2018年06月30日

箸墓の被葬者は誰

箸墓は最初に造られた前方後円墳である。前方後円墳という特異な形の墓は箸墓から始まる。
前方後円墳の平面形は、鍵穴や、てるてる坊主のシルエットのような形をする。変わった形である。この形はどのようにして生まれたかである。
前方後円墳の主体部分は、埋葬施設がある円形の部分である。それでは前方の役割は何か。
当初私は、前方部は墳丘に至る通路であると考えた。だが通路とするには理解しがたい点があった。通路なら平地から円丘部分に向かって上るのが普通である。しかし私が踏査した前方後円墳のすべては、円丘に向かって下るのである。しかも方形部分の端は、急坂で上ることはできない。通路とするには理解しがたい形なのである。
この疑問は私が卑弥呼の墓とする、御所市玉手山の墳丘を踏査したとき解けた。
私が卑弥呼の墓とする玉手山の古墳は、山塊から張り出した尾根の上に墳丘を築く。
山塊から墳丘に向かって、尾根は緩やかに下る。前方後円墳の方形部分は、この尾根を模したのである。
したがって平地に造られた箸墓では、尾根の山塊側は切り落とされた形となる。

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詳しくはこちらhttp://yamatai.sblo.jp/category/968173-1.html

箸墓の方形部分は、一般に三味線のバチ形にたとえられる。直線で構成される台形ではなく、台形の底辺部分に向かって緩やかな曲線で広がる。玉手山の山塊側から張り出した、尾根の平面形もバチ形を呈す。バチ形に開く前方部は尾根を模したことを物語る。

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓の大きさを径百余歩とする。おおよそ直径150mである。
玉手山、墳丘盛り土の大きさは径百余歩はない。しかしながら尾根全体を墳丘と見れば、まさに径百余歩の大きさである。箸墓は玉手山のこの古墳を模して築造されたのである。したがって箸墓の後円部も径百余歩となる。
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前方後円墳の前方部が尾根の形を模した物であることを理解できたのは、いくつかの前方後円墳を登って踏査した体験と、玉手山の尾根をたどった時に起きた、身体的な体験であった。
私たちは、ついつい前方後円墳の、その特異な平面形に目を奪われる。多くの論者は、その平面形を問題にする。だが立体としてとらえて、その側面形に注目する必要がある。

余談ではあるが、前方後円墳の多くが立ち入り禁止であったり、立ち入っても樹木で見通しがきかず、全体像を把握しづらいものが多い。
前方後円墳の形を身体的体験で理解できる、おすすめの古墳がある。奈良県天理市柳本町にある、黒塚古墳である。黒塚古墳は、33面の三角縁神獣鏡が出土した三世紀末から四世紀初頭の前方後円墳である。
古墳周辺は公園として整備され、墳丘へ登ることも可能である。大きさも一望で見渡せ、前期の前方後円墳の形を理解するにはうってつけと考える。

箸墓の被葬者

箸墓は誰の墓かである。箸墓は卑弥呼の墓でも台与の墓でもない。
倭途途日百襲媛の墓である。倭途途日百襲媛は七代孝霊の皇女とされる女性である。

それではなぜ、一介の皇女にすぎない倭途途日百襲媛のために、これだけの巨大古墳が造られたかである。
先ず倭途途日百襲媛の出自を追ってみる。
倭途途日百襲媛の母親を、『日本書紀』は倭国香媛(やまとのくにかひめ)とし、またの名を絙某姉(はえいろね)とする。一方『古事記』は、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)で、またの名を蠅伊呂泥(はえいろね)とする。ここで問題になるのは、『記紀』共に、倭国香媛や意富夜麻登玖邇阿礼比売と「はえいろね」を同一人物とすることである。だが倭国香媛や意富夜麻登玖邇阿礼比売と「はえいろね」は、同一人物ではない。
詳しくはこちらhttp://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/4-4-ooyamatokuniarehime.htm

倭途途日百襲媛は、私が卑弥呼とする宇那比姫命の姪の娘である。また台与とは従姉妹である。
こちらがその系図である。
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卑弥呼という邪馬台国の女王の血筋を色濃く引き継ぐ女性であることが解る。
それでは崇神は、なぜ一介の皇女に過ぎない倭途途日百襲媛もの墓を、かくも盛大に造る必要があったかである。
崇神は必ずしも王権の筆頭継承者ではない。崇神の異母兄に彦湯産隅(ひこゆむすみ)という人物がある。開化と竹野媛の間に生まれた児である。竹野媛を『日本書紀』は、開化の妃とするが、単なる妃ではない。大倭姫(おおやまとひめ)という『魏志倭人伝』に登場する台与でもある。
詳しくはこちらhttp://yamatai.sblo.jp/category/777033-1.html

