2018年09月04日

ここまで解った『魏志倭人伝』の登場人物

dannsi.gif

卑弥呼=宇那比姫
葛木高尾張(現在の奈良県御所市)に居た、尾張氏の当主、建斗米命(たけとめのみこと)の娘。母親は紀伊国造(きいのくにのみやつこ)の女性、中名草姫(なかなくさひめ)。
五代孝昭亡き後、王位を巡る戦乱を経て、幼少で王位に擁立される。
孝昭の皇后は、尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)。兄の瀛津世襲(おきつよそ)は、大臣(おおみ)。孝昭時代尾張氏は大和朝廷の有力な豪族の一つである。その関係で尾張氏の宇那比姫が王位に擁立された。
宇那比姫は、後に孝昭の皇子、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)と夫婦となる。子供は和邇日子押人と、押媛(忍鹿比売)。
天足彦国押人の弟が六代孝安天皇。孝安は宇那比姫の義理の弟。『魏志倭人伝』が「男弟有りて佐(たすけて)国を治」とする男弟である。したがって卑弥呼の王宮は、孝安の宮、室秋津島宮(むろのあきつしまみや)。
京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、秋津島宮伝承地から、堅固な塀に囲まれた高床式の建物群が出土した。炭素年代測定値は、卑弥呼の時代であることを物語る。
またこの場所の北東、一kmほどの玉手山に、径百余歩の円墳が存在する。玉手山は孝安が葬られたとする山で、これこそが卑弥呼の墓である。

〔卑弥呼を補佐した男弟〕
男弟=六代孝安天皇
孝安は宇那比姫命の義理の弟。『魏志倭人伝』が「男弟ありて佐(たすけて)国を治』とする男弟。孝安の宮は室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)。室(むろ)とは、現在の御所市室で、ここが孝安の宮であり、卑弥呼の王宮でもある。京奈和自動車道御所南インターから出土した秋津遺跡は、この秋津嶋宮の一部である。
孝安の墓は、径百余歩とされる卑弥呼の墓の南側に存在する。

〔辞を傅出入りした男子〕
男子=七代孝霊天皇
『魏志倭人伝』が「唯有男子一人給飮食、傳辭出入」とする男子とは七代孝霊。
従来「給飲食」を、卑弥呼の食事の世話をしたと解釈する説が多い。だが、この「給」は「たまう」と読んで、卑弥呼と一緒に食事をすることができた男子である。また「傳辭出入」とは、この男子一人が、卑弥呼の言葉を伝えて、出入りしていたのである。
孝霊は宇那比姫命の孫である。孫であれば一緒に食事をすることも、卑弥呼の居室に出入りすることも出来たのである。

〔卑弥呼没後に立った男王〕
男王=孝元天皇
孝元は神八井耳(かんやいみみ・神武の子)の子孫。雀部(ささきべ)氏の祖先。
『日本書紀』は、孝元を孝霊の子とするが、天皇家につながる人物ではあるが、孝霊の子ではない。孝霊とは、ほぼ同世代か年上。
卑弥呼没後、物部氏の欝色雄等によって擁立された天皇である。だが「国中不服」として和邇日子押人等により倒され、台与擁立に至る。

〔宗女台与〕
台与=天豊姫、またの名を竹野姫
建諸隅(由碁理)と葛城国造の女、諸見己姫(もろみこひめ)との間に生まれた子。
卑弥呼没後に立った孝元は「国中不服」として戦乱となり倒される。卑弥呼と同族の尾張氏の女性、天豊姫が歳一三歳で王位に擁立される。後に孝元の皇子、開化と夫婦になる。
父親の由碁理は、竹野別(たけのわけ)とも称され、父親の名から竹野姫とも称さる。『日本書紀』が開化の妃とする竹野媛である。

