2017年05月07日

卑弥呼の系譜

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この人が卑弥呼

丹波の支配者系図を伝える、海部氏の『勘注系図』という系図がある。その系図の六世孫に宇那比姫命(うなびひめのみこと)とい名を記す。宇那比姫命のまたの名として、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たかのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。何れも一人の女性の別名である。

先ず注目されるのは大倭姫(おおやまとひめ)である。
『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。
この女性は天皇と同格の、大倭(おおやまと)の名前を持つ。
「やまと」という言葉は現在の奈良県あたりを意味する地域名と、そこに政治の中心が在った時代、支配地域全体を指す国名でもある。国名として明示的に指す場合は「やまと」に「大」を付けて「おおやまと」と呼ぶ。漢字表記は「大倭」である。大倭姫は大和朝廷の最高権力者を意味する女王の名でもある。
さらにこの人は天造日女命(あまつくるひめみこと)という、尊大な名前を持つ。
律令制が敷かれる前の時代、大和朝廷により任命された、地域支配の長を国造(くにのみやつこ)と言う。この「造」には支配者の意味がある。「天」は天下であるから、天下を支配した姫君という意味である。
そしてまた、大海靈姫(おおあまひるめひめ)という巫(みこ)姫の名を持つ。『魏志倭人伝』は卑弥呼が「鬼道(きどう)」に長けていたことを伝える。この人もまた靈姫(ひるめひめ)という宗教的色彩を帯びた名前を持つ。
最後は日女命(ひめみこと)である。読みは「ひめみこと」であろうが、異国の人がこの音を『卑弥呼』と書き表しても不思議はない。
日女(ひめ)とは後の「姫」「媛(ひめ)」などと同じ、高貴な女性を指す普通名詞である。この日女に「命(みこと)」という尊称がついたのが日女命である。
大倭姫、天造日女命、大海靈姫命、日女命とくれば、この人はまさに『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の女王、卑弥呼である。

台与も登場する

『勘注系図』は宇那比姫の二世代後に、天豊姫命(あまとよひめのみこと)という女性を記す。この女性もまた大倭姫命の別名を持つ。
『魏志倭人伝』は卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が従わなかったとする。そのため千人ほどが死ぬ戦乱となる。そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与が擁立され、ようやく国が定まったとする。
天豊姫の「天(あま)」は、この一族に付けられる姓のようなものであるから、名前は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与の音と同じである。
天豊姫と宇那比姫は共に尾張氏の女性で同族の人である。『魏志倭人伝』が伝える「宗女」なのである。
天豊姫命の父親は、建諸隅(たけもろずみ)である。『勘注系図』は建諸隅の亦の名を由碁理(ゆごり)とする。由碁理という名前は『古事記』にも登場する。九代開化(かいか)の妃になった竹野姫(たかのひめ)の父親である。彼を丹波大縣主(たんばのおおあがたぬし)とするから、『勘注系図』という丹波の系図に登場することに不思議は無い。建諸隅命は由碁理(ゆごり)とみて間違いない。
だとすると天豊姫命は『日本書紀』や『古事記』が開化の妃とする、竹野媛である。
『勘注系図』は建諸隅命の注記に次のように記す。
建諸隅命は開化の時代、丹波の與余社郡(よさのこおり)に竹野姫(たかのひめ)の屯倉(みやけ)を置いて奉仕したとする。屯倉とは天皇家の私有地のことである。この事からもここに登場する竹野姫は、天皇家の人で『記紀』が開化の妃とする竹野媛であることが解る。

卑弥呼の出自は葛城高尾張

『勘注系図』では、宇那比姫を系図の端の方に六世孫として単独で記すのみで、系図の中でどのようにつながるのか不明である。だが『先代旧事本紀』尾張氏系譜を見ると、宇那比姫命の父親は建斗米、母親は紀伊氏の中名草姫であることが解る。更に宇那比姫命は建田背命を長男とする七人兄妹の一番末の娘である。
尾張氏は元は葛木高尾張と称された、現在の奈良県御所市近辺に居た一族である。愛知県の尾張氏もこの一族の後裔である。
宇那比姫は建斗米という尾張氏の当主の娘である。宇那比姫すなわち卑弥呼は、葛木高尾張の人である。その尾張氏の娘が『勘注系図』という丹波の系譜に登場するのは、丹波の人にとっても宇那比姫は特別な人であったからである。
またこの尾張氏は、葛城国造の葛城氏と何世代に渡って婚姻関係にあり強い縁戚関係にある。

