2012年04月02日

卑弥呼の墓

 一歩は1.44mで径百余歩とは直径140m前後の円墳であろう。この写真の尾根の上に築かれた墳丘は直径22mくらいのものである。だが樹木が無ければ、尾根全体が墳丘に見えるはずである。これはまさに径百余歩の円墳である。

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尾根全体が墓域

 この尾根の300mくらい南に、直径20mの円墳がある。一見すると直径5mか6mくらいにしか見えない。だが盛り土の裾は尾根の中腹まで広がる。尾根の裾を意識して墳丘が築かれる。墳丘を築いた時には尾根の樹木はすべて切り払われていたはずである。尾根と墳丘は一体と見えるはずである。尾根全体が墓域である。私が卑弥呼の墓とする古墳も同様な構造を持つ。



玉手山という場所が重要

 この古墳の存在する場所が重要である。ここは六代孝安天皇が葬られたとする玉手山である。孝安は私が卑弥呼とする宇那比姫の義理の弟である。したがって卑弥呼の政治を補佐した男弟を孝安とする。卑弥呼もまた玉手山に葬られたとしても不思議は無い。

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木棺直葬石室は存在しない

『魏志倭人伝』は棺有るも槨無しとする。私が地中レーダー探査を行った範囲ではそこに石室のような物は確認できなかった。
画像は私が卑弥呼の墓とする墳丘の中心付近のレーダー画像である。
中央のグレーの縞模様は松の切り株による。石室らしきものは存在しない。木棺直葬であろう。

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この古墳は前方後円墳の原型

 山塊から張り出した尾根上に墳丘を築く。尾根は墳丘に至る墓道となる。したがって山塊側から墳丘に向かって緩やかに下る。
前方後円墳の前方部はこの尾根の形状を模したものである。平野部に造られる前方後円墳は山塊側の尾根を断ち切った形状である。初期の前方部がバチ状を呈するのはこの尾根の形状を残しているのである。

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殉葬はあるのか。

 私は『魏志倭人伝』の記述は事実を伝えていると考える。したがって奴婢百人の殉葬が有ったと考える。
その場所がある。私が卑弥呼の墓とする尾根の付け根に相当する場所である。県の遺跡地図で16−B-513の番号が振られた15mの円墳とされる場所である。
一般的な円墳のような高さは無い。よほど注意して観察しなければ、単なる自然の起伏と見過ごすような形状である。
当初私はこのあたりを何度も通っている。しかしそこが古墳であるとは気づかなかった。県の遺跡地図を見て気になり、確認のために現地を踏査した。そしてここが奴婢百人が殉葬された場所と確信した。
さすがにこの場所に立ったとき、鬼気迫るものを感じざるを得なかった。

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箸墓は径百余歩ではない


 今日箸墓を卑弥呼の墓と主張する人は多い。しかし全長280mの大きさの古墳を、径百余歩と見誤ることはなかろう。しかも後円部と前方部には二つの高まりがあり、鍵穴型の平面形状は、決して径というような表現が当てはまる古墳ではない。
この私の箸墓卑弥呼説に対する反論に対し、箸墓を卑弥呼の墓と主張する人たちは、径百余歩とするのは後円部を指して言った大きさとする。しかし前方後円墳は平面プランを持って築造される。最初から前方部も築造が開始されるはずである。段築はそれを物語る。後円部のみが先に完成するなどと言うことはあり得ない。

これ以外径百余歩に該当する古墳は無い
 
 我が国で、今日知られている円墳で最大とされるのは、埼玉県行田市の丸墓山古墳である。直径105mとされる。
したがって径百余歩に該当しそうな古墳は、この玉手山の円墳を置いて他には存在しない。
私はこれを卑弥呼の墓と確信する一つの理由である。
posted by 曲学の徒 at 16:01| Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2012年03月15日

秋津島宮が出現している

秋津遺跡の調査主体である橿考研の現地説明資料では、この遺構は四世紀前半の遺構とする。
しかし私は竪穴住居群は四世紀前半であっても、方形区画建物群は二世紀末あるいは三世紀前半までさかのぼると考える。

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その理由である。

竪穴住居が方形区画建物を切り崩す

すべての遺構で竪穴住居が方形区画建物を切り崩す。二つの建物群が混在したわけではなく、方形区画建物が古いのである。

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しかも方形区画建物は同一場所で3回は立替られる。その間に竪穴住居がそこに建てられる余地は無い。

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そして竪穴住居も少なくとも2回は建て替えられる。仮に20年毎に建て替えられたとすれば、この建物群の存続期間は100年を下らないであろう。