彦湯産隅は台与という女王の児で、崇神はこの彦湯産隅をさしおいて王位に就いたのである。
崇神は、自分がこの王権の正当な継承者であることを、世に示す必要があった。卑弥呼の血筋を色濃く引き継ぐ、倭途途日百襲媛の墓を盛大に造ることによって、自分がこの王権の継承者であることを誇示したのである。
崇神の時代であれば卑弥呼の墓は、多くの人が知るところである。その墓を模して造ることによって、卑弥呼王権を引き継ぐ者であることを主張したのである。
ちなみに彦湯産隅の墓はこちら
http://yamatai.sblo.jp/article/178094614.html
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2018年06月14日

桜井市茶臼山古墳の被葬者

桜井市茶臼山古墳から出土した玉丈を大王の持ち物として、この古墳を大王墓とする説がある。
だが私は大王墓ではないと考える。大和朝廷を支えた有力豪族の墓と考える。それではその被葬者は誰かである。

桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳は物部氏の古墳であろう。
物部氏とこの二つの古墳を結びつける理由は次の四つである。
一つは、『先代旧事本紀』物部氏系譜によれば、この一族は歴代の天皇に仕え、その要職にあったとする。これだけの巨大古墳を造ることが出来たのは、先に挙げた、倭国造(やまとのくにのみやつこ)の倭氏と物部氏以外見当たらない。
二つ目は、物部氏は強力な軍団でもある。桜井茶臼山、メスリ山古墳から出土した大量の武器類は、被葬者が軍団の長であったことを物語る。物部氏という氏族の性格と一致する。
三つめは、崇神の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、三輪山の麓、金屋とされる場所である。崇神は物部氏が擁立した天皇である。母親は伊香色謎という物部氏の女性で、弟の伊香色雄(いかがしこお)は、開化時代の大臣で、崇神の時代にも要職にある。
物部氏の居留地は元は大阪平野の東の端、現在の東大阪市から奈良県の生駒市あたりである。だがこの時代になれば宮の近くに居住していたと思われる。むしろ擁立した天皇の宮を自分たちの居住地の近くに造営したであろう。桜井茶臼山、やメスリ山古墳のある桜井市磐余(いわれ)は崇神の磯城瑞籬宮に近い。
四つめは、桜井茶臼山古墳の被葬者を饒速日命(にぎはやひのみこと)とする伝承がある。饒速日命は物部氏の祖とされる人物である。もちろん桜井茶臼山の築造は、三世紀末頃で饒速日命の時代とは一致しない。だが桜井茶臼山古墳の被葬者を、物部氏の祖とされる饒速日命とする伝承に、この古墳が物部氏と関わる古墳であることを暗示する。

私は桜井茶臼山古墳の被葬者は伊香色雄(いかがしこお)と考える。伊香色雄は九代開化の大臣(おおみ)、十代崇神の大連(おおむらじ)である。大連は五大夫より上位の官位で最高の位である。崇神の時代には「物分かつ人」という経済的な裁量権を持っている。また物部氏は強力な軍事集団でもある。桜井茶臼山古墳に大量の武器類が副葬されていたことも理解できる。
写真は桜井茶臼山古墳の墳頂部
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メスリ山古墳も、やはり物部氏の墓であろう。その被葬者は確定できないが、築造の時期が、崇神陵とされる行燈山古墳よりも早いとすれば、伊香色雄の兄弟あたりが考えられる。

西殿塚古墳と桜井茶臼山古墳とはほぼ同じ規模の古墳である。倭氏と物部氏という大和朝廷の二大勢力が競って箸墓に次ぐ巨大古墳を築造したことになる。
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西殿塚古墳の被葬者

先に私は西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳を大王の墓ではないとした。
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大和朝廷の臣下の墓とする。それでは西殿塚古墳は誰の墓か。
西殿塚古墳が立地する場所は倭氏の墓域である。西殿塚古墳を最大としてこの近辺に百メートルを超える、東殿塚古墳(全長一七五m)、中山大塚古墳(全長約一三〇m)下池山古墳(全長約一三〇m)馬口山古墳(全長約一一〇m)など、古墳時代前期の前方後円墳が造られる。大和古墳群(おおやまとこふんぐん)と称される古墳群である。
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比較的狭い範囲に存在するから、これらは同族の古墳であろう。この地域でこれだけの巨大古墳を造る事ができるのは倭氏をおいて他にない。倭氏は倭国造(やまとのくにのみやつこ)という大和朝廷のお膝元、を支配した氏族で大和朝廷を支える豪族の一つである。西殿塚古墳は倭氏の誰かの墓として間違いない。現在宮内庁は、西殿塚古墳を継体天皇(けいたいてんのう)の皇后、手白河皇女(たしらかわこうじょ)とする。だが手白河皇女は六世紀前半頃の人で、西殿塚古墳の築造年代とはかけ離れる。手白河皇女の墓ではない。

