2017年09月20日

宇那比姫が卑弥呼である5つの理由

第一は『勘注系図』に記された宇那比姫命の別名である。
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大倭姫、天造日女命、日女命である。
最初の大倭姫とは「おおやまと」の国の姫君という意味である。「やまと」という言葉には二つの意味がある。一つは現在の奈良県を意味する地域名。もう一つは「やまと」に政治の中心が在った時代、その政治主体が支配する国域の名、すなわち国名である。その場合、明示的には「やまと」に「大」を付けて「おおやまと」と呼ぶ。
古い時代の天皇にはこの「おおやまと」が付けられる。
大日本彦耜友天皇(おおやまとひこすきとものすめらみこと)四代懿徳天皇である。漢字では「大倭」「大日本」などと表記される。他にも五代孝昭、六代孝安、七代孝霊、八代孝元などもこの「おおやまと」が冠せられる。
大倭姫とは古い時代の天皇と同格の権威を持つ名前で、「やまと」の国の最高権力者の名である。
『後漢書倭伝』は次のように記す。
「国皆称王、世世伝統。其大倭王居邪馬臺国」これを日本語的に解釈すれば「国々は皆王を名のり、王統を伝えている。大倭(おおやまとの)の王は邪馬台国(やまとのくに)に居る」この場合の「大倭」は国名であり邪馬台国は地域名である。大倭姫とはこの国名を冠する名前で、中国史書が女王とする人物である。

次の天造日女命とは、天下人を意味する。国造(くにのみやつこ)という言葉がある。大和朝廷が任命した地域支配の長のことである。この「造」には支配者、という意味が有る。天造であれば天下の支配者という意味で天下人を意味する。まさに邪馬台国の女王の名である。

そして日女命である。日女とは高貴な女性を意味する普通名詞で、姫あるいは媛と同じ意味。これに尊称の命を付けたものが、日女命である。読みは「ひめみこと」で、これを大陸の人が卑弥呼と音写したのである。

第二は、宇那比姫の活躍年代は三世紀前半ということ。
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『勘注系図』は宇那比姫命を、天火明命六世孫とする。
八世孫に日本得魂命(やまとえたまのみこと)という人物を記す。日本得魂命は、崇神時代に活躍した人。崇神の妃となった八坂振天伊呂邊(やさかふるあまいろへ)の父親である。古事記によると、崇神の没年は戊寅(つちのえとら)で、西暦318年と考える。日本得魂命は崇神より一世代くらい前の人物で、三世紀後半中ごろに活躍した人である。したがって六世孫とされる宇那比姫命は、日本得魂命の二世代前で、おおよそ三世紀前半の人である。中国史書によると卑弥呼は二世紀の末に、邪馬台国の女王に擁立され、248年か249年頃まで王位にあったとする。宇那比姫もこの年代に一致する。

第三は同族の系譜に台与を見る。
『魏志倭人伝』は卑弥呼の没後、倭国は戦乱におちいる。その後歳一三歳の台与が、女王に擁立され戦乱は治まったとする。この台与を卑弥呼の宗女とする。宗女とは同族の女性という意味である。
『勘注系図』には宇那比姫命の二世代後、八世孫に天豊姫命(あまとよひめのみこと)という名を記す。天はこの一族の姓のようなもので、名前は豊で、『魏志倭人伝』の台与である。この人もまた大和朝廷の女王の名である大倭姫と称される。
更に天豊姫は竹野姫といい、父親は由碁理である。由碁理という名は『古事記』にも登場する。九代開化の妃となった竹野媛の父親である。天豊姫は『記紀』が開化の妃とする竹野媛でもある。