kennsi.gif
〔景初二年の遣使であり、狗奴国(くなこく)と戦った難升米〕
難升米=梨迹臣(なしとみ)
梨迹臣は、中臣氏の人。中臣氏は神武時代から臣従する、朝廷に信頼の厚い氏族。景初二年(三年か)卑弥呼の遣使として魏に赴く。
父親は伊香津臣(いかつおみ)。滋賀県長浜市木之本伊香具神社(いかぐじんじゃ)の祭神として祭られる。
木之本は北陸の陸国(くがこく・玖賀国)と対峙する、軍事上の要衝。『魏志倭人伝』が邪馬台国と敵対していたとする狗奴国。
伊香津臣は、陸国と対峙するためにこの地に赴く。伊香具神社の伝承は次のように伝える「吾天児屋根命の命を傳へて皇孫に侍従久しく宝器を守る 尚この地に止まりて永く属類を守るべしと」
梨迹臣は、狗奴国とこの地で戦いを繰り広げるが、卑弥呼の時代に決着が着かない。崇神の時代になって、彦坐(ひこいます)が陸耳御笠(くがみみのみかさ)を伐って、大和朝廷側の勝利で決着を見る。

〔都市牛利〕
都市牛利=由碁理(ゆごり)、またの名を建諸隅(たけもろずみ)。
卑弥呼の甥という王権の身内であるが、景初二年の時点では年が若く、次使として難升米(梨迹臣)と共に魏に遣使。
尾張氏の当主で台与の父親。由碁理は丹波の大縣主で、由碁理が府を置いたのは、現在の京丹後市丹後町竹野。
妹は、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)またの名、倭国香媛(やまとのくにかひめ)、倭途途日百襲媛(やまととひももそひめ)の母親。

〔正始四年の遣使、伊聲耆と掖邪狗〕
伊聲耆=伊世理(いぜり)
梨迹臣(難升米)の弟。
正始四年魏へ掖邪狗と共に遣使。

掖邪狗=和邇日子押人(わにひこおしと・稚押彦命)
卑弥呼と、天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子。稚押人が稚彦(わかひこ)で、掖邪狗(わきやひこ)はその音写。
現在の天理市櫟本(いちのもと)あたりに居を構える。東大寺山古墳はこの人の子孫の墓。その墓から、卑弥呼が公孫氏から受け取ったであろう、中平年号の刀が出土している。
正始四年と台与擁立後、二度に渡り魏へ遣使。年次は不明であるが、台与が王位に就いた直後に遣使。このことから、台与を擁立した一方の中心人物であることが解る。東大寺山に広がる奈良県最大の環濠は、台与擁立に至る戦いの遺構と考える。

〔正始八年の遣使、載斯烏越〕
載斯烏越=欝色雄(うつしおこ)
正始八年魏へ遣使。
卑弥呼の後立った男王、すなわち孝元を擁立した人物。妹の欝色謎(うつしこめ)が孝元の皇后。
孝元時代大臣(おおみ)となる。
当初私は、載斯烏越を載斯と、烏越の二名と思ったため解明できなかった。後に西本久司さんからお便りを頂き、載斯烏越が欝色雄であることが判明した。
載(うつ)斯(し)烏(う)越(おこ)と読む。
欝色雄は穂積氏の祖であり、穂積氏は物部氏でもある。

yamataikokunokann.gif

[邪馬台国四人の高官〕
伊支馬=邇支倍(にしば)
倭国造(やまとのくにのみやつこ)の長。魏の使者が邪馬台国を訪れた時の、筆頭高官。
倭氏は神武時代の椎根津彦にはじまる。奈良盆地東部の国造。

弥馬升=三見宿禰
弥馬升の「升」は宿禰に当てた表意文字。したがって読みは「みますくね」
三見宿禰は物部氏の人物で、物部氏系譜によれば、孝安時代宿禰となって孝安に仕えたとする。読みはおそらく「みまのすくね」であろう。