卑弥呼の夫

『勘注系図』と『先代旧事本紀』尾張氏系譜の他に、もう一つ宇那比姫が登場する系譜がある。
静岡県磐田市國玉神社の大久保家につたわる系譜である。
大久保家は和邇氏に始まり、古い時代の和邇氏系譜を伝える。そこに次のような記述を見る。
『押媛命(おしひめのみこと)(一に忍鹿比売命(おしかひめのみこと)、母は建田背命(たけだせのみこと)の妹、宇那比媛命也)』とする。
押媛命とは天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の娘とされる。母親を宇那比媛命とするから宇那比媛命は天足彦国押人命の妻ということになる。宇那比媛命を建田背命の妹とするから尾張氏の宇那比姫命で間違いない。

卑弥呼の王宮は室秋津島宮

この系譜によってとてつもない事実が明らかになる。天足彦国押人には倭足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと)、すなわち六代孝安天皇という弟がある。孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟となる。
『魏志倭人伝』は卑弥呼には「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする。宇那比姫命には六人の兄弟があるがすべて兄で弟は居ない。弟に該当するのは義理の弟、孝安である。『魏志倭人伝』が伝える男弟とは孝安に他ならない。
孝安の宮は室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)とされる。秋津嶋宮は卑弥呼の王宮なのである。室とは奈良県御所市の南郊外である。京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、室(むろ)の場所から特異な建物遺構が出土した。私はこの遺構こそ卑弥呼の王宮の一部と考えている。


箸墓の被葬者

この卑弥呼系譜から興味深い事実が読み取れる。箸墓古墳の被葬者とされる倭途途日百襲媛(やまとととひひもしひめ)の系譜である。『勘注系図』は建諸隅命の妹に、大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)という名を記す。倭途途日百襲媛の母親と思われる人物である。『古事記』の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)と同一人物と考える。
『日本書紀』では倭国香媛(やまとのくにかひめ)とされる人物で、またの名を蠅伊呂泥(はえいろね・はえ某姉)とする。七代孝霊の妃となって倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)を生んだとされる。
『記紀』は蝿伊呂泥(はえいろね)と意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、あるいは倭国香媛(やまとのくにかひめ)は同一人物とする。
しかし蝿伊呂泥が登場する楽家系図に、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命という人物や、倭国香媛という名前は出てこない。また『勘注系図』には大倭久邇阿禮姫命と国香姫命の名を見るが、蝿伊呂泥や蝿伊呂杼は無い。共に孝霊の妃または皇后となった女性であるが別人と考えている。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/4-4-ooyamatokuniarehime.htm
倭途途日百襲媛は、台与すなわち開化の妃とされる竹野媛と、従妹の関係にある。したがって箸墓は卑弥呼の墓でも台与の墓でもない。
posted by 曲学の徒 at 14:06 | Comment(1) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

2017年03月13日

秋津遺跡の消滅と尾張氏の衰退

秋津遺跡から古墳時代前期とする特異な遺構が出土した。この遺構は四世紀の後半で終わる。私は秋津遺跡の消滅とこの地域の尾張氏の動静が不明になることと深いかかわりがあると考えている。そこでこの地域の歴史を系譜伝承から探る。
秋津遺跡のある御所市は、古代において葛城上郡(かつらぎのかみのこおり)と称される地域である。
この葛城上郡の歴史を考える上で理解しておかなければならないことがある。

葛城国造という葛城氏と、武内宿禰の子、葛城襲津彦に始まる葛城氏は、異なる葛城氏である。後者が葛城氏と称されたかどうかも定かではない。
葛城国造の葛城氏は神武が大和朝廷を樹立した時、この地域の国造に任じられた氏族で二世紀初頭に始まる。
四世紀の後半になってこの地域で武内宿禰やその子供、葛城襲津彦の葛城氏が台頭する。五世紀初頭に宮山古墳を築いた豪族である。
葛城襲津彦は、その父親竹内宿禰が、葛城国造の女、葛姫を娶り生んだ子とされる。したがってこの葛城国造と無関係ではないが異なる葛城氏である。
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武内宿禰や葛城襲津彦がこの地の有力豪族となる前は、尾張氏がこの地の有力豪族であった。尾張氏の歴代の男子が葛城国造の女性を娶る。葛城国造と尾張氏は深い縁戚関係にある。
したがって四世紀中ごろまでは、この地域は葛城国造家と尾張氏の支配地域である。ところうが四世紀の中ごろを境にして、この地域の尾張氏の動静が系譜の上でたどれなくなる。これは四世紀の後半秋津遺跡が消滅することと深くかかわると考える。

