2017年11月16日

富雄丸山古墳が日本最大の円墳。あなたは信じますか?

11月16日の新聞報道によれば、
「奈良市の富雄丸山古墳が、測量調査の結果、従来の説より二十メートル大きい直径百十メートルの円墳と分かり、市が十五日に発表した。埼玉県行田市の丸墓山古墳(直径百五メートル)を上回り、国内最大の円墳とみられる」とする。

直径、百そこそこで国内最大などありえない。なぜなら『魏志倭人伝』は、卑弥呼の墓を、径百余歩とする。径とするから円墳であろう。百余歩とは、おおよそ百五十メートル。直径百五十メートルの円墳が、日本列島のどこかに存在するのである。百十メートルの円墳が、最大であるはずは無い。それでは径百余歩の円墳は、どこに存在するのか。
写真に示す御所市玉手山の円墳がそれである。ここにまぎれもなく直径約百五十メートルの円墳と、長径が百六十メートル程度の楕円墳が存在する。これらこそ列島最大の円墳なのである。
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私は、皆さんに、そのことを検証していただきたいと考えている。
ついては、下記のように、この古墳の現地踏査会を催します。
面白そうだと思われる方の参加をつのります。
もちろん、百五十メートルの円墳などありえない、とお考えの方も歓迎です。
現地にて、ご意見をうかがえれば幸いです。

場所 奈良県御所市玉手山
集合場所 御所市玉手満願寺駐車所
実施予定日(あくまで予定で変更になることもあります、どちらかに参加ください)
   12月16日(土)午後1時から4時まで
   12月17日(日)午前10時から午後1時まで
雨天中止
参加申し込みは、下記ブログの「私へのコンタクト」メールアドレスにご連絡ください。

http://yamatai.sblo.jp/

のちほど詳しい予定を差し上げます。

申し込み締め切り12月10日
posted by 曲学の徒 at 22:16 | Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

2017年10月14日

秋津遺跡は卑弥呼の王宮か? (その2)遺構の年代

 秋津遺跡の古墳時代前期とされる地層から、堅固な塀に囲まれた掘立柱建物群が出土した。
調査に当たった橿原考古学研究所が、方形区画施設と名付ける遺構である。同時に周辺地域には数多くの竪穴住居も確認された。
橿原考古学研究所の調査報告書によると、出土土器の大半は布留式土器であり、庄内式土器は見られないとする。したがってこの遺構の年代を古墳時代前期とする。
しかし私は、この年代推定に疑問を持つ。確かに竪穴式住居の存続年代は、古墳時代前期四世紀の中ごろまで存続する。だが方形区画施設と名付けられた、塀に囲まれる高床式建物群の年代は、二世紀末から三世紀前半の遺構と考える。この方形区画施設の内部は清浄に保たれていたらしく、年代を推定できる遺物などがほとんど見当たらないとする。
私は次の3点からこの方形区画施設の年代は、二世紀末から三世紀前半の遺構と考える。すなわち卑弥呼の在位年代の物であり、秋津嶋宮の一部であるとする。

第1は、炭素年代測定による掘立柱建物の測定値は、二世紀末から三世紀前半を示す事。
第2は、二世紀代から三世紀前半とされる多孔銅鏃と同時代の、東海系の土器が出土している事
第3は 橿考研による年代推定の論理に大きな矛盾がある事
他にもいくつかの疑問が在るが、主だった私の論拠は上記の3点である。

