研が想定するように方形区画施設6とSB0001aを同時代とすれば、塀が取り囲むのは掘立建物ではなく、竪穴建物という事になる。このイメージ図は間違いで、SB0029の所には竪穴建物SB0001aが描かれなければならない。

だが私は、方形区画施設6とSB0029が同時代であると考える。
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竪穴建物はこの時代に一般的に見られる住居用建物である。それに対し掘立柱建物は、特別な建物である。これだけ堅固な塀に取り囲まれる建物は、イメージ図に描かれるように高床式の建物であろう。方形区画施設と竪穴建物が同時代という推定に間違いがあろう。
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最後の竪穴住居SB001aの布留古相あるいは中相から、最初に建てられた方形区画3までさかのぼれば、方形区画施設3の年代は二世紀末まで古くなる可能性は十分ある。
少なくとも古墳時代前期に収まるようなものではない。

橿考研がこの遺構の年代を、布留式土器の年代をさかのぼらないとする見解が、この遺構の重要性を見失うことになっている。
発掘調査に当たった橿考研の担当者は、この遺構の規模から一豪族の遺構ではなく、大和王権が直接かかわる遺構であろうと推測する。
だが『日本書紀』には、三世紀後半から四世紀前半頃と推測される崇神、垂仁、景行の時代に、この地域に関する記述は何もない。『日本書紀』に、この御所市南郊外が登場するのは、五代孝昭の掖上池心宮と、六代孝安の室秋津島宮である。崇神の時代よりもっと古い時代である。
私は先に述べた炭素年代測定値の結果、多孔銅鏃とその同時代の東海系の土器の存在、そしてたびたび建て替えられた方形区画施設の年代推定からこの遺構は、二世紀末から三世紀前半の遺構であり秋津嶋宮の一部と考える。それはまた卑弥呼の王宮でもある。

秋津遺跡は卑弥呼の王宮か? その1 秋津嶋宮の場所

卑弥呼の政治を補佐した男弟

 私が卑弥呼とする宇那比姫には天足彦国押人命という夫があった。
このように主張すれば、即刻反論があろう。『魏志倭人伝』は卑弥呼は「年すでに長大夫壻無し」として夫が無かったとする。私もまた卑弥呼は独身の女性と考えていた。しかし和邇氏の系譜を伝える、大久保氏の系譜を見て、卑弥呼には天足彦国押人命という、夫があったことを知った。天足彦国押人命は和邇氏の祖とされる人物である。したがって宇那比姫もまた和邇氏の祖である。その和邇氏の墓である、天理市の東大寺山古墳から、卑弥呼が受け取った物であろう、中平の年号の入った鉄刀が出土している。このことは宇那比姫命が卑弥呼であり卑弥呼には、夫があったことの傍証となる。
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詳しくはこちら
http://yamatai.sblo.jp/category/872520-1.html

この大久保氏の系譜は、驚きの事実を明らかにする。天足彦国押人命には、倭足彦国押人命すなわち六代孝安天皇という弟がある。
孝安は宇那比姫命の義理の弟なのである。
『魏志倭人伝』は「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする。卑弥呼の政治を補佐した男弟があったことを伝える。宇那比姫命には、六人の兄はあるが弟は居ない。この「男弟」とは他ならぬ孝安なのである。
男弟が孝安であることを傍証する古墳がある。『記紀』によると孝安は玉手丘に葬られたとする。玉手丘とは現在の御所市玉手山のことである。そこに径百余歩の円墳を見るのである。
これまで日本列島では径百余歩、すなわち直径150mの円墳は知られていなかい。最大でも埼玉県行田市の丸墓古墳の直径105mである。だがここ玉手山に径百余歩の円墳が存在するのである。玉手山は孝安が葬られた場所という事と、そこに径百余歩の円墳を見ることは偶然ではない。孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟なら、孝安が葬られた山に、卑弥呼の墓を見ることは極めて自然な事である。私が孝安が男弟であるとする説を裏付ける。

秋津嶋宮の場所

孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟なら、卑弥呼の王宮は孝安の宮とされる秋津嶋宮なのである。
それでは秋津嶋宮は何処かである。秋津嶋宮は「室(むろ)」の秋津嶋宮とする。室とは現在の御所市南郊外の地である。秋津嶋宮の場所について、帝王編年紀という十四世紀に成立した書物に、その伝承地が記される。それによると「今掖上池南西田中也」とする。現在掖上池という名前の池は存在しないが、玉手山の麓に満願寺というお寺がある。その前に大きな窪地が広がる。現在は霊園となる。その窪地の南側に「きれずみ」すなわち「切れ堤」という場所がある。かってここは大きな池であり堤が切れて干上がったのである。ここが掖上池であろう。秋津嶋宮の伝承地をこの池の南西の田圃の中とする。掖上池からの距離は不明であるが秋津嶋宮は室という場所にあった。室はこの掖上池より1q位離れた所の南西である。
更に林宗甫という人が、江戸時代に著した「和州旧跡幽考」という書物がある。それによるとその伝承地を「寺村より乾(いぬい)にして川の東」とする。寺村とは現在の御所市稲宿(いなど)である。
孝安の秋津島宮は、この寺村の乾(いぬい)、すなわち北西に在ったとする。また川とは葛城川のことであろう。川の近くは氾濫原となるので、あまり川の近くではなかろう。
この二つの書物の伝承地からおおよその場所が絞られる。掖上池の南西、で稲宿の北西そして葛城川かからやや離れた東側の場所である。ここが室秋津島宮の伝承地である。
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室秋津島宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したのである。
京奈和自動車道という京都から奈良県を経由して和歌山に至る、自動車道の建設が進んでいる。2008年この自動車道建設の事前発掘調査で、室という場所の北端から、堅固な塀に囲まれた高床式建物群が出土した。
発掘調査を担当したのは、橿原考古学研究所である。後にこの遺構は秋津遺跡と名付けられる。
秋津遺跡は縄文の終りから、弥生中期の終り、そして橿原考古学研究所が古墳時代前期とする遺構が認められる。
問題はこの古墳時代前期とされる遺構の年代である。もしここが秋津嶋宮と関連する遺構であれば、それは弥生末くらいでなければならない。なぜなら卑弥呼は二世紀末から三世紀前半、王位にあった人物である。宮の存続年代もその年代のずである。
問題は秋津嶋宮の伝承地あたりから出土し高床式建物群の年代である。
橿原考古学研究所は、出土した大量の布留式土器の年代から、この遺構の年代を三世紀後半から四世紀前半頃の遺構と推測する。布留式土器に先行する庄内式土器が見られないことから、三世紀前半までは古くならないとする。
もしこの橿原考古学研究所の推定年代が正しければ、この遺構は卑弥呼の王宮ではあり得ない。100年くらい後の遺構となる。
だが私は、この堅固な塀に囲まれた高床式建物群が、秋津嶋宮の一部であり、それは卑弥呼の在位年代二世紀末から三世紀前半のものであると確信する。
そこでこの遺構の年代について、私の見解を記す。