二つの建物群には時間差がある

方形区画建物の塀に沿って流路が存在する。区画建物と一体で、同時代の流路である。
不思議なことに竪穴住居のいくつかがこの流路の上に建てられるのである。

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このあたりは広大な平野部である。あえて湿潤な流路の上に住居を建てなければならない理由などない。
考えられるのは、流路がその機能を失い、干上がって埋没した後に、竪穴住居が建てられたと考えられる。
方形区画建物群と竪穴住居群との間には時間差がある。
方形区画建物が存続した期間、それに流路が埋没するまでの時間そして竪穴住居が存続した期間の合計は150年以上になるであろう。

竪穴住居が作られなくなった時期が四世紀の中頃とすれば、最初の方形区画建物が作られるのは三世紀初めあるいは二世紀末なのである。

方形区画建物は三世紀前半

方形区画建物が三世紀前半と言うことを裏付けるのが、多孔銅鏃の出土である。多孔銅鏃は二世紀前半から三世紀中頃の遺物とされる。これ1点のみなら何らかの理由で、古いものがまぎれ込んだという推測も成り立つかもしれない。しかしこの多孔銅鏃と同時代の東海系土器も出土しているのである。

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私は方形区画建物群の年代は三世紀前半までさかのぼると考える。

秋津島宮の一部または周辺の建物

ここは六代孝安秋津島宮の伝承地である。私は「男弟有て佐けて国を治む」とするこの男弟を孝安とする。したがって孝安の実年代は卑弥呼の在位年代に重なる。その実年代は三世紀前半である。
今この秋津島宮の伝承地あたりから、三世紀前半の特異な建物遺構が出土している。
私は秋津島宮、あるいは近辺の同時代の遺構と考えている。
posted by 曲学の徒 at 16:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 秋津遺跡

2011年12月26日

国立博物館に存在する卑弥呼の遺品

 東京国立博物館に卑弥呼の遺品と考えられる品がある。
中平の年号が刻まれた、後漢時代の鉄刀である。出土したのは奈良県天理市の東大寺山古墳からである。
おそらくこの刀は卑弥呼の朝貢に対する下賜品であろう。

中国大陸では後漢時代の鉄刀は何千と出土している。だが年次の刻まれた刀は2〜3振しか知られていない。
その1振りが日本列島から出土したことである。考えられるのは朝貢の際、相手から下賜された品という推測である。

この刀を発掘した金関 恕(かなせきひろし)氏は刻まれた文字の字体から次のような見解を述べる。
後漢の官営工房の字体は、様式化が進んだ隷書体(れいしょたい)となる。これに対し出土した刀の字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって後漢の官営工房の象嵌(ぞうがん)ではなかろうとする。後漢の都、洛陽以外の地で象嵌されたのではないかと推測する。

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この事から私は189年遼東王(りょうとうおう)を名乗った公孫度(こうそんたく)からの下賜品ではないかと考える。
公孫度は元は、後漢王朝の地方官に過ぎないが、後漢王朝の衰退に乗じて、遼東王を名乗り半独立国家を樹立したとされる。

 大和朝廷はこうした大陸の政治情勢に極めて敏感に反応する。
239年、卑弥呼が魏に使いを送るのも、魏が遼東の公孫氏を滅ぼし中国東北部の覇権を握った翌年である。また266年台与が西晋に使いを送ったのも、司馬炎が魏の支配地域を引き継ぎ、西晋を樹立した翌年である。
おそらく公孫度が、遼東王を名のった189年に、卑弥呼による公孫氏への朝貢が有ったと推測される。そしてその際下賜されたのが、東大寺山古墳出土のこの刀であろう。

なぜ卑弥呼の遺品が東大寺山古墳から出土した


 それではなぜその刀が東大寺山古墳から出土したのかである。
東大寺山古墳のある奈良県天理市櫟本(いちのもと)町あたりは、古代有力豪族、和邇氏(わにし)の住んでいた場所である。
東大寺山古墳は、この和邇氏の墓なのである。
和邇氏の祖は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)である。天足彦国押人命は、五代孝昭と尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)の長男である。
そして私が卑弥呼とする宇那比姫(うなびひめ)は、この天足彦国押人命の妻なのである。
したがって和邇氏の子孫は宇那比姫の子孫でもある。
宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼の遺品が出土したのである。このことは宇那比姫が卑弥呼であるこを裏付ける

posted by 曲学の徒 at 11:26| Comment(5) | TrackBack(0) | 中平銘鉄刀

2011年12月20日

初期大和朝廷の王都

記紀が伝える初期大和朝廷の宮

日本書紀や古事記が伝える初期大和朝廷の宮の場所は下記のようなものである。

1 神武 畝火之白檮原之宮
2 綏靖 葛城高丘宮
3 安寧片塩浮穴宮
4 懿徳軽曲峡宮軽之境崗宮
5 孝昭 掖上池心宮
6 孝安 室秋津島宮
8 孝元 軽之境原宮