尾張氏の系譜には次のような系譜の断絶がある。『先代旧事本紀』の尾張氏系譜でも、海部氏の『勘注系図』でも四世紀中ごろの十世孫を境に、葛木高尾張を本拠地とする尾張氏の系譜が途絶えてしまう。それ以降の系譜は、現在の愛知県に移った尾張氏の系譜となる。本家とも云うべき葛城に居た尾張氏の系譜が消えてしまうのである。
十世孫とされる人物たちは、おおよそ十三代成務朝時代の人である。この時代まで尾張氏と成務との関係が確認できる。ところうが十一世孫乎止与命という人物から、系譜は愛知県に移った尾張氏の系譜となる。
十世孫と十一世孫の間に系譜の断絶がある。ここを境に尾張氏の本家とも云うべき葛城高尾張に居た尾張氏の系譜が不明になるのである。私はこの系譜の断絶と秋津遺跡の終りとの間に深い関係があると推測する。


一四代仲哀亡き後武内宿禰は、仲哀の皇后神功と応神を担いで神功、応神朝を主導する。
この神功応神朝の樹立を境に、大和朝廷の権力構造は大きく変わるのである。
それまで大和朝廷の中枢であった尾張氏は、この神功応神朝を境に没落したと推測する。神功応神朝の成立とともにこの地域の尾張氏は滅び、替わって武内宿禰がこの地域の支配者として台頭したと考える。そして五世紀初頭には宮山古墳という全長230mの前方後円墳をこの地に出現させるのである。

宮山古墳を築いた氏族と秋津遺跡の住民とは関係のない氏族なのである。秋津遺跡は尾張氏と関わる遺構である。したがって武内宿禰や葛城襲津彦に始まる葛城氏との関係では秋津遺跡を理解することは出来ない。



posted by 曲学の徒 at 11:25 | Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史

2017年02月17日

警告

昨年何者かによって玉手山の古墳が荒らされている。
地図の×印の場所を掘っている。複数の者による度々の仕業である。
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文化財保護法違反の犯罪である。御所市派出所に届けた。今後スコップなどを持って玉手山に入ると警察に通報されます。
posted by 曲学の徒 at 16:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2016年12月19日

椿井大塚古墳の被葬者は彦由牟隅

写真は木津川市の椿井大塚古墳後円部から前方部を撮ったものである。前方後円墳の断面を見られる特異な古墳である。奈良線が後円部の半分を切り裂く。
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私はこの古墳の被葬者は彦由産隅(ひこゆむすみ・比古由牟須美命)であると考える。
彦由産隅は竹野媛と開化の子供とされる。彦由産隅の子供が大筒木垂根である。
大筒木垂根は現在の京都府京田辺あたりの人で、京田辺市普賢寺御所内にある王居谷古墳が、大筒木垂根の墓とされる。
椿井大塚古墳は木津川を挟んで、王居谷古墳の対岸南東6Kmくらいの所にある。椿井大塚古墳は大筒木垂根がその父、彦由産隅の墓として築いたと私は考える。

椿井大塚古墳から、三角縁神獣鏡32面をはじめ、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。
古墳時代の前期初頭で、これだけの鏡を副葬する人物は王権の相当高位の人物である。彦由産隅は私が台与とする、天豊姫と開化の子供である。この人物であればこれだけの鏡を副葬されたとして不思議はない。
出土した鏡は36面だけではなさそうである。出土は奈良線の拡張工事によるもので偶然の発見である。出土時に持ち去られた鏡が返却されたとされるが、すべて返却されていない可能性がある。

現在三面の青龍三年銘方格規矩四神鏡が知られている。中国の有名な考古学者王仲殊氏は、この鏡は卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百面の一つであるとする。
私は鏡の事はまったく解らないが、たぶんそれで間違いないと思う。
三面の青龍三年銘鏡の内一面は、京都府京丹後市太田南5号墳出土である。二つ目は大阪府高槻市安満宮山古墳である。
三つ目は出土地不明で個人蔵である。私はこの出土地不明の一面は、椿井大塚古墳からの出土と推測する。