奴佳鞮 =額手、糠手
奴佳鞮 は「ぬかて」と読むのではないかと推測する。日本語的な漢字表現では額手あるいは糠手である。倭氏の系譜に邇支倍の次の世代の人物として飯手という人物が記載される。飯手を「ぬかて」とは読めないがこの人が奴佳鞮と考える。
父邇支倍と共に倭国造として、大和王権の高官の地位に在った

彌馬獲支=大水口宿禰
彌馬獲支という名を見る。そのまま読めば、ミマカキ、ミマカチとでもなろう。これに該当するのが、ミナクチすなわち水口で、物部氏の系譜に登場する大水口宿禰であろう。
大水口宿禰は三見宿禰の子で、物部氏系譜によれば弟の大矢口宿禰と共に孝霊時代に宿禰となる。孝安から孝霊時代の人である。


邪馬台国の四人の官は、官位順であろう。筆頭が倭国造、邇支倍(にしば)。二番目が物部氏の三見宿禰。三番目が邇支倍の子「ぬかて」。四番目が三見宿禰の子大水口宿禰であろう。
邪馬台国の高官は倭氏と物部氏の親子で占められていたのである。

〔狗奴國王とはどこの地域の王か〕〕
狗奴國男王卑彌弓呼=陸国王(くがこくおう)、玖賀国王
狗奴国とは「くがこく」で『日本書紀』などでは玖賀国、陸国王と表記される。
現在の北陸地方、福井県か石川県あたりにあった国。
邪馬台国の難升米すなわち梨迹臣は、滋賀県長浜市木之本町あたりで北にあった陸国王と対峙する。木之本町は、後に北国街道と称される北陸地方に抜ける交通の要所。この地で守りに就く。
崇神の時代に成って、日子坐(ひこいます)と尾張氏の倭得魂(やまとえたま)が、陸耳御笠(くがみみのみかさ)を伐って、大和朝廷側の勝利で終わる。卑彌弓呼は陸耳御笠の一世代か二世代前の王。


多くの論者は、中国語の読みのみで人物を特定しようとする。だが、特定する人物の年代が、卑弥呼の時代の人という論証は何もない。
私は卑弥呼を宇那比姫命とすることによって、宇那比姫命と同世代もしくはその一世代後の人物を特定する。(台与のみ二世代後)
更にこれらの人物が、大和朝廷を支える有力豪族であることを根拠とする。

当初『魏志倭人伝』の登場人物が、これほど詳細に明らかになるとは思いもしなかった。卑弥呼を宇那比姫とすることによって、宇那比姫と同時代、あるいは一世代後の古代有力豪族の系譜の中に、『魏志倭人伝』の登場人物を見たのである。ただし地方の官については、手がかりとなる系譜を確認できないので不明。
posted by 曲学の徒 at 20:12| Comment(0) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝

2018年08月27日

卑弥呼の後に立った男王は誰か?

 『魏志倭人伝』は次のように記す。
「卑弥呼以死・・・更立男王 國中不服 更相誅殺 當時殺千餘人 復立卑弥呼宗女壹與年十三為王 國中遂定 」
卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が従わず戦乱となり、歳一三歳の台与を王位に就けて国が治まったとする。
問題はこの卑弥呼の後に立った男王とは誰かである。
私はこの男王とは八代孝元とする。しかしながらこれまで孝元であるという確証を提示できていなかった。
だが原田常治という人の『上代日本正史』という本にがある。残念ながら、私のこの本に対する評価は低い。原田氏説の邪馬台国が九州の西都市であり、『記紀』伝承は九割が嘘であるとする説を、私は全く評価しない。だが次の主張だけは支持する。

