2019年01月17日

立体地形図を作成して、卑弥呼の墓を明かす!

 古代史最大の謎の女性、卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。150mくらいの円墳であろう。これまで日本列島に、直径150mの円墳は知られていない。だがここに直径150mの、お椀を伏せたような尾根がある。その中心に盛り土を持った墳丘が存在する。これこそが卑弥呼の墓である。場所は奈良県御所市玉手山。
玉手山の詳細な立体地形図を作成し、ここが径百余歩の円墳である事を実証する、プロジェクトを始める。

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『日本書紀』によれば、玉手山は六代孝安天皇が葬られたとする場所である。孝安が葬られたとする山に卑弥呼の墓を見るのは偶然ではない。
なぜなら卑弥呼は、葛木高尾張にいた尾張氏の娘、宇那比姫命(うなびひめのみこと)で、孝安は宇那比姫命の義理の弟である。『魏志倭人伝』が「男弟有りてたすけて国を治」とする男弟なのである。卑弥呼もまたこの山に葬られたのである。
宇那比姫命が、卑弥呼であり、孝安が卑弥呼の男弟という理由は、後ほど述べる。

孝安の宮は、室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)である。孝安が男弟なら、秋津島宮が卑弥呼の王宮でもある。秋津嶋宮の場所は室(むろ)とされる。室とは、現在の御所市南郊外である。
径百余歩とされる卑弥呼の墓は、必ず秋津島宮の近くに存在する。
たとえ長い年月の間に、その形を大きく変えようとも、目に見える形で存在する。そのような確信のもとに卑弥呼の墓を探すことにした。
そこで衛星写真を用い、古墳の探索を行なった。
室の1kmほど東、玉手山に不思議な形の尾根を見たのである。古墳かもしれないと思った。後日現地を踏査し、何れの尾根にも墳丘の存在を確認した。

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上の写真は昭和60年、国土地理院が撮影した航空写真である。
No1、No2、No3の尾根にはそれぞれ墳丘が存在する。かって奈良県の遺跡地図はNo3のみを、直径20mの円墳と記載していただけである。
No1とNo2の古墳は、古墳として記載されていなかった。後にNo1、No2の尾根から遺物が出土し、この二つも古墳と確定した。
No1は、遺跡地図には記載されていなかったが、地元では古墳として認識されていた。だが、No2はまったくの未知の古墳であった。おそらく、衛星写真や航空写真の情報がなければ、その存在に気づ付くことはなかった古墳である。
私が、衛星写真によって、古墳ではないかと考えたのは、尾根の裾が、整った円弧を描くことにあった。尾根の形状から、未知の古墳を発見できたのである。その点で尾根と、墳丘は密接な関係にあって、尾根裾には人の手が加わると考える。尾根全体を墓域とする巨大古墳である。
No1の尾根は、直径150mほどの円形を呈す。その中心には墳丘が存在する。墳丘の大きさは尾根方向で25m。尾根と直交する方向は、崩落があり確認できないが50mくらいはあろう。もし尾根全体を墓域とするなら、まさに径百余歩の円墳である。これこそ卑弥呼の墓と考えるわけである。
一方No2とする墳丘の盛り土は巨大である。楕円を呈し長径90m、短径45mくらいに及ぶ。同時代としては国内最大である。尾根全体を墓域とすれば160mにも及ぶ巨大古墳である。
詳細な地形図を作成できれば、そのことを明らかに出来る。それがこのプロジェクトの最大の目的でもある。

レーザースキャナーによる地形図作成

下の画像は、橿原考古学研究所とアジア航測が、レーザー航測によって作成した、奈良県高市郡高取町、高取城址の地形図である。

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詳細な地形の状況が読み取れる。玉手山でもレーザー測量によって、このような地形図を作成する。
この高取城址は、戦国時代の越智氏(おちし)の居城である。玉手山にも越智氏によって造られた、出城と呼ばれる山城があった。現地を踏査すると、その土塁の跡を見ることができる。
今回のプロジェクトは、古墳の調査が目的であるが、副次的に戦国時代の、山城の様子も明らかにできる。

これまで、玉手山の古墳群については、ほとんど調査がなされてこなかった。詳細な地形図作成は、巨大円墳の存在を明す事になろう。
このプロジェクトへのご支援を、お願いする次第である。