第4は宇那比姫命の子孫の墓から出土した卑弥呼の遺品。
宇那比姫という名は『勘注系図』と『先代旧事本紀』尾張氏系譜に見る。
もう一つ宇那比姫命の名を見る系譜がある。
静岡県磐田市の国玉神社、宮司家である大久保家に伝わる系譜である。大久保家は和邇氏に始まる。そこに次のように記される。
『押媛命(一に忍鹿比売命)、母は建田背命の妹 宇那比媛命也』と記される。押媛命は、天足彦国押人命の子である。したがって宇那比姫命は天足彦国押人命の妻である。この宇那比姫命を建田背命の妹とするから尾張氏系譜の宇那比姫命で間違いない。宇那比姫には天足彦国押人命という夫が有ったのである。
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天足彦国押人命は和邇氏の祖とされる人物である。したがって、宇那比姫命もまた和邇氏の祖である。
奈良県天理市の東大寺山古墳から、中平の年号が象嵌された鉄刀が出土している。中平とはは184年から189年の事とされる。卑弥呼が王位に就いた初期の頃である。
私はこの鉄刀は公孫卓(こうそんたく)から卑弥呼に贈られた刀と考える。
東大寺山古墳は和邇氏の墓で、宇那比姫命は和邇氏の祖先でもある。したがって宇那比姫命の子孫の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される刀が出土したのである。
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宇那比姫が卑弥呼であることの傍証となる品である。また私は東大寺山古墳の被葬者は、古墳の築造年代からこの系図の武振熊命と考える。

第5は六代孝安の葬られた山に径百余歩の墓をみること。
先の和邇氏の系譜によれば、六代孝安は宇那比姫命の夫、天足彦国押人命の弟で、宇那比姫の義理の弟である。
『記紀』は孝安を玉手の丘に葬ったとする。玉手の丘とは御所市玉手の玉手山である。
その山に径百余歩に相当する尾根がある。その尾根に墳丘が築かれる。尾根と墳丘を一体とすれば、まさに径百余歩すなわち直径150mの円墳である。
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それまでこの古墳は奈良県の遺跡地図で、古墳と認識されてはいなかった。
私は孝安が宇那比姫命の義理の弟であることを知った。それにより卑弥呼の王宮は孝安の宮とされる秋津嶋宮と考えた。卑弥呼の墓はこの秋津嶋宮の近くにあると推測した。径百余歩といえば相当大きな規模である。たとえ長い年月の間に、その形は大きく変容しているとしても、なんらかの痕跡が存在すると考えた。そこで航空写真を眺め玉手山に約150mの円形の尾根を発見したのである。古墳であろうと考え現地を踏査し、古墳であると確信した。後に発掘によって墳丘の盛り土の中から遺物が出土し、古墳と確定した。
宇那比姫命が卑弥呼であるという仮説の元に、一度も足を踏み入れたことのない山に、古墳を発見できたのである。孝安が葬られたとする山に、径百余歩の墓を見るのは偶然ではない。
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2017年09月03日

アマゾン電子本出版

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2017年08月22日

ホビー用ドローンによるレーザー測量

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上の写真は、奈良県御所市玉手山の、航空写真である。
この山に存在する、円形の尾根と楕円の尾根は、列島最大の円墳であると考える。
尾根そのものは自然の尾根であるが、尾根の中心部には盛り土による墳丘が存在し、墳丘の盛り土は尾根の中腹に及ぶ。私は尾根の裾は、人為的な改変があると考えている。そのことから、尾根全体を墓域とする、古墳であると考える。前方後円墳などを除けば、我が国最大の円墳である。そのことを実証したい。

航空レーザ測量による、詳細な立体地形図を作成すれば、人為的な改変の有無を判別できると考える。
次の図は、橿原考古学研究所が行った航空レーザー測量による、千塚古墳群の立体地形図である。
航空レ―ザー測量による利点は、樹木などに覆われた地形であっても、樹木の間を通り抜けたレーザーにより、地形の測量が可能なことである。
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近年ドローンを使った、航空レーザ―測量が試みられている。だが搭載するシステムが高価でかっ重い。
写真RIGL製の、一番コンパクトな製品でも1.5Kgほどである。しかも機体の位置を知るために、GPSと、加速度センサー、ジャイロセンサーを使った慣性計測装置を別途準備する必要がある。
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私はホビー用ドローンに搭載できる、安価で軽量なシステムが開発できないかと考える。
構想は次のようなものである。
ポケットに入るレーザー距離計と、スマートホンとを組み合わせたシステムである。
測定できる距離や、レーザーパルスの数を落とすなどして、機能を絞り込めば、このシステムでも運用は可能である。
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写真のレーザー距離計は最大250mの距離の測定ができる。重量は200gくらい。
一方スマートホンは重量150g前後である。GPSや、慣性計測装置の、加速度センサー、ジャイロセンサーを備えているので、そのまま利用できる。