第1点の、炭素年代測定値である。出土した遺物の一部について炭素年代測定が行われている。
次の表はその測定値である。
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方形区画施設内部の掘立建物SB0040やSB0030bなどは、相当古い年代を示す。橿考研は自分たちが推定する年代と大きくかけ離れるため、この年代あたりの炭素年代測定値は、実際より古い値が出ることを理由に、炭素年代測定値の結果のみを提示するにとどめる。
ありていに言えば、この炭素年代測定値は信頼性に欠けるとして採用しないのである。
たしかに、北半球用較正曲線IntCal109で、日本列島出土の遺物を較正すると、二世紀から三世紀代では、実年代より古い年代となることが知られている。そこで近年、日本列島出土の年代が解る樹木を用い、日本列島用の較正曲線の作成が試みられている。
そこで、北半球の標準較正曲線IntCal109、南半球のShCal13及び日本産樹木の炭素年代測定値を組み合わせたグラフが下の図である。
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そのグラフ上にSB0040やSB0030bの炭素年代測定値を重ね合わせてみる。較正曲線との交点をどのあたりに求めるかは、私の直観によるものであるが、これらの年代を三世紀中ごろ以降とすることは無理がある。
二世紀後半から三世紀前半に収まる測定値である。卑弥呼の在位年代の建物なのである。

第2点は、多孔銅鏃とその時代の東海系土器が出土している事
多孔銅鏃は、東海地方を中心に二世紀から三世紀中ごろにかけて周辺地域に広がったとされる。その多孔銅鏃1点が秋津遺跡から出土した。この1点のみなら、たまたま古い物を所有していたと考えることもできるが、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器が複数出土している。複数の二世紀代から三世紀前半と考えられる遺物が出土しているのである。古墳時代前期以前には、古くならないとする橿考研見解を否定する。
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第3は、橿考研が推定する方形区画施設の年代に矛盾がある事。

大型掘立柱建物SB0029の後に、竪穴建物SB0001b更に、竪穴建物SB0001aと建て替えられる。
橿考研はSB0001aの柱穴から出土した土器を、布留古相または中相とする。おおよそ実年代として300年前後を想定する。
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この建物を取り囲む塀は、方形区画3→方形区画2→方形区画6の順序で建て替えられたとする。また方形区画施設6の柱穴から炭化物が出土している。この炭化物を竪穴建物SB0001aから出土した炭化物と同時代の物として、方形区画施設6の年代を布留古相または中相とする。
したがってそれらの前後関係を次のように推測し、方形区画施設の年代は布留式の年代とする。
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しかしその想定には大きな矛盾がある。塀と竪穴建物とが同時代であれば、掘立柱建物を取り囲むイメージ図とは一致しない。もし橿考研が想定するように方形区画施設6とSB0001aを同時代とすれば、塀が取り囲むのは掘立建物ではなく、竪穴建物という事になる。このイメージ図は間違いで、SB0029の所には竪穴建物SB0001aが描かれなければならない。

だが私は、方形区画施設6とSB0029が同時代であると考える。
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竪穴建物はこの時代に一般的に見られる住居用建物である。それに対し掘立柱建物は、特別な建物である。これだけ堅固な塀に取り囲まれる建物は、イメージ図に描かれるように高床式の建物であろう。方形区画施設と竪穴建物が同時代という推定に間違いがあろう。
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最後の竪穴住居SB001aの布留古相あるいは中相から、最初に建てられた方形区画3までさかのぼれば、方形区画施設3の年代は二世紀末まで古くなる可能性は十分ある。
少なくとも古墳時代前期に収まるようなものではない。

橿考研がこの遺構の年代を、布留式土器の年代をさかのぼらないとする見解が、この遺構の重要性を見失うことになっている。
発掘調査に当たった橿考研の担当者は、この遺構の規模から一豪族の遺構ではなく、大和王権が直接かかわる遺構であろうと推測する。
だが『日本書紀』には、三世紀後半から四世紀前半頃と推測される崇神、垂仁、景行の時代に、この地域に関する記述は何もない。『日本書紀』に、この御所市南郊外が登場するのは、五代孝昭の掖上池心宮と、六代孝安の室秋津島宮である。崇神の時代よりもっと古い時代である。
私は先に述べた炭素年代測定値の結果、多孔銅鏃とその同時代の東海系の土器の存在、そしてたびたび建て替えられた方形区画施設の年代推定からこの遺構は、二世紀末から三世紀前半の遺構であり秋津嶋宮の一部と考える。それはまた卑弥呼の王宮でもある。