なぜなら椿井大塚古墳の被葬者、彦由産隅は由碁理の孫である。魏に使いした都市牛利、すなわち由碁理たちが持ち帰った、鏡の一部を持つているはずと考えるからである。

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この鏡は個人蔵である。持ち主は出土地について、ご存知なのではないかと思う。盗品であれば、その入手した事情を話すわけにはいかない。だがもし私の推測、椿井大塚古墳出土が当たっていれば、明らかにしてほしいものである。
卑弥呼が受け取ったとされる銅鏡がどの鏡であるか明らかになるからである。わたしはこの三面の鏡は間違いなく、丹波の大縣主由碁理すなわち、239年卑弥呼の使いとして魏に赴いた、牛利につながっていると考えるからである。
posted by 曲学の徒 at 16:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷

2016年12月08日

丹波は大和朝廷の鉄資源入手窓口

今日大和朝廷成立に至る仮説として、多くの識者から支持を集める白石太一郎氏の仮説がある。だが私は、まったくありえない仮説として、この説に反論する。

下記に記したのが白石太一郎氏の著書「古墳の語る古代史」の一節である。

「古墳出現の前提となる広域の政治連合の形成は、朝鮮半島南部の弁辰(伽耶地域)の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートの支配権をめぐる争いと関係している。すなわち、このルートを一手に掌握していた奴(な)国、伊都(いと)国など玄界灘沿岸地域と争うために、これらの国よりさらに東方の豊前、吉備、讃岐、畿内などの瀬戸内海沿岸各地のが同盟関係を結んだ。畿内・瀬戸内連合による玄海灘地域の制圧の結果成立したのが、邪馬台国を中心にする、いわゆる邪馬台国連合にほかならない。」

私の反論である。


第一点は大和朝廷の政治的支配は、大和朝廷成立の当初から九州の一部に及んでいたことである。それは倭国大乱より前である。

第二点は畿内大和朝廷の鉄資源入手ルートは、瀬戸内海経由ではない。入手の窓口は丹波である。

鉄資源入手の経由ルートは朝鮮半島から対馬、壱岐を経由し北九州に至る。そして山陰の日本海側を経由して丹波に至るのである。北部九州を経由したことは間違いないが、北部九州の一部は大和朝廷成立の当初からすでに、大和朝廷の政治的影響下にある。

『先代旧事本紀』の国造本紀は、神武の時代対馬に建彌己己命(たけみここのみこと)を津島県直(つしまあがたのあたえ)として任命する。
大和朝廷成立直後に対馬に県主(あがたぬし)が置かれるのである。半島へのルート確保の意図がうかがえる。神武時代の任命として国造本紀に登場するのは、九州では対馬と宇佐のみである。ただし対馬は国造ではなく県主である。国造本紀の中で県主が登場するのはここ対馬のみである。
対馬市厳原(いずはら)町には建彌己己命を祀る銀山上(ぎんざんじょう)神社がある。

また『魏志倭人伝』は伊都国に一大卒を置き、周辺諸国を検察していたとする。諸国はこれを畏れ、それは刺史の如くであったとする。刺史とは中国王朝が派遣する監察官である。魏の時代には郡太守に勝る権限を持ったとされる。
また「世有王、皆統屬女王國」とする。皆とする訳であるから、伊都国の王は代々女王国に統屬していたのである。
「統屬」という言葉は、支配と被支配の関係である。連合などという対等の関係などではない。この記述は二四〇年の見聞に基づくものであろうから、それ以前から伊都国王は何代にも渡って、邪馬台国すなわち後の大和朝廷に統屬しているのである。大和朝廷の政治的影響は北部九州に及んでいるのである。

大和朝廷の鉄資源入手の窓口

大和朝廷鉄資源入手の窓口は丹波である。丹波は早くから大陸と交易を行っている。丹後半島の西側に久美浜湾が広がる。久美浜湾は自然の良い港となる場所である。ここ久美浜湾の日本海側に函石浜遺跡という、縄文から室町時代まで断続的に続く遺跡がある。この遺跡からは貨泉や銅鏃、鉄鏃などの大陸からの輸入品が採取されている。中でも貨泉は紀元八〜二三の新王朝時代の物であり、ここは古くからの港湾機能を有した遺跡と考えられている。
一方興味深いのは『日本書紀』の垂仁紀に田道間守(たじまもり)が香果(かぐのみ)を求めて常世(とこ)の国へ出かけた事を記す。函石浜のある地元では、田道間守が帰国にあたってこの函石浜の港に上陸したという伝承を残す。もしこの伝承が史実を伝えるものであれば、ここは大和朝廷にとって大陸への窓口なのである。