ドローン搭載レーザースキャナーシステム

 近年ドローン技術の応用が、急速に進んでいる。その中の一つが測量分野である。
ドローンに搭載されたレーザースキャナーによって、玉手山の詳細な立体地形図を作成する。これによって、No1の尾根が径百余歩の円墳であるこ事、No2の尾根は国内最大の楕円墳である事が実証できると考える。
ドローンに搭載できる、レーザースキャナーやシステムを開発するのが、大阪に本社を構える、アミューズワンセルフ(amuse-onself)という会社である。
この会社のHPはこちら


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写真はアミューズワンセルフが開発した、ドローン搭載の小型軽量・高精度のレーザースキャンシステムである。
この会社に調査を依頼する予定である。

なぜ宇那比姫命が卑弥呼なのか

 京都府宮津市に、籠(この)神社という古社がある。その宮司家、海部氏(あまべし)に『勘注系図』という系図が伝わる。最奥之秘記として、千年以上にわたり隠し続けられた系図である。昭和51年に国宝に指定され、その内容を知ることが出来るようになった。
そこに、始祖天火明命(あめのほあかりのみこと)の六世孫として、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名前が記される。その別名を、大倭姫命(おおやまとひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、靈日女命(ひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。
大倭姫命とは、大和朝廷の最高権力者の名である。 天造日女命は、天下を支配する人。靈日女命は、巫女(みこ)姫で、霊力の持ち主。日女命は、姫、媛という高貴な女性の呼び名に、命(みこと)という尊称を付けた名である。この日女命(ひめみこと)を、大陸の人は、卑弥呼と書き表したと考える。宇那比姫命が卑弥呼なのである。

この宇那比姫命は、後に尾張氏と称される一族の女性である。尾張氏は、葛木高尾張という、現在の奈良県御所市あたりに居た氏族である。父親は尾張氏の当主、建斗米(たけとめ)、母親は紀伊国造(きいのくにのみやつこ)の女性、中名草姫(なかなくさひめ)とされる。

もう一つ宇那比姫命の名を見る系譜がある。静岡県磐田市、国玉神社宮司家の系譜は、和邇氏(わにし)の系譜を伝える。
その系譜によると、宇那比姫命を押媛命(おしひめのみこと)の母親とする。

押媛命は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子である。したがって宇那比姫命と、天足彦国押人命は、夫婦なのである。
天足彦国押人の弟が、六代孝安天皇で、孝安は、宇那比姫命の義理の弟となる。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼の政治を補佐した「男弟」が有ったとする。宇那比姫命には、実の兄はあるが、弟はない。この義理の弟、孝安が男弟なのである。 孝安の宮は、室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)とされる。ここが、卑弥呼の王宮でもある。

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なぜこの古墳が卑弥呼の墓なのか

『日本書紀』は、孝安は玉手山に葬られたとする。玉手山は、秋津嶋宮伝承地の北東一kmのところである。
孝安が『魏志倭人伝』の伝える、男弟なら、卑弥呼も、ここに葬られた可能性がある。そこに径百余歩の円形の尾根を見るのである。
尾根全体が墓域なら、まさに径百余歩である。
もちろん直径150mの円墳である事が確認できたとしても、それだけで卑弥呼の墓と決まるわけではない。だが日本列島に、ここをおいて径百余歩に該当する円墳は、見当たらない。これが卑弥呼の墓である可能性は高い。

玉手山の古墳について詳しくは下記のページをご覧下頂きたい。
http://kodai.sakura.ne.jp/teste/index.html

http://yamatai.sblo.jp/category/776680-1.html
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2019年01月09日

倭国大乱とはどのような戦乱か

 倭国大乱を国同士の戦いとする見解は多い。
だが倭国大乱は国同士の戦いではなく、一国の中での王位をめぐる内乱である。

そのことを『後漢書倭伝』は「相攻伐歴年無主」とする。何年も、戦いが続き主が無かったとする。「主」は「王」の書写誤りであろう。王もしくは主のいない国同士の戦いなど考えられない。王がいないと云うことは、王位をめぐる戦いが繰り広げられたのである。それが主無しの意味である。
そして『魏志倭人伝』が記すように、「一女子を共に立て王と為す」という妥協が成立するのである。
もし国同士の戦いなら、仮に和平が成立したとしても、統一国家にでもならない限り、共通の王を擁立することなどありえない。