秋津遺跡は卑弥呼の王宮か? その1 秋津嶋宮の場所

卑弥呼の政治を補佐した男弟

 私が卑弥呼とする宇那比姫には天足彦国押人命という夫があった。
このように主張すれば、即刻反論があろう。『魏志倭人伝』は卑弥呼は「年すでに長大夫壻無し」として夫が無かったとする。私もまた卑弥呼は独身の女性と考えていた。しかし和邇氏の系譜を伝える、大久保氏の系譜を見て、卑弥呼には天足彦国押人命という、夫があったことを知った。天足彦国押人命は和邇氏の祖とされる人物である。したがって宇那比姫もまた和邇氏の祖である。その和邇氏の墓である、天理市の東大寺山古墳から、卑弥呼が受け取った物であろう、中平の年号の入った鉄刀が出土している。このことは宇那比姫命が卑弥呼であり卑弥呼には、夫があったことの傍証となる。
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詳しくはこちら
http://yamatai.sblo.jp/category/872520-1.html

この大久保氏の系譜は、驚きの事実を明らかにする。天足彦国押人命には、倭足彦国押人命すなわち六代孝安天皇という弟がある。
孝安は宇那比姫命の義理の弟なのである。
『魏志倭人伝』は「男弟有て佐(たすけ)て国を治」とする。卑弥呼の政治を補佐した男弟があったことを伝える。宇那比姫命には、六人の兄はあるが弟は居ない。この「男弟」とは他ならぬ孝安なのである。
男弟が孝安であることを傍証する古墳がある。『記紀』によると孝安は玉手丘に葬られたとする。玉手丘とは現在の御所市玉手山のことである。そこに径百余歩の円墳を見るのである。
これまで日本列島では径百余歩、すなわち直径150mの円墳は知られていなかい。最大でも埼玉県行田市の丸墓古墳の直径105mである。だがここ玉手山に径百余歩の円墳が存在するのである。玉手山は孝安が葬られた場所という事と、そこに径百余歩の円墳を見ることは偶然ではない。孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟なら、孝安が葬られた山に、卑弥呼の墓を見ることは極めて自然な事である。私が孝安が男弟であるとする説を裏付ける。

秋津嶋宮の場所

孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟なら、卑弥呼の王宮は孝安の宮とされる秋津嶋宮なのである。
それでは秋津嶋宮は何処かである。秋津嶋宮は「室(むろ)」の秋津嶋宮とする。室とは現在の御所市南郊外の地である。秋津嶋宮の場所について、帝王編年紀という十四世紀に成立した書物に、その伝承地が記される。それによると「今掖上池南西田中也」とする。現在掖上池という名前の池は存在しないが、玉手山の麓に満願寺というお寺がある。その前に大きな窪地が広がる。現在は霊園となる。その窪地の南側に「きれずみ」すなわち「切れ堤」という場所がある。かってここは大きな池であり堤が切れて干上がったのである。ここが掖上池であろう。秋津嶋宮の伝承地をこの池の南西の田圃の中とする。掖上池からの距離は不明であるが秋津嶋宮は室という場所にあった。室はこの掖上池より1q位離れた所の南西である。
更に林宗甫という人が、江戸時代に著した「和州旧跡幽考」という書物がある。それによるとその伝承地を「寺村より乾(いぬい)にして川の東」とする。寺村とは現在の御所市稲宿(いなど)である。
孝安の秋津島宮は、この寺村の乾(いぬい)、すなわち北西に在ったとする。また川とは葛城川のことであろう。川の近くは氾濫原となるので、あまり川の近くではなかろう。
この二つの書物の伝承地からおおよその場所が絞られる。掖上池の南西、で稲宿の北西そして葛城川かからやや離れた東側の場所である。ここが室秋津島宮の伝承地である。
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室秋津島宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したのである。
京奈和自動車道という京都から奈良県を経由して和歌山に至る、自動車道の建設が進んでいる。2008年この自動車道建設の事前発掘調査で、室という場所の北端から、堅固な塀に囲まれた高床式建物群が出土した。
発掘調査を担当したのは、橿原考古学研究所である。後にこの遺構は秋津遺跡と名付けられる。
秋津遺跡は縄文の終りから、弥生中期の終り、そして橿原考古学研究所が古墳時代前期とする遺構が認められる。
問題はこの古墳時代前期とされる遺構の年代である。もしここが秋津嶋宮と関連する遺構であれば、それは弥生末くらいでなければならない。なぜなら卑弥呼は二世紀末から三世紀前半、王位にあった人物である。宮の存続年代もその年代のずである。
問題は秋津嶋宮の伝承地あたりから出土し高床式建物群の年代である。
橿原考古学研究所は、出土した大量の布留式土器の年代から、この遺構の年代を三世紀後半から四世紀前半頃の遺構と推測する。布留式土器に先行する庄内式土器が見られないことから、三世紀前半までは古くならないとする。
もしこの橿原考古学研究所の推定年代が正しければ、この遺構は卑弥呼の王宮ではあり得ない。100年くらい後の遺構となる。
だが私は、この堅固な塀に囲まれた高床式建物群が、秋津嶋宮の一部であり、それは卑弥呼の在位年代二世紀末から三世紀前半のものであると確信する。
そこでこの遺構の年代について、私の見解を記す。