詳しくはこちら
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/004/4-00010012.pdf

何れも奈良盆地の南である。宮が現在の奈良市や桜井市などの奈良盆地東北部に移るのは、九代開化以降である。
初期大和朝廷の宮は奈良盆地南部なのである。
中でも、現在の御所市には二代綏靖の高丘宮、五代孝昭の掖上池心宮、六代孝安の室秋津島宮が存在したという伝承を持つ。御所市近辺は初期大和朝廷の源郷の地なのである。

秋津島宮が出土する

問題はこの日本書紀や古事記の伝承を、歴史的事実として信じるか否かである。
今日の研究者の大部分は、欠史八代の実在を信じない。したがって室秋津島宮や掖上池心宮の実在を信じるはずも無い。

今その秋津島宮伝承地の近くから、方形区画と称される、特殊な建物遺構群が出土した。一地方豪族の建物遺構とするにはその規模が広大である。

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しかもそこから、東海地方の土器を始め、瀬戸内海周辺や中国地方の土器が出土している。それはここが初期大和朝廷の王都で在ったことを示唆する。


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そしてこの遺構の年代は、多孔銅鏃や、それと同時代と思われる東海系土器片などから、3世紀前半あるいは2世紀末までさかのぼる可能性がある。

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もちろん現在出土している方形区画は、秋津島宮そのものではない。だが更に西南に調査が進めば、秋津島宮の本体が出土する可能性がある。

宮室、楼観、城柵が出土すると予想する

単に大和朝廷の歴代天皇の宮が出土したと言うだけなら私もこれほどむきに成ることはない。調査を行って、記録に残し、埋め戻す事もやむを得ない。
だが私は秋津島宮こそ卑弥呼の王宮と考えている。広範囲に発掘調査を続ければ、『魏志倭人伝』に記された、宮室、楼観、城柵が出土すると予想する。
出土した遺構が豪族居館跡というような、認識で埋め戻されることに異を唱えなければならないと考える。



posted by 曲学の徒 at 12:45| Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼の王宮、秋津島宮

2011年11月03日

尾根全体が墓域

下の航空写真は、私が径百余歩とする尾根の隣の尾根である。

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視差のある写真を2枚並べて、立体視する裸眼立体視という方法がある。
右目で右の画像、左目で左の画像を注視する。モニターからの距離は25cmくらい。焦点は合わせなくぼーっと見つめる。それぞれの画像の中心あたり、樹木の無い地面がむき出しになったあたりを見つめる。
左右の画像が真ん中に寄ってくるような感覚を覚え、左右の画像が重なったように見えれば成功である。平行法という裸眼立体視法である。詳しくはネットで「裸眼立体視」で検索してみてくれ。

視線を画像下部の建物屋根に移すと、建物の屋根が飛び出しているように見えるはずです。この画像は大きな視差がある為、高さ方向が極端に強調された立体となる。

今まで、盛り土の範囲確認するため、何度か踏査を行った。だが今一つ明確にできなかった。
ところうがこの立体視法を用いれば、盛り土の範囲が明瞭に確認できる。
おおよそ長軸方向で50m、短軸方向25mくらいの楕円である。明らかに尾根全体を墓域とする、盛り土である。

こちらは樹木がまばらで地表の様子が良くわかる。
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慣れたら下の画像でも試してください。
右側の尾根は、中心に直径5〜6mの盛り土を為す。全体では直径20mの円墳である。
これもまた尾根全体を墓域とする。

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次は私が径百余歩とする円墳である。あまり良い画像ではないので少し解りづらいが、この円墳は中心部に、約直径22mほどの盛り土を為す。だが更に盛り土の範囲は広がるのではないかとも思われる節がある。

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下の写真で、白線の円が直径約22m。左側の写真を良く見ると、黄色線で描いた円のあたりに、傾斜変更点がありそうな気もする。ここまで盛り土の範囲は広がるのではないかとも考える。再度藪を刈り払い傾斜変更点を確認する必要がある。

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posted by 曲学の徒 at 23:34| Comment(0) | TrackBack(0) | 孝安天皇陵