また卑弥呼の後に擁立された台与もまた、王位をめぐる内乱の後に擁立される。卑弥呼没後に立った男王は「国中不服」として倒れる。新たに台与という女性が王位に就く。
これも「国中」とするから、一国の中の内乱であることは明らかである。

それでは王位をめぐる内乱は、どのような勢力同士の争いなのかである。
それをうかがわせる記述が『魏志倭人伝』にある。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の高官として次の四人の名を記す。「伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮」である。

私は伊支馬は倭氏(やまとうじ)の邇支倍(にしば)、彌馬升は物部氏の三見宿禰(みまのすくね)、彌馬獲支は同じく、物部氏の大水口(おおみなぐち)、奴佳鞮は邇支倍の子と考える。
その理由は、この四人が、卑弥呼と同世代か一世代くらい後の人であり、何れも大和朝廷を支える有力豪族であることによる。

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邇支倍は倭国造(やまとのくにのみやつこ)という、大和朝廷のおひざもとの国造である。倭国造が邪馬台国の筆頭高官なのである。
つぎの彌馬升は、「みまのすくね」と読んで物部氏の三見宿禰をあてる。「升」は「宿禰」に当てた表意文字であろう。普通三見宿禰は「みつみのすくね」と読むが彌馬は「みま}で「みまのすくね」の可能性が高い。
『先代旧事本紀』の物部氏系譜によれば、三見宿禰は「孝安天皇の御世に、共に天皇のおそば近くに仕えたため、はじめは足尼(すくね)となり、ついで宿祢(すくね)となって、大神をお祀りした。その宿祢の号は、このとき初めて起こった」とする。
三見宿禰は、私が卑弥呼の男弟とする、孝安に仕えたのである。
つぎの彌馬獲支は「みまくち」と読んで「みなくち」であろう。物部氏の水口宿禰である。同じく物部氏系譜によれば、弟の大矢口宿祢命と共に「孝霊天皇の御世に、並んで宿祢となって、大神をお祀りした」とする。水口宿禰は孝安から孝霊時代にかけて高官の地位にあった人物である。
物部氏系譜によれば物部氏の歴代の人物が、天皇の近くにあって高官の地位にある。この二人が邪馬台国の高官であることに不思議は無い。

最後の奴佳鞮は「ぬかて」と読んで、倭氏の邇支倍の子とする。一般に目にする、倭氏の系図では、邇支倍の子を飯手とする。飯手を「ぬかて」とは読めないが「手」の字から飯手こそ「ぬかて」であると考える。どこかに飯手ではなく「ぬかて」とする系図が存在するのではないかと考える。

このように邪馬台国の高官は、倭氏と物部氏によって占められている。
したがって、倭国大乱は、この二大氏族の対立を中心にした戦乱であろう。
倭氏は、神武が大和朝廷を打ち立てたとき活躍した椎根津彦に始まる。その功績で倭国造として大和朝廷を支えてきた氏族である。
一方物部氏は神武が、奈良盆地に侵攻した際、最初は神武と敵対するが同族ということで許され神武に帰順する。物部氏系譜によれば、大和朝廷成立後、歴代の人物が高官として天皇に仕えたとする。
卑弥呼時代の四人の高官から、大和朝廷の権力構造がうかがわれる。この二つの勢力がぶつかったのである。これが倭国大乱であろう。

その後、卑弥呼亡き後に立った男王とは物部氏が擁立した孝元である。だが孝元は「国中不服」として倒され、再び「台与」という女性が擁立される。これもまた王位をめぐる内乱であることは言うまでも無い。
台与擁立に至る戦乱の一方は物部氏であろう。なぜなら孝元は物部氏が擁立した天皇である。孝元を倒し台与擁立した、もう一方の勢力の中心は和邇氏であろう。
なぜなら『魏志倭人伝』では、掖邪狗と云う人物が二度にわたって魏に赴く。最初は正始四年の卑弥呼の遣使として、二度目は台与擁立後の遣使としてである。掖邪狗が台与擁立に関わっていたことがうかがわれる。それでは掖邪狗とは誰かである。
卑弥呼と天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子に、稚押彦(わかおしひこ)という人物がある。掖邪狗を「わきやひこ」と読んで、稚彦すなわち稚押彦と考える。天足彦国押人は和邇氏の祖とされる人物で、その子共も当然和邇氏の人である。
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和邇氏系譜によれば、稚押彦は和爾の里に居るとされる。和爾の里とは現在の天理市櫟本あたりである。
『魏志倭人伝』は、台与擁立に至る戦いで「更相誅殺、當時殺千餘人」として、激しい戦いのあったことを記す。
この戦いの遺構と考える場所がある。天理市東大寺山に、奈良県では最大規模の環濠がある。環濠は山全体を囲む、東大寺山を砦、あるいは山城としている。ここは和邇氏の裏山である。稚押彦すなわち掖邪狗たちが、ここを拠点として戦いを繰り広げたのではないかと推測する。
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二度にわたる王位をめぐる戦いの、一方の当事者は物部氏である。更に時代が下り崇神朝になると、大和朝廷は物部色の強い王権へとなっていく。