氏によると『第八代孝元天皇が雀部(ささきべ)、穂積氏両氏のクーデターによって擁立された天皇であるために、これらをなんとか歴史から消そうと、大和朝廷は雀部氏の系譜を没収した』とする。雀部氏の伝承によると、八代孝元は七代孝霊の子共ではなく、初代神武−神八井耳−雀部臣と続く雀部臣の孫とする。天皇系譜の血筋につながる人物ではあるが、孝霊の子ではないとする。『記紀』伝承が語る、天皇系譜を否定するのである。
これまで私もまた、孝元は孝霊の子ではないと考えていた。しかしながら孝元が系譜上でどのようにつながるか全く不明であった。それがこの雀部氏の系譜伝承を知ることにより明らかになった。

dannou.gif
 『記紀』は初代神武から十代崇神までを親子でつながる十世代とする。
だが古代有力豪族系譜の世代数は、神武から崇神までほぼ六、七世代である。天皇系譜のみが親子でつながる十世代と異常に多い。私は有力氏族の系譜の中にこの間のすべての天皇名を見る。したがってそれらの天皇の実在と在位は信じる。しかし異常に多い世代数から、天皇系譜には親子ではない関係が含まれると考えている。
なぜなら、卑弥呼が亡くなったのは二四八年前後である。そして二六六年、倭の女王が西晋(せいしん)に朝貢する。この女王は台与であろう。
また中国史書によればこの時、台与と並んで西晋の爵位を受けた男王がある。台与は、天豊姫で竹野媛ともされる。『記紀』が九代開化の妃とする竹野媛である。したがってこの西晋の爵位を受けた男王は、開化に他ならない。開化は二六六年には王位に就いているのである。

ところうが、卑弥呼が亡くなった二四八年から二六六年までは一八年である。この一八年間に少なくとも七代孝霊、八代孝元、九代開化の3人が王位に就いている。親子であれば年の差は18歳を下回ることはなかろう。この一八年間に親子関係にある3人が、王位に就くことは不可能である。親子でない可能性がある。
怪しげなのは孝霊と孝元の親子関係である。
私は孝元と開化の親子関係は認める。それは『ホツマツタエ』や『白河本旧事紀』の次のような逸話による。何れも偽書とする説があるが、私は案外史実の一端を伝えると推測する。
開化が孝元の妃、伊香色謎(いかがしこめ)を妃にしたいという。これに対し大神氏(おおみわし)の豊御気主(とよみけぬし)が、「伊香色謎は、開化にとっては義理の母親、母親を妃にするなど後世の謗(そし)りを受けることになる」と諫(いさめ)める。この逸話は、孝元と開化は親子であることを前提とする。

もう一つ親子関係にないと思われる事がある。
『日本書紀』は崇神紀の中で倭途途日百襲媛(やまととひもそひめ)を崇神の叔母とする。ところうが『日本書紀』の系譜によると、倭途途日百襲媛は七代孝霊の子で、八代孝元世代の人である。十代崇神の二世代前となり、叔母ではなく大叔母となる。叔母とする記述と矛盾する。どこかに系譜の作為がある。


 先にあげた雀部(ささきべ)氏が伝える、孝元は神八井耳の孫で、その事実を隠すために、雀部氏の系譜は没収されたという伝承を信じればこの疑問はすべて解ける。
この系譜伝承によれば、孝元は神武から数えて四世代目となる。その後、開化、崇神と続けば神武から崇神まで六世代で、これは他の氏族の世代数に近い。この点から雀部氏の系譜伝承が信じられるともする。


 また原田氏の主張する、孝元は穂積氏が擁立した天皇という見解も、私は正しいと考える。穂積氏とは物部氏の一氏族のことである。孝元、開化、崇神と続く天皇は何れも物部氏の強い影響下で成立した天皇である。
その証拠に孝元の皇后は欝色謎(うつしこめ)という物部氏の女姓で、開化の皇后伊香色謎(いかがしこめ)もまた物部氏の女性である。更に『先代旧事本紀』によれば、欝色謎命の兄欝色雄(うつしこお)は孝元の大臣、伊香色謎の弟伊香色雄(いかがしこお)は開化の大臣とする。そして崇神は物部氏の伊香色謎の子である。
この時代物部氏は天皇の外戚として強力な権力を有するのである。