それではなぜこの丹波が、大陸との交易の窓口となったのかである。
私は二つの理由があると考える。
一つは、貨泉という一世紀代の大陸系遺物に見るように、この地の人たちは早くから大陸に至る航海技術を有していたことである。
二つ目は、丹波は交易の対価となる水晶加工品の産地であったことによる。鉄資源入手には、何らかの交換の品物が必要である。大陸の人が欲しがる日本列島産の産物は、そう多くはなかろう。数少ない交易品の一つとして水晶の小玉が用いられた。衣服に縫い付けて飾りとしたとされる。弥生中期の峰山町奈具岡(なぐおか)遺跡には水晶を加工した玉造工房と、鉄器を加工した遺構や鉄器が出土している。丹波では鉄素材入手のための、交易品となる水晶加工製品の生産が行われていたのである。また入手した鉄素材の加工も行われていた。


大和朝廷はこの丹波を直接支配している

私が卑弥呼とする宇那比姫命の兄、建田勢命が丹波支配に赴いている。そのことを記す系図がある。『勘注系図』である。『勘注系図』は次のように記す。

「大日本根子彦太瓊【おおやまとねこひこふとに・孝霊】天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國」

建田勢命が孝霊の時代丹波の宰(みこともち)と為って丹波に赴いたとする。
建田勢命は宇那比姫命すなわち卑弥呼の兄である。王権の最有力者が何のために、丹波支配を行ったかである。それは丹波が大陸への窓口であり、鉄資源などを入手する重要な拠点であったからである。
更に建田勢命の子供建諸隅命(たけもろずみ)も丹波支配に当たる。建諸隅命は亦の名を由碁理(ゆごり)と称す。『古事記』開化天皇条に、「この天皇、旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」とある。由碁理は竹野媛の父親で、竹野媛のまたの名を天豊姫と言い『魏志倭人伝』の台与である。卑弥呼の後に女王になった台与の父親は建諸隅命で、この人物が丹波大縣主として丹波支配に当たっている。建田勢命、建諸隅命という王権の中枢の人物が直接丹波を支配したのである。それは大和朝廷にとって、丹波は鉄資源入手のため大陸につながる重要な拠点なのである。

建田勢命が館を構えたとする伝承地がある。

私は2005年頃、初めて丹波を訪れた。その時たまたま出会った地元の方に、建田勢命の館跡を訪ねると、親切に現地近くへ案内してくださった。そのときは館跡とされる場所を見下ろす林道上に案内された。林道から見下ろす崖下あたりが伝承地と教えられた。しかし竹やぶや獣除けフェンスに阻まれ現地に降りることは出来なかった。
2015年9月再度ここを訪れた。今回は林道の下側からアプローチした。山塊から流れ出た小さな谷がやや開けた扇状地を形成する。その山際の竹藪の中に土段状の場所を見た。一見すると方形墓のようにも見えるが山側はそのまま山の斜面へと続くので方形墓ではない。
ここが建田勢命の館跡であろうと推測した。
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現地を訪れる前はなぜこんな場所にという疑念があった。現地を見て疑念は晴れた。ここは小さな谷が東から流れ出るやや開けた場所である。その北側斜面を背にした南向きの場所である。このあたりでは数少ない南向きの立地となる。しかも前を小さな小川が流れ、水の便が良い。しかも古い時代には、久美浜湾に注ぐ川上谷川の河口が、この近くまで及んでいたとされる。このあたりは波静かな湾の最深部で、船の出入りには都合の良い場所である。
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丹波支配の拠点は建諸隅命の時代になると現在の京丹後市竹野町に移る。ここもまた、かっては竹野川河口に広がる入り江か潟湖が有ったとされる。

建田勢命の館跡とされる場所から300mほど南の矢田神社は、建田勢命とその子供建諸隅命を祀る。
神社伝承によれば、垂仁の時代川上麻須が創建したとされる。『勘注系図』によれば川上麻須は建諸隅命の子ともされる。
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posted by 曲学の徒 at 14:38 | Comment(1) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