posted by 曲学の徒 at 11:21| Comment(3) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝

2019年01月02日

『勘注系図』は何を隠そうとしたのか

 私の邪馬台国論や卑弥呼論は海部氏に伝わる『勘注系図』を根拠とする。この系図に登場する宇那比姫命を卑弥呼とすることによる。
そこで『勘注系図』とはどんな系図かについて若干述べておく。
次は私がアマゾンで出版する『勘注系図を読み解く』の終章の文である。

(以下終章の抜粋)
系図の最後に次のように記す
『氏之本記一巻者、仁和年中、海部稲雄祝等修録、于今相傳以最奥之秘記、永世相承不可許他見伝伝』
また
『本記一巻者、安鎮於海神胎内、以極秘、永世可相傳者也伝伝』ともする。
他見許さずとするから、自分たちの子孫に対して編纂された系図である。最奥之秘記として何を隠さねばならなかったのか。またこれほど詳しい系図を、何のために造ったのかである。
『勘注系図』の大部分が完成するのは、千嶋の時代である。千嶋、千足、千成の兄弟によって、それまでの系図や古い記録を元に系図を編纂したとする。
成立は養老五年(七二一年)である。これを『養老本記』とする。『日本書紀』 完成の翌年である。

丹波の海部氏は、古くは葛城に在った尾張氏の支配地域であった。
丹波が尾張氏の支配地域であった時代、尾張氏の宇那比姫命が、『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の女王なのである。すなわち大和朝廷の最高権力者である。後の天皇と称される権威の持ち主である。更にその二世代後の天豊姫も女王なのである。
この時代尾張氏は天皇家と一体なのである。むしろ尾張氏が天皇家なのである。その尾張氏の傍系である丹波の海部であるが、和銅四年(七一一)に起きた次の事件を期に、危機的状況へと追い込まれる。『続日本紀』は次のように記す

「和銅四年(七一一)十二月壬寅大初位上丹波史千足等八人。偽造外印、仮与人位。流信濃国」

丹波史千足等八人が、偽の外印を造り仮に人に位を与えたとする。それにより信濃に流罪とされる。流罪は死罪に次ぐ重罪である。千足とは当主である千嶋の弟である。三人の兄弟の次男である。
「偽の外印を造り」という事の具体的な内容は解りかねるが、それまで国造として行ってきた行為が越権行為とみなされて断罪されたのである。
そしてその二年後、大和朝廷は、丹波を二分して海部氏の支配地域を縮小するのである。

『続日本紀』は和銅六(七一三)年条に次のように記す。

「夏四月乙未(三日)丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した」
また『勘注系図』は千嶋の父親、愛志の時代のこととして『丹波の五郡を割いて丹後の国を置く、はじめて国司に任じられる。故(もとの)国造の如し』とする。

大和朝廷は七一三年、丹波の一部を割いて北部を、「丹後国」とする。それまで丹波国造として、丹波全域を支配していた海部の支配地域は、丹波の北部のみに縮小されてしまうのである。そして国造は廃止され国司へと変えられる。
律令制度の強化という中央集権化の流れの中で、海部氏の権力はそがれ、大和朝廷による直接支配が強化されてゆく。このような状況への危機感を持った海部氏は、自分たちが天皇家に劣らない家柄であることを子孫に伝えようとしたのである。
『魏志倭人伝』は二世紀の末から三世紀の後半にかけて卑弥呼と台与の二人の女王が在ったことを伝える。
『勘注系図』も古い時代に大和朝廷の最高権力者、大倭姫という女性が在ったことを記す。大倭姫が大和朝廷の最高権力者の名であり、天造姫命が天下人であることは、系図を作成した人たちはその意味を知っての事である。古い時代自分たち一族は、天皇家であったことを伝えるのである。