台与の時代の天皇は開化であり、台与擁立前の天皇は孝元である。卑弥呼の後に立った男王とは八代孝元であり、この男王を不服とする勢力により、在位は短期間で倒れるのである。
この男王を倒した対抗勢力の一人が、卑弥呼すなわち宇那比姫命と天足彦国押人命の子である和邇彦押人(わにひこおしと)と推測する。「更相誅殺 當時殺千餘人」となった戦いの遺構が、天理市東大寺山の環濠であると推測するからである。
詳しくはこちら
http://yamatai.sblo.jp/article/177899767.html
posted by 曲学の徒 at 08:19| Comment(0) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝

2018年06月30日

箸墓の被葬者は誰

箸墓は最初に造られた前方後円墳である。前方後円墳という特異な形の墓は箸墓から始まる。
前方後円墳の平面形は、鍵穴や、てるてる坊主のシルエットのような形をする。変わった形である。この形はどのようにして生まれたかである。
前方後円墳の主体部分は、埋葬施設がある円形の部分である。それでは前方の役割は何か。
当初私は、前方部は墳丘に至る通路であると考えた。だが通路とするには理解しがたい点があった。通路なら平地から円丘部分に向かって上るのが普通である。しかし私が踏査した前方後円墳のすべては、円丘に向かって下るのである。しかも方形部分の端は、急坂で上ることはできない。通路とするには理解しがたい形なのである。
この疑問は私が卑弥呼の墓とする、御所市玉手山の墳丘を踏査したとき解けた。
私が卑弥呼の墓とする玉手山の古墳は、山塊から張り出した尾根の上に墳丘を築く。
山塊から墳丘に向かって、尾根は緩やかに下る。前方後円墳の方形部分は、この尾根を模したのである。
したがって平地に造られた箸墓では、尾根の山塊側は切り落とされた形となる。

moderu.gif
詳しくはこちらhttp://yamatai.sblo.jp/category/968173-1.html

箸墓の方形部分は、一般に三味線のバチ形にたとえられる。直線で構成される台形ではなく、台形の底辺部分に向かって緩やかな曲線で広がる。玉手山の山塊側から張り出した、尾根の平面形もバチ形を呈す。バチ形に開く前方部は尾根を模したことを物語る。

『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓の大きさを径百余歩とする。おおよそ直径150mである。
玉手山、墳丘盛り土の大きさは径百余歩はない。しかしながら尾根全体を墳丘と見れば、まさに径百余歩の大きさである。箸墓は玉手山のこの古墳を模して築造されたのである。したがって箸墓の後円部も径百余歩となる。
150ennpunn.jpg
前方後円墳の前方部が尾根の形を模した物であることを理解できたのは、いくつかの前方後円墳を登って踏査した体験と、玉手山の尾根をたどった時に起きた、身体的な体験であった。
私たちは、ついつい前方後円墳の、その特異な平面形に目を奪われる。多くの論者は、その平面形を問題にする。だが立体としてとらえて、その側面形に注目する必要がある。

余談ではあるが、前方後円墳の多くが立ち入り禁止であったり、立ち入っても樹木で見通しがきかず、全体像を把握しづらいものが多い。
前方後円墳の形を身体的体験で理解できる、おすすめの古墳がある。奈良県天理市柳本町にある、黒塚古墳である。黒塚古墳は、33面の三角縁神獣鏡が出土した三世紀末から四世紀初頭の前方後円墳である。
古墳周辺は公園として整備され、墳丘へ登ることも可能である。大きさも一望で見渡せ、前期の前方後円墳の形を理解するにはうってつけと考える。

