2019年08月11日

ミッシングリング

私は系譜伝承から未知の大型円墳を二つ発見した。
その一つが卑弥呼の墓である。そのきっかけとなったのも系譜伝承である。

私は『勘注系図』に卑弥呼を見た。そして卑弥呼と大和朝廷を結びつけるミッシングリングを和邇氏の系図に見ることになった。
静岡県磐田市国玉神社宮司家、大久保氏の系図がある。この系図の最初は、五代孝昭に始まる。その子供天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)と続く。和邇氏の祖とされる人物である。
この系図の注記が卑弥呼と大和朝廷を結びつけるミッシングリングなのである。
天足彦国押人命の子供が押媛命で、その注記に「母建田背命の妹宇那比媛姫命」と記す。

これにより一挙に謎が解けた。押媛命の母親を宇那比媛命とするから、宇那比媛命と天足彦国押人命は、夫婦である。六代孝安天皇は、宇那比媛命の義理の弟となり『魏志倭人伝』の「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする男弟なのである。
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孝安の宮は、室秋津島宮であり、ここが卑弥呼の宮と確信した。だが宮は地中に埋もれ、歩き回っただけでは解らない。径百余歩とされる卑弥呼の墓なら、目に見える形で存在するであろう。またその墓は、秋津嶋宮の近くにあるはずである。径百余歩の卑弥呼の墓を探すことにした。2008年のことである。
秋津嶋宮の伝承地である室の周りを山地が取り囲む。やみくもに山地に分け入っても見通しのきかない藪の中で古墳を探すのは大変だ。そこで航空写真を利用することにした。
室の北東玉手山に、三ケ所、不思議な形の尾根を見た。その一つは径百余歩すなわち150mくらいの円形を示す。古墳ではないかと踏査を行い、何れも古墳であると確信した。
後で知ることになるが一番南の古墳は、奈良県の遺跡地図で直径20mの円墳とされていた。
だが他の二つは、古墳とは認識されてはいなかった。初めて足を踏み入れた山で、いきなり二基の大型円墳を発見したのである。
これも後になって知ることになるが、この玉手山は、孝安が葬られたとされる山である。これは偶然ではないそのことによって、私はその一つを卑弥呼の墓と確信した。

この三基の古墳についてはこちらに詳しく記す。
http://yamatai.sblo.jp/category/776680-1.html


延喜式に興味深い記述がある。
孝安天皇陵を「兆域東西六町、南北六町、守戸五烟、遠陵」と記す。
墓域の広さは、おおよそ650m×650mである。天皇陵の兆域としては最大規模で、これは玉手山全域の広さである。
なぜ玉手山全域を墓域とする必要があったかである。私はこの3か所の尾根に存在する三基の古墳を一つの墓域としたと考える。孝安の墓のみなら、玉手山全域を墓域とすることは無かろう。この三基の墓をまとめて、特別な場所として管理しているのである。延喜式の編纂者たちが、その意味を知っていたかは不明である。
私はこの三基の墓の埋葬者を次のように推測する。一番北が卑弥呼、その次が孝安、そして一番南の20mの円墳は、押媛命とする。七代孝霊の墓は片岡馬坂で、もはやここにはない。

「母建田背命の妹宇那比媛姫命」という一文が、卑弥呼と大和朝廷を結び付けたミッシングリングである。この一文が無ければ、玉手山の古墳に巡り合うことはなかった。
posted by 曲学の徒 at 15:30| Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼には夫も子もあった

2019年08月08日

武振熊宿禰の墓

前ページのブログで、東大寺山古墳に葬られたのは武振熊命とした。ところうが厄介なことに『勘注系図』の18世孫武振熊宿禰の注記の中で、この人物は丹波熊野郡川上郷安田(たんばくまのこうりやすだ)に葬られたとする。武振熊は東大寺山に葬られたとする私の説と矛盾する。

後にこの謎が解けることになる。
先ず『勘注系図』の注記はは武振熊宿禰について次のように記す。

『息長足姫(おきながたらしひめ・神功皇后)、新羅(しらぎ)国征伐の時、丹波、但馬、若狭の海人三百人を率い水主(みずぬし)と為(な)って以って奉仕(つかえたてまつ)るなり。凱施(凱旋・がいせん)の后(のち)勳功に依り、若狭木津高向宮(たかむくのみや)を定め、海部直(あまべあたい)の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾(たてほこ)等を賜う。品田天皇(ほむたてんのう・応神)の御宇(みよ)国造(くにのみやつこ)として仕え奉る故に海部直亦(また)云う丹波直、亦云う但馬直(たじまのあたい)なり。』
神功の新羅出兵にの時、武振熊宿禰が海人300人を引き連れこの戦いに加わったとする。その功績で海部直(あまべあたえ)の姓を賜り、応神の時代に丹波、但馬の国造となったと解釈できる。
ところうが別の個所で極めてよく似た文章を見る。次のような文章である。