これは大和朝廷の天皇系譜を否定するものである。これほど危険な系図はない。そのために命がけで隠さねばならなかったのである。
しかしながら時代が下り、序とする系図の表書きが付け加えられる頃には、系図のなにが危険か解らなくなってしまう。ただひたすらに最奥之秘記として他見許すべからずと、隠し続けてきたのである。

私とて、当初この系図の何が危険か、どうして命がけで隠さねばならなかったのか理解できなかった。ようやく詳細にその全文を読み解くことによって、その理由を理解した。
『勘注系図』は、大和朝廷が正史とする『日本書紀』の、天皇系譜を否定する系図なのである。もし朝廷の目に触れれば、危険極まりないな系図である。それゆえに最奥之秘記として隠さねばならなかったのである。
『勘注系図』は、大倭姫命という二人の大和朝廷の最高権力者の名を記す。これがまったくの作り話でないことは、邪馬台国に二人の女王が在ったとする、中国史書が裏付ける。

『勘注系図』は『日本書紀』や『古事記』と深くかかわる伝承を多く伝える。また系譜上の人物が、古い時代の天皇と深くかかわる。その意味で『日本書紀』や『古事記』を補完する一級の歴史史料である。
『勘注系図』をはじめとして、これらの系譜史料が、これまで語られてきた日本古代史とは異なった、歴史像を提示することになろう。
(以上終章の抜粋)

『勘注系図』は本系図や尾張氏系譜からの派生ではない

 一部の論者の中に『勘注系図』は『本系図』に詳しい注記を加えた、あるいは、尾張氏系譜を元に作成された系図などと云う。
この人たちは、まともに『勘注系図』を読んでいない。
たとえば『本系図』と『勘注系図』は、645年以降、籠(この)神社の神官として従事した年次と期間を記す。

(詳しくはこちら)

『本系図』はこの年次と期間に全く整合性が無い。『勘注系図』は一箇所、計算間違いと思われる部分があるが、他は整合性がある。
『本系図』は、年次と期間の対応する人物を、一行間違えて書き写すのである。両者を比較すれば『勘注系図』が、『本系図』からの派生でないことは容易に理解できる。

また『先代旧事本紀』の尾張氏系譜を元にした偽系図と主張する人がある。
『勘注系図』の前半は、尾張氏系譜とよく似た系譜を伝える。

(詳しくはこちら)

これは古い時代、丹波は葛城に居た尾張氏の支配地であった事による。したがって尾張氏の当主が海部の系図の中に登場する。二つはよく似た系譜を伝えるが、名前の漢字表記などは微妙に異なる。
一例を挙げれば、四世孫天登目命と天戸目命、五世孫建登米命と建斗米命、六世孫建田勢命と建田背命などである。その後の人名表記にも微妙な違いがある。
また二つの系譜を比べると、明らかに尾張氏系譜に誤りと思われる箇所がある。
尾張氏系譜は、七世孫建諸隅命を、五代孝昭の時代の人として、その妹大海姫命を十代崇神の妃とする。
このまま解釈すれば、五代孝昭と十代崇神が同じ時代となってしまう。明らかな誤りである。
このような誤りが生まれる理由には、次のような事情がある。
海部氏は「あま」とよばれる一族で、海部当主の娘はすべて大海姫と称される。五代孝昭の皇后世襲足媛(よそたらしひめ)も、建諸隅命の妹も、崇神の妃になった女性も、みんな大海姫命なのである。そのために尾張氏系譜は、これらの大海姫を混同する。
『勘注系図』は、明確に書き分ける。孝昭の皇后世襲足媛についての記載は無いが、建諸隅命の妹、大海姫命のまたの名を、孝霊の妃、大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)とする。更に崇神の妃になった大海姫命を、葛木高千名姫命(かつらぎたかちなひめのみこと)とし、またの名を八坂振天伊呂邊(やさかふるあまいろべ)とする。『日本書紀』でも一書に云うとして、崇神の妃の一人を、大海宿禰の娘、八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする。

(詳しくはこちら)