箸墓の被葬者

箸墓は誰の墓かである。箸墓は卑弥呼の墓でも台与の墓でもない。
倭途途日百襲媛の墓である。倭途途日百襲媛は七代孝霊の皇女とされる女性である。

それではなぜ、一介の皇女にすぎない倭途途日百襲媛のために、これだけの巨大古墳が造られたかである。
先ず倭途途日百襲媛の出自を追ってみる。
倭途途日百襲媛の母親を、『日本書紀』は倭国香媛(やまとのくにかひめ)とし、またの名を絙某姉(はえいろね)とする。一方『古事記』は、意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめ)で、またの名を蠅伊呂泥(はえいろね)とする。ここで問題になるのは、『記紀』共に、倭国香媛や意富夜麻登玖邇阿礼比売と「はえいろね」を同一人物とすることである。だが倭国香媛や意富夜麻登玖邇阿礼比売と「はえいろね」は、同一人物ではない。
詳しくはこちらhttp://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/4-4-ooyamatokuniarehime.htm

倭途途日百襲媛は、私が卑弥呼とする宇那比姫命の姪の娘である。また台与とは従姉妹である。
こちらがその系図である。
9-yamatotohimomosohime.gif
卑弥呼という邪馬台国の女王の血筋を色濃く引き継ぐ女性であることが解る。
それでは崇神は、なぜ一介の皇女に過ぎない倭途途日百襲媛もの墓を、かくも盛大に造る必要があったかである。
崇神は必ずしも王権の筆頭継承者ではない。崇神の異母兄に彦湯産隅(ひこゆむすみ)という人物がある。開化と竹野媛の間に生まれた児である。竹野媛を『日本書紀』は、開化の妃とするが、単なる妃ではない。大倭姫(おおやまとひめ)という『魏志倭人伝』に登場する台与でもある。
詳しくはこちらhttp://yamatai.sblo.jp/category/777033-1.html

彦湯産隅は台与という女王の児で、崇神はこの彦湯産隅をさしおいて王位に就いたのである。
崇神は、自分がこの王権の正当な継承者であることを、世に示す必要があった。卑弥呼の血筋を色濃く引き継ぐ、倭途途日百襲媛の墓を盛大に造ることによって、自分がこの王権の継承者であることを誇示したのである。
崇神の時代であれば卑弥呼の墓は、多くの人が知るところである。その墓を模して造ることによって、卑弥呼王権を引き継ぐ者であることを主張したのである。
ちなみに彦湯産隅の墓はこちら
http://yamatai.sblo.jp/article/178094614.html
posted by 曲学の徒 at 20:21| Comment(2) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち

2018年06月14日

桜井市茶臼山古墳の被葬者

桜井市茶臼山古墳から出土した玉丈を大王の持ち物として、この古墳を大王墓とする説がある。
だが私は大王墓ではないと考える。大和朝廷を支えた有力豪族の墓と考える。それではその被葬者は誰かである。

桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳は物部氏の古墳であろう。
物部氏とこの二つの古墳を結びつける理由は次の四つである。
一つは、『先代旧事本紀』物部氏系譜によれば、この一族は歴代の天皇に仕え、その要職にあったとする。これだけの巨大古墳を造ることが出来たのは、先に挙げた、倭国造(やまとのくにのみやつこ)の倭氏と物部氏以外見当たらない。
二つ目は、物部氏は強力な軍団でもある。桜井茶臼山、メスリ山古墳から出土した大量の武器類は、被葬者が軍団の長であったことを物語る。物部氏という氏族の性格と一致する。
三つめは、崇神の磯城瑞籬宮(しきのみずかきのみや)は、三輪山の麓、金屋とされる場所である。崇神は物部氏が擁立した天皇である。母親は伊香色謎という物部氏の女性で、弟の伊香色雄(いかがしこお)は、開化時代の大臣で、崇神の時代にも要職にある。
物部氏の居留地は元は大阪平野の東の端、現在の東大阪市から奈良県の生駒市あたりである。だがこの時代になれば宮の近くに居住していたと思われる。むしろ擁立した天皇の宮を自分たちの居住地の近くに造営したであろう。桜井茶臼山、やメスリ山古墳のある桜井市磐余(いわれ)は崇神の磯城瑞籬宮に近い。
四つめは、桜井茶臼山古墳の被葬者を饒速日命(にぎはやひのみこと)とする伝承がある。饒速日命は物部氏の祖とされる人物である。もちろん桜井茶臼山の築造は、三世紀末頃で饒速日命の時代とは一致しない。だが桜井茶臼山古墳の被葬者を、物部氏の祖とされる饒速日命とする伝承に、この古墳が物部氏と関わる古墳であることを暗示する。