レーザ距離計は単4乾電池を使う。電源をスマートホンと共用すれば、軽量化が可能である。
またスマートホンで距離データ取得に不必要な、バイブレータ用モータ、音声マイク、スピーカー、カメラなどを外し、軽量化が可能である。レーザーのパルス化とレーザー距離計と、スマートホンのデータ接続を組み込んでも、総重量300gくらいに納めることが可能であろう。
どなたか、このシステムを開発してみませんか。
短期間で製品化できれば、大きな市場を獲得できると思います。

この古墳こそ径百余歩(直径約150m)とされる卑弥呼墓なのである。このシステムで日本1の円墳であることを実証したら、この製品の宣伝効果は計り知れない。
posted by 曲学の徒 at 15:33 | Comment(1) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2017年07月12日

『大和朝廷史』電子本

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第1巻 大和朝廷はいつ始まったか

第2巻 欠史八代の時代

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2017年06月19日

出雲王権の歴史

大国主を祭る出雲氏と大神氏(おおみわし)

 私は『日本書紀』の中で語られる、大国主と『出雲風土記』に登場する大国主の関係が今一つ解らなかった。
島根県の出雲大社と奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は、何れも大国主を祭る。
出雲大社の祭祀を行うのは、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の千家家と北島家で出雲氏である。一方、大神神社(おおみわじんじゃ)の神官家は大神氏(おおみわし・大三輪氏)である。
何れも祭神は大国主であるが、この出雲氏と大三輪氏との関係が今一つはっきりしなかった。

中田憲信という人が著した諸系譜第1冊に、伊勢津彦之裔(いせつひこのえい)とする系図が示される。この系図の前半は出雲大社を祭る、出雲氏の系譜とほぼ同じである。この系譜の最初は意美豆奴命(おみずぬのみこと)という人物である。次を天穂日命(あめのほひのみこと)とする。
一方出雲国造(いずものくにのみやつこ)である出雲氏の最初は、天穂日に始まる。意美豆奴命(おみずぬのみこと)は登場しない。

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このあまり聞きなれない、意美豆奴命(古事記では淤美豆奴神・おみずぬのかみ)によって、出雲氏と大神氏の関係が明らかになった。
『古事記』は次のような系譜を伝える。
淤美豆奴神(おみずぬのかみ)、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)と続く系譜である。淤美豆奴神を大国主の祖父とする。
この大国主に続く子孫が、現在の奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)を祭る大神氏(おおみわうじ・三輪氏)である。

伊勢津彦之裔の系図は意美豆奴命、天穂日命とするが、天穂日は出雲の人ではない。
天神とされる高皇産霊(たかみむすひ)によって、出雲を平定するために派遣された人物である。天穂日は出雲に取り込まれ帰ってこなかったとする。更に天穂日の子、大背飯三熊之大人(おおそびみくまのうし)を派遣するが、これもまた出雲に留まって戻らない。
したがって伊勢津彦之裔系図は、意美豆奴命から天穂日命に続けるが、この関係は親子ではない。

出雲市西園町の長浜神社は、八束水臣津野命(やつかみずおみつのみのみこと)を主祭神として淤美豆奴命(おみずぬのみこと)を祭る。淤美豆奴命は八束水臣津野命(やつかみずおみつのみのみこと)の子とされる。八束水臣津野命は『出雲風土記』に登場する国引き神話の人物である。
伊勢津彦之裔の系図は、意美豆奴命に続けて天穂日命とするから、天穂日命は淤美豆奴の後を継いだのである。さらに系図は天夷鳥(あめのひなとり)と続く。この系図によると『日本書紀』が、天穂日の子とする、大背飯三熊之大人(おおそびみくまのうし)は天夷鳥(あめのひなとり)の事とする。