このようにそれぞれの系譜伝承を比較すると『勘注系図』が、『本系図』や尾張氏系図からの派生でないことが解る。『勘注系図』を偽系図と決めつける人は、まともに『勘注系図』を見ていないのである。

2018年12月27日

東大寺山古墳出土、中平銘鉄刀の謎

東大寺山古墳から中平の年号が刻まれた鉄刀が出土している。
中平とは後漢の年号で184年から189年とされる。
中国史書の『梁書』は、霊帝光和中に倭国乱が起き、その後卑弥呼が擁立されたとする。
霊帝光和とは、中平の前の年号で178年から184年とされる。この『梁書』の情報が正しければ、中平は卑弥呼が王位に擁立された間もない頃である。
したがって、この刀は卑弥呼に贈られた刀と、私は考える。
それでは誰から贈られたかである。
私は卑弥呼が公孫度(こうそんたく)に朝貢し、公孫度から贈られた刀と考える。
その理由である。

わが国の古墳時代の刀は、まっすぐな直刀である。中平の年号が刻まれた刀は、内反りの中国刀である。大陸から持ち込まれた刀にまちがいない。刀の背に金象嵌で24文字が刻まれる。
金で象嵌するという事は、普通の人が行ないえるような事ではない。皇帝あるいは王が国の行事の記念品として作成したのである。朝貢に対して与えた品物であろう。それを与えたのは誰かである。最初に思い浮かぶのが、後漢の霊帝である。だが、後漢の皇帝から贈られたものではなかろう。なぜなら後漢の記録に見当たらない。『後漢書倭伝』は57年の奴国の朝貢や、107年の倭国王の朝貢記事を記す。これらの記事の原典は『起居注』という皇帝の活動記録であろう。そこに中平年代の倭による朝貢の記録は見当たらない。したがって後漢王朝から贈られたものでは無かろう。

もう一つ後漢王朝からではないとする理由がある。
この鉄刀の発掘を行なった金関 恕(かなせき ひろし)氏は、銘文の字体は後漢の専用工房で刻まれたものでは無いとする。後漢の専用工房で作成された鏡などの字体は、様式化が進んだ隷書体(れいしょたい)である。ところうが鉄刀の字体は、様式化された字体ではない。したがって後漢王朝の工房で象嵌されたものではなかろうとする。

誰から贈られたか

後漢王朝は、184年に起きた黄巾の乱以降、弱体化が始まる。この期に乗じ、遼東太守という地方官であった公孫度(こうそんたく)は、189年に遼東王を名乗り、半独立国を樹立する。遼東王を名乗るが、後漢の臣下という立場も残し、使い分けている。

邪馬台国は、大陸の政治状況に敏感である。最初に卑弥呼が魏に使いを送ったのは、魏が公孫氏を滅ぼし、極東が魏の影響下になった時である。また266年、倭女王が西晋に使いを送ったのも魏から西晋へと王朝が変わった時である。公孫度の政治的影響は、朝鮮半島にも及んだと推測される。公孫度が遼東王を名乗ったとき、邪馬台国が使いを送った可能性は高い。中平の年号は189年までである。だとすれば消えて読めない年号は、公孫度が遼東王を名乗った189年となろう。
私はこの中平の年号が刻まれた鉄刀は、卑弥呼が公孫度に朝貢し、その答礼として贈られた刀と考える。

なぜ東大寺山古墳から出土したのか

私は尾張氏の宇那比姫命を卑弥呼とする。中平銘鉄刀と卑弥呼を結びつける系譜がある。
静岡県磐田市(いわたし)に、国玉神社(くにたまじんじゃ)と云う神社がある。宮司家は大久保家である。この大久保家は古代有力豪族、和邇氏(わにうじ)の系譜を伝える。
そこに次のような書き込みを見る。
『押媛命、母は建田背命の妹、宇那比媛命也』とする。
押媛命(おしひめ)とは天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の子である。その母親を、宇那比姫命とするわけであるから、宇那比姫命と天足彦国押人命は夫婦である。宇那比姫命を、建田背命(たけだせのみこと)の妹とするから、私が卑弥呼とする尾張氏の宇那比姫命で間違いない。
天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物である。したがって宇那比姫命もまた和邇氏の祖となる。
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上記系譜によれば天足彦国押人の子供、和爾日子押人(わにひこおしひと)は和爾(わに)の里に居るとする。和爾の里とは、現在の天理市櫟本(いちのもと)町あたりである。東大寺山古墳もまたこの櫟本町で、ここは和邇氏の墓である。
宇那比姫命すなわち卑弥呼は、和邇氏の祖で、中平銘鉄刀は、その子孫の墓から出土したのである。それは、卑弥呼の遺品であることを裏付ける。また私の宇那比姫命が卑弥呼であるという説の傍証となる。