西殿塚古墳の被葬者として、該当するのは崇神時代の人とされる市磯長尾市(いちしながおち)である。
市磯長尾市は崇神時代、倭大国魂神(やまとのおおくにたまかみ)を祭ったとされる人物である。現在倭大国魂神を主祭神とする神社がある。天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ)である。大和神社は倭氏によって祭られてきた神社で、西殿塚古墳はこの大和神社の東一km強の所に存在する。
古墳の被葬者を確定することは難しいが、市磯長尾市は、『日本書紀』にも登場する崇神時代の高官である。活躍した年代と古墳の築造年代から西殿塚古墳古墳の被葬者を市磯長尾市とする。
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2018年05月29日

謎が一つ解けた

私にはこれまで腑に落ちない事があった。
十代崇神は『日本書紀』が、御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称する、特別な天皇である。にもかかわらず崇神陵とされる行燈山古墳(あんどんやまこふん)は、箸墓古墳(はしはかこふん)や、メスリ山古墳より全長は小さいのである。行燈山古墳が本当に崇神陵なら、なんとも腑に落ちない事実である。

天理市から桜井市にかけて、古墳時代初期の全長200mを越える巨大古墳が立ち並ぶ。北から西殿塚古墳(にしとのつかこふん)、行燈山古墳、渋谷向山古墳(しぶたにむこうやまこふん)、箸墓古墳、そしてやや離れて桜井茶臼山古墳(さくらいちゃうすやまこふん)、メスリ山古墳である。
これらの古墳を図に描いてみて、その疑問が解けた。
前方後円墳は特異な形をする。しかし墓としての主要部分は、後円部である。後円部の大きさが重要であった。
崇神陵は、全長において箸墓古墳やメスリ山古墳よりも短いが、後円部の大きさはこれらより大きいのである。
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後円部の大きさは、箸墓の直径150m→崇神陵の158m→景行陵の168mと新しくなるに従って徐々に大きくなる。また先行すると推測される、メスリ山古墳より確実に大きいのである。

更に興味深いことは、後円部の大きさは、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳より確実に大きいのである。
桜井茶臼山古墳とメスリ山古墳は、発掘調査が行なわれた、数少ない大型前方後円墳である。そこからは大量の副葬品が出土した。副葬品の多さ、豪華さからこれを大王墓とする説がある。だが私は、この二つは大王墓ではないと考える。なぜなら、『日本書紀』には、これらの古墳に該当する天皇が見当たらないからである。
私は、西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳を、大和朝廷の臣下の墓と考える。これらの後円部の大きさは、同時代の天皇陵を越えることはない。このことは、大王墓ではなく、臣下の墓とする私の推測を裏付ける。
前方後円墳の大きさを考える場合、その全長を問題にしてきた、私の考え方が間違っていたのである。重要なのは中核部である後円部の大きさであった。
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2018年04月06日

欠史八代天皇の実在証明

今日の日本古代史論者の多くは、欠史八代の天皇は実在しなかったとする。
だが私は、間違いなく実在したと考える。
そのことによって大和朝廷の始まりが、いつ頃かという考え方の相違となっている。そこで欠史八代天皇の実在を論証する。

『先代旧事本紀』物部氏系譜には、欠史八代の天皇がすべて登場する。中でも欝色謎(うつしこめ)は八代孝元の皇后となり、伊香色謎(いかがしこめ)は九代開化の皇后となったとする。

次の図は物部氏、三上氏、中臣氏の系図である。

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物部氏は三上氏と複数世代で、婚姻関係にある。更に三上氏は中臣氏と婚姻関係に有る。
婚姻関係にある人物は、同時代の人である。系譜上の世代位置に破綻はない。
このような関係を織り込んだ、架空系譜を創作することは不可能である。したがってこれらの系譜は、史実を伝える。物部氏系譜に登場する天皇は実在したのである。
もし実在を否定すると物部氏系譜はもちろん、物部氏とつながる三上氏系譜や中臣氏系譜も否定することになる。
物部氏系譜は、更に出雲色多利姫(いづもしこたりひめ)を通じ、出雲氏の系譜につながり、出雲氏系譜は、沙麻奈姫(さまなひめ)を通じて、三輪氏への系譜につながる。三輪氏の五十鈴依姫命(いすずよりひめ)は綏靖(すいぜい)の皇后、渟中底姫(ぬなそこひめ)は安寧(あんねい)の皇后となる。
このような系譜を、架空の系譜として創作することは、不可能である。これらの系譜伝承に登場する天皇は実在したのである。

posted by 曲学の徒 at 12:12| Comment(1) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫
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