私は桜井茶臼山古墳の被葬者は伊香色雄(いかがしこお)と考える。伊香色雄は九代開化の大臣(おおみ)、十代崇神の大連(おおむらじ)である。大連は五大夫より上位の官位で最高の位である。崇神の時代には「物分かつ人」という経済的な裁量権を持っている。また物部氏は強力な軍事集団でもある。桜井茶臼山古墳に大量の武器類が副葬されていたことも理解できる。
写真は桜井茶臼山古墳の墳頂部
42-tyausuyamakofunn.JPG
メスリ山古墳も、やはり物部氏の墓であろう。その被葬者は確定できないが、築造の時期が、崇神陵とされる行燈山古墳よりも早いとすれば、伊香色雄の兄弟あたりが考えられる。

西殿塚古墳と桜井茶臼山古墳とはほぼ同じ規模の古墳である。倭氏と物部氏という大和朝廷の二大勢力が競って箸墓に次ぐ巨大古墳を築造したことになる。
posted by 曲学の徒 at 16:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち

西殿塚古墳の被葬者

先に私は西殿塚古墳、桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳を大王の墓ではないとした。
zennkikofunn-6.gif
大和朝廷の臣下の墓とする。それでは西殿塚古墳は誰の墓か。
西殿塚古墳が立地する場所は倭氏の墓域である。西殿塚古墳を最大としてこの近辺に百メートルを超える、東殿塚古墳(全長一七五m)、中山大塚古墳(全長約一三〇m)下池山古墳(全長約一三〇m)馬口山古墳(全長約一一〇m)など、古墳時代前期の前方後円墳が造られる。大和古墳群(おおやまとこふんぐん)と称される古墳群である。
5-ooyamato.gif
比較的狭い範囲に存在するから、これらは同族の古墳であろう。この地域でこれだけの巨大古墳を造る事ができるのは倭氏をおいて他にない。倭氏は倭国造(やまとのくにのみやつこ)という大和朝廷のお膝元、を支配した氏族で大和朝廷を支える豪族の一つである。西殿塚古墳は倭氏の誰かの墓として間違いない。現在宮内庁は、西殿塚古墳を継体天皇(けいたいてんのう)の皇后、手白河皇女(たしらかわこうじょ)とする。だが手白河皇女は六世紀前半頃の人で、西殿塚古墳の築造年代とはかけ離れる。手白河皇女の墓ではない。

西殿塚古墳の被葬者として、該当するのは崇神時代の人とされる市磯長尾市(いちしながおち)である。
市磯長尾市は崇神時代、倭大国魂神(やまとのおおくにたまかみ)を祭ったとされる人物である。現在倭大国魂神を主祭神とする神社がある。天理市の大和神社(おおやまとじんじゃ)である。大和神社は倭氏によって祭られてきた神社で、西殿塚古墳はこの大和神社の東一km強の所に存在する。
古墳の被葬者を確定することは難しいが、市磯長尾市は、『日本書紀』にも登場する崇神時代の高官である。活躍した年代と古墳の築造年代から西殿塚古墳古墳の被葬者を市磯長尾市とする。
posted by 曲学の徒 at 15:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち
箸墓の被葬者は誰 by 桂川 光和 (08/22)
箸墓の被葬者は誰 by ぴろ (08/17)
謎が一つ解けた by りひと (06/01)
欠史八代天皇の実在証明 by りひと (05/07)
富雄丸山古墳が日本最大の円墳。あなたは信じますか? by 桂川 光和 (11/30)