東大寺山の被葬者はだれか

被葬者は武振熊(たけふるくま・建振熊)である。
天理市櫟本には全長140mの東大寺山古墳を始めとして、110mの赤土山古墳、105mの和爾下神社古墳がある。築造の順序は東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳とされる。三世紀末頃から四世紀前半の築造とされる。

『勘注系図』によると、建振熊は神功皇后の新羅出兵に際し、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率いて新羅に出兵したとする。また『日本書紀』によれば、神功皇后たちが大和に帰還しようとすると、仲哀の遺児、忍熊皇子(おしくまのみこ)香坂皇子(かごさかのみこ)と戦いになる。最後は武振熊が忍熊皇子を琵琶湖のほとりに追い詰め、神功側の勝利となる。
武振熊は神功、応神朝成立の功労者である。そのことによって和邇氏は神功応神朝の有力豪族となる。その戦いは仲哀が没した362年の翌年である。おそらく363年に活躍した武振熊が没したのは、四世紀後半であろう。東大寺山古墳の築造はこの頃である。
和邇氏の墓域に突如として出現する、全長140mの前方後円墳は、神功応神朝成立の功労者として、王権の中枢へと進出した武振熊の墓であろう。また副葬されてい膨大な武具は、この被葬者が武人であることを物語る。

柄頭(つかがしら)を付け換えた五本の刀

東大寺山古墳から、中平の年号が刻まれた刀を含め、握りの後ろの飾りを交換した刀が5本出土している。環頭飾(かんとうかざり)と称される部分で、青銅製の鋳物で作られている。
この飾りは、刀身の部分とは制作年代が異なり、四世紀後半の物とされる。四世紀後半であれば被葬者が作らせた物である。
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5本それぞれに形の違う飾りを、わざわざ作り換えている。この刀に対する強い思い入れがうかがえる。
卑弥呼が没してこの古墳が造られるまで150年とは経っていない。この古墳に葬られた人は、この刀の来歴を知っていたと思われる。
自分の祖先が大和朝廷の最高権力者であり、この刀はその最高権力者に贈られた物である事を知っていたから作り換えたのである。環頭飾(かんとうかざり)を付ける価値のある品物なのである。

環頭飾が付け換えられた刀は5本出土している。他の4本も中平銘の刀と同様の来歴によると推測する。その来歴の推測である。

卑弥呼は景初三年の遣使で、魏から2本の五尺刀を贈られている。
正始元年にも本数は不明であるが刀が贈られている。
中平の刀と合わせて少なくとも、4本の中国刀が渡来している。私は環頭飾の付け換えられた5本の刀の内、少なくとも4本は、卑弥呼が受け取った物で、卑弥呼の遺品と考える。卑弥呼の子孫であれば、この刀に寄せる想いはひとかどではない。自分たちの祖先が、かって大和朝廷の最高権力者であったことを物語る遺品なのである。
そして残りの1本である。私は台与に贈られた刀ではないかと想像する。

『魏志倭人伝』によれば、掖邪狗とする人物が二度に渡って魏に渡る。正始四年の卑弥呼の遣使と、台与が擁立された後、台与の遣使としてである。この人物は、天足彦国押人命と宇那比姫命の子である和爾日子押人であると考える。和爾日子押人は、またの名を稚押彦(わかおしひこ)ともする。
掖邪狗の狗は彦である。掖(わき)邪(や)狗(ひこ)と読んで、稚彦(わかひこ)とする。稚押彦の通称を稚彦とすれば、掖邪狗の読みは「わかひこ」に近い。
台与の遣使も刀を持ち帰ったとすれば、5本の刀の一つとして伝わったとしてもおかしくない。
5本の内、4本は卑弥呼に、1本は台与に贈られた刀ではないかと推測する。中平銘鉄刀は公孫度から、後の4本は魏王朝からである。
posted by 曲学の徒 at 07:29| Comment(1) | TrackBack(0) | 和邇氏

2018年12月13日

纒向は卑弥呼の王都か?