2017年09月20日

宇那比姫が卑弥呼である5つの理由

第一は『勘注系図』に記された宇那比姫命の別名である。
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大倭姫、天造日女命、日女命である。
最初の大倭姫とは「おおやまと」の国の姫君という意味である。「やまと」という言葉には二つの意味がある。一つは現在の奈良県を意味する地域名。もう一つは「やまと」に政治の中心が在った時代、その政治主体が支配する国域の名、すなわち国名である。その場合、明示的には「やまと」に「大」を付けて「おおやまと」と呼ぶ。
古い時代の天皇にはこの「おおやまと」が付けられる。
大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)四代懿徳天皇である。漢字では「大倭」「大日本」などと表記される。他にも五代孝昭、六代孝安、七代孝霊、八代孝元などもこの「おおやまと」が冠せられる。
大倭姫とは古い時代の天皇と同格の権威を持つ名前で、「やまと」の国の最高権力者の名である。
『後漢書倭伝』は次のように記す。
「国皆称王、世世伝統。其大倭王居邪馬臺国」これを日本語的に解釈すれば「国々は皆王を名のり、王統を伝えている。大倭(おおやまとの)の王は邪馬台国(やまとのくに)に居る」この場合の「大倭」は国名であり邪馬台国は地域名である。大倭姫とはこの国名を冠する名前で、中国史書が女王とする人物である。

次の天造日女命とは、天下人を意味する。国造(くにのみやつこ)という言葉がある。大和朝廷が任命した地域支配の長のことである。この「造」には支配者、という意味が有る。天造であれば天下の支配者という意味で天下人を意味する。まさに邪馬台国の女王の名である。

そして日女命である。日女とは高貴な女性を意味する普通名詞で、姫あるいは媛と同じ意味。これに尊称の命を付けたものが、日女命である。読みは「ひめみこと」で、これを大陸の人が卑弥呼と音写したのである。

第二は、宇那比姫の活躍年代は三世紀前半ということ。
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『勘注系図』は宇那比姫命を、天火明命六世孫とする。
八世孫に日本得魂命(やまとえたまのみこと)という人物を記す。日本得魂命は、崇神時代に活躍した人。崇神の妃となった八坂振天伊呂邊(やさかふるあまいろへ)の父親である。古事記によると、崇神の没年は戊寅(つちのえとら)で、西暦318年と考える。日本得魂命は崇神より一世代くらい前の人物で、三世紀後半中ごろに活躍した人である。したがって六世孫とされる宇那比姫命は、日本得魂命の二世代前で、おおよそ三世紀前半の人である。中国史書によると卑弥呼は二世紀の末に、邪馬台国の女王に擁立され、248年か249年頃まで王位にあったとする。宇那比姫もこの年代に一致する。