この天穂日の子孫が出雲臣とされる一族で、現在の出雲大社を祭る千家、北島氏につながる。
その後、高皇産霊(たかみむすひ)は武甕槌(たけみかずち・武御雷)を派遣する。武甕槌は稲佐(いなさ)の浜で大国主に国譲りをせまる。かくして葦原中国(あしはらのなかつこく)は天神の治めるところとなったとされる。

出雲王権の歴史

 これらの系譜伝承や神話によれば、最初に出雲を統一するのは八束水臣津野命(やつかみずおみつのみのみこと)である。だが国引き神話に見る、その範囲は現在の出雲市から松江市あたりの、島根県の一部にとどまる。
そして曾孫にあたる大国主が、国域を大きく拡大する。いわゆる大国主の国造神話である。
大国主の妃の出身地は、北は新潟県糸魚川市、西は福岡県宗像市に及ぶ。また『日本書紀』によると大己貴(おおなむち・大国主)の幸魂奇魂(さきたまくしたま)が三諸山に住みたいといったので、そこに宮を営み住だまわせたとする。出雲から大和に移り住んだようである。
三諸山山麓の桜井市から御所市にかけて、奈良盆地東南部には、大国主とその子供たちを祭神とする神社が多く存在する。出雲族の痕跡を残す。
しかしその後天神に武力で国譲りを迫られ、これらの国を天神に受け渡し、出雲に引っ込むのである。

次に大和に進出したのが、天神とされる饒速日(にぎはやひ)である。饒速日の子供とされる宇摩志麻治(うましまじ)の時代になって、同じ天神とされる神武が大和に進出する。最初宇摩志麻治は、神武と戦うが最後は神武に帰順する。神武が大和とその周辺を平定し、ここに大和朝廷が始まる。
神武は、大国主の後を継いだ都味歯八重事代主(つみはやえことしろぬし)の子、姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)を皇后として、出雲の権威を取り込むのである。また姫蹈鞴五十鈴姫の兄、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと)は、神武の食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)となって神武に仕えたとされる。食国政申大夫とは後の大臣(おおみ)のこととされる。

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出雲大社を祭る出雲氏は天から派遣された天穂日の子孫であり、大神神社を祭る大三輪氏は出雲を出自とする一族の後裔である。天穂日が天から派遣されるとする「天」がどこであるかは不明である。

また大国主の子孫、美志卯(みしう)は神武時代に素賀国造(今の静岡県掛川当たり)に任じられる。美志卯(みしう)の父、伊佐我は伊勢津彦とよばれ、三重県伊勢あたりに居た。しかし神武が大和朝廷を立てたことにより、日鷲命(ひわしのみこと)に追われ、東国に逃げたとされる。伊勢津彦之裔とされる東国諸国造系図は、伊勢津彦の子孫の系譜となる。

神武以降の時代にあって、出雲氏の沙麻奈媛(さまなひめ)が大神氏の飯勝命(いいかつのみこと)の妻となる。二つの氏族は近い関係にあることが伺われる。またその次の世代、出雲色多利媛(いずもしこたりひめ)は、物部氏の大祢の妻となる。大和朝廷の有力豪族との間に婚姻関係がある。

神武が大和朝廷を立てる前、日本列島の広い範囲を支配下に置いたのは出雲に生まれた王権である。初期の大和朝廷は、この出雲王権の女性を皇后にするなど、この王権の権威に一目置いている。
だが十代崇神の時代になると、天夷鳥が天からもち来ったとする出雲の神宝を取り上げる。これが原因で起きた出雲の内紛を口実に、出雲王権の当主、出雲振根を殺してしまう。これを期に出雲王権は、大和朝廷の完全な支配下に置かれることとなる。
posted by 曲学の徒 at 06:19 | Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史