 橿考研の元研究者や、桜井市の教育委員会は、纒向こそが卑弥呼の王都と考えておられるようである。だが纒向は、邪馬台国(後の大和朝廷)の王都であるが、卑弥呼時代の王都では無い。

 初期大和朝廷の宮は奈良盆地の南部に集中する。
初代神武の宮から、六代孝安までの宮は、現在の御所市から橿原市の内である。
奈良盆地南部が初期大和朝廷の王都の場所なのである。
七代孝霊になって奈良盆地の中央部へと移動する。十二代景行までは奈良盆地の内にある。だが、十二代景行の後半から、宮の場所は奈良盆地を離れて、十三代成務は滋賀県となる。
以降、十四代仲哀、十五代応神、十六代仁徳なども奈良盆地以外の場所に宮を営む。

次の図で赤丸数字が宮の場所、青字は葬られたとされる場所。

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歴代天皇  場所      宮の名    葬られた場所

@神武天皇 畝傍(橿原市) 橿原宮    畝傍山東北陵(橿原市)
A綏靖天皇 葛城(御所市) 高丘宮    桃花鳥田丘上陵(橿原市)
B安寧天皇 片塩(橿原市) 浮孔宮    畝傍山西南御陰井上陵(橿原市)
C懿徳天皇 軽 (橿原市) 曲峡宮    畝傍山南纖沙溪上陵(橿原市)
D孝昭天皇 掖上(御所市) 池心宮    掖上博多山上陵(御所市)
E孝安天皇 室 (御所市) 秋津島宮   玉手丘上陵(御所市)
F孝霊天皇 黒田(磯城郡田原本町)廬戸宮 片丘馬坂陵(北葛城郡王寺町)
G孝元天皇 軽 (橿原市) 境原宮    劔池嶋上陵(橿原市)
H開化天皇 春日(奈良市) 率川宮    春日率川坂上陵(奈良市)
I崇神天皇 磯城(桜井市) 瑞籬宮    山邊道勾岡上陵(天理市)
J垂仁天皇 纒向(桜井市) 珠城宮    菅原伏見東陵(奈良市)
K景行天皇 纒向(桜井市) 日代宮    山邊道上陵(天理市)

纒向を卑弥呼の王都とする根拠の一つが「纒向遺跡では各地から持ち込まれた土器が出土する。出土土器の15%くらいが外来から持ち込まれた土器」とする。
単に外来土器の出土を、卑弥呼王宮の場所の根拠とするなら、私が卑弥呼の王宮とする秋津遺跡からも多数の外来土器が出土する。次の写真は秋津遺跡から出土した土器である。東海や瀬戸内海周辺から持ち込まれている。
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しかも東海系の土器には、多孔銅鏃と同時代とされる土器が出土している。
多孔銅鏃は東海地方を中心として、二世紀から三世紀前半にかけて周辺に広がったとされる。
もう一つ纒向を卑弥呼の王都と主張する論拠がある。

 2009年纒向遺跡から大型建物の柱穴が出土した。それは三世紀前半の全国最大規模の建物であるだけでなく、四棟の建物が中心を揃えて一直線に並ぶという計画的建物群であることから、あたかも纒向が卑弥呼の王都で決まりという論調が目立つ。次の図は纒向遺跡から出土した大型建物の想像図と遺構の図である。計画的配置とされる。
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だが方位を揃えた建物群は、秋津遺跡にも見られる。一棟、一棟の建物の大きさは、纒向の大型建物に及ぶべくもないが、こちらも方位を揃えた計画的建物群であり、その広さは尋常ではない。
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 纒向卑弥呼の王都説の最大の弱点は、直接卑弥呼につながる根拠が無いことである。たとえ三世紀前半の大型建物が出土しようとも、それをもつて卑弥呼の王都と決まるわけではない。
纒向遺跡はまぎれもなく邪馬台国の王都である。しかしながら崇神、垂仁、景行と続く時代の王都である。私の年代観では、270年代から340年代まで宮が置かれた場所である。
卑弥呼の時代とは、崇神より前の時代である。『日本書紀』や『古事記』を信じるなら、崇神以前に、纒向に宮が営まれたとする記載はない。纒向は邪馬台国すなわち後の大和朝廷の王都であっても、卑弥呼の時代の王都ではない。
posted by 曲学の徒 at 16:09| Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史
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