第三は同族の系譜に台与を見る。
『魏志倭人伝』は卑弥呼の没後、倭国は戦乱におちいる。その後歳一三歳の台与が、女王に擁立され戦乱は治まったとする。この台与を卑弥呼の宗女とする。宗女とは同族の女性という意味である。
『勘注系図』には宇那比姫命の二世代後、八世孫に天豊姫命(あまとよひめのみこと)という名を記す。天はこの一族の姓のようなもので、名前は豊で、『魏志倭人伝』の台与である。この人もまた大和朝廷の女王の名である大倭姫と称される。
更に天豊姫は竹野姫といい、父親は由碁理である。由碁理という名は『古事記』にも登場する。九代開化の妃となった竹野媛の父親である。天豊姫は『記紀』が開化の妃とする竹野媛でもある。

第4は宇那比姫命の子孫の墓から出土した卑弥呼の遺品。
宇那比姫という名は『勘注系図』と『先代旧事本紀』尾張氏系譜に見る。
もう一つ宇那比姫命の名を見る系譜がある。
静岡県磐田市の国玉神社、宮司家である大久保家に伝わる系譜である。大久保家は和邇氏に始まる。そこに次のように記される。
『押媛命(一に忍鹿比売命)、母は建田背命の妹 宇那比媛命也』と記される。押媛命は、天足彦国押人命の子である。したがって宇那比姫命は天足彦国押人命の妻である。この宇那比姫命を建田背命の妹とするから尾張氏系譜の宇那比姫命で間違いない。宇那比姫には天足彦国押人命という夫が有ったのである。
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天足彦国押人命は和邇氏の祖とされる人物である。したがって、宇那比姫命もまた和邇氏の祖である。
奈良県天理市の東大寺山古墳から、中平の年号が象嵌された鉄刀が出土している。中平とはは184年から189年の事とされる。卑弥呼が王位に就いた初期の頃である。
私はこの鉄刀は公孫卓(こうそんたく)から卑弥呼に贈られた刀と考える。
東大寺山古墳は和邇氏の墓で、宇那比姫命は和邇氏の祖先でもある。したがって宇那比姫命の子孫の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される刀が出土したのである。
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宇那比姫が卑弥呼であることの傍証となる品である。また私は東大寺山古墳の被葬者は、古墳の築造年代からこの系図の武振熊命と考える。

第5は六代孝安の葬られた山に径百余歩の墓をみること。
先の和邇氏の系譜によれば、六代孝安は宇那比姫命の夫、天足彦国押人命の弟で、宇那比姫の義理の弟である。
『記紀』は孝安を玉手の丘に葬ったとする。玉手の丘とは御所市玉手の玉手山である。
その山に径百余歩に相当する尾根がある。その尾根に墳丘が築かれる。尾根と墳丘を一体とすれば、まさに径百余歩すなわち直径150mの円墳である。
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それまでこの古墳は奈良県の遺跡地図で、古墳と認識されてはいなかった。
私は孝安が宇那比姫命の義理の弟であることを知った。それにより卑弥呼の王宮は孝安の宮とされる秋津嶋宮と考えた。卑弥呼の墓はこの秋津嶋宮の近くにあると推測した。径百余歩といえば相当大きな規模である。たとえ長い年月の間に、その形は大きく変容しているとしても、なんらかの痕跡が存在すると考えた。そこで航空写真を眺め玉手山に約150mの円形の尾根を発見したのである。古墳であろうと考え現地を踏査し、古墳であると確信した。後に発掘によって墳丘の盛り土の中から遺物が出土し、古墳と確定した。
宇那比姫命が卑弥呼であるという仮説の元に、一度も足を踏み入れたことのない山に、古墳を発見できたのである。孝安が葬られたとする山に、径百余歩の墓を見るのは偶然ではない。
posted by 曲学の徒 at 22:01 | Comment(1) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

2017年09月03日

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posted by 曲学の徒 at 16:04 | Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