『難波根子武振熊命、息長足姫皇后 新羅の国征伐の時  丹波但馬の海人三百人を率い、水主と為って以って仕え奉るなり。凱旋の后勲功に依り、男武振熊宿禰 若狭木津高向宮
を定め、海部直の姓を賜う、而(しこう)して楯鉾等を賜う。品田天皇(ほむたてんのの御宇云々』

当初私はこの二つの文章は同じものとして読み過ごしていた。ところうがこの二つの文章は明確な違いがあることを知った。
神功の新羅征伐の時、丹波、但馬の海人三百人を率いたのは、父親の武振熊命で、応神朝に丹波但馬の国造になるのは息子の武振熊宿禰なのである。武振熊宿禰の前に「男」の字をつける。この「男」とは息子という意味である。すなわち武振熊命と武振熊宿禰は親子なのである。命と宿禰を明確に書き分ける。

このことにより東大寺山古墳の被葬者を武振熊命とすることに何の矛盾もなくなった。『勘注系図』が、武振熊宿禰の注記で、熊野郡川上安田に葬られたとするのは、息子の武振熊宿禰である。

熊野郡川上安田とは、現京丹後市久美浜町橋爪(はしずめ)あたりとされる。橋爪の南隣丘陵上に、島茶臼山古墳がある。三世紀末頃の前方後円墳である。
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全長四ニメートル、後円部径二五メートルの前方後円墳である。近辺に弥生後期あるいは古墳前期の墳丘墓は見られるが、前方後円墳で、武振熊宿禰が没したであろう三世紀末から四世紀初めの墓は、この島茶臼山古墳しか見当たらない。島茶臼山古墳こそ武振熊宿禰の墓であろう。
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島茶臼山古墳 後円部墳頂
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島茶臼山古墳は、京丹後市久美浜町にある極めてマイナーな古墳である。武振熊宿禰が、丹波熊野郡川上郷安田に葬られたとする『勘注系図』の情報が無ければ、誰れの墓か知る由もないのである。系譜伝承の面白さを知ることになる。
posted by 曲学の徒 at 15:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち

東大寺山古墳の被葬者

 百舌(もず)古墳群、古市古墳群が世界遺産に登録されることになって、古墳に対する関心も高まっている。
だが考古学者の間に次のような批判がある。百舌古墳群の中の、最大前方後円墳、仁徳天皇陵が本当に仁徳が葬られているか疑問である。これを仁徳陵という名前で登録することは、間違った認識を世界に発信することになるという批判である。
誰を葬った古墳かを知ることは、極めて難しい。誰の墓かを記した墓誌などが見られないことによる。
だが、私は系譜伝承から、いくつかの古墳について、その被葬者を特定できると考えている。

中平の年号が刻まれた鉄刀が出土した古墳がある。奈良県天理市の東大寺山古墳である。
このあたりには、全長140mの東大寺山古墳、106mの赤土山古墳、110mの和邇下神社古墳が存在する。その築造は、何れも4世紀末から5世紀の初めとされ、東大寺山古墳が最初に造られたとされる。ここは和邇氏(わにし)の墓域である。
東大寺山古墳説明看板
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東大寺山古墳、墳頂
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私はこの古墳の被葬者は、和邇氏の武振熊命(たけふるくまのみこと)であると考える。その理由は次のようなものである。

『勘注系図』によると武振熊は、神功の新羅出兵に際し、但馬、丹波、若狭の海人三百人を引き連れて参戦したとする。また『日本書紀』では、神功たちが大和に帰還しようとする時、これを阻もうとする、仲哀の遺児忍熊皇子(おしくまのみこ)たちと戦いになる。最後は武振熊命が、忍熊皇子を琵琶湖のほとりに追い詰め、神功側の勝利となる。武振熊は神功応神朝、成立の功労者なのである。これを期に和邇氏は、大和朝廷の有力豪族の一つとして、政権の中枢に躍り出る。
私は神功の新羅出兵は、363年の事とする。したがってこの頃活躍した武振熊は、300年代の終わりころの死亡であろう。東大寺山古墳の築造の年代である。またこの古墳から膨大な武具などが出土した。被葬者が武人であることを物語る。
王権の中枢に躍り出た最初の人物として武振熊命は、全長140mという皇族以外では、比較的大きな古墳に葬られるのである。
そしてこの武振熊は、私が卑弥呼とする宇那比姫の子孫でもある。このことによって、、中平銘鉄刀が、東大寺山古墳から出土した説明がつく。鉄刀は卑弥呼の遺品だからである。
宇那比姫命から武振熊に至る系譜は次のようなものである。
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私が、卑弥呼とする宇那比姫の夫は、和邇氏の祖とされる天足彦国押人命で、宇那比姫命もまた和邇氏の祖である。したがって鉄刀は卑弥呼の子孫の墓から出土したのである。詳しくは下記の記事。
http://yamatai.sblo.jp/article/185271382.html

中平年号の刻まれた鉄刀と、私が卑弥呼とする宇那比姫がつながったのは、静岡県磐田市国玉神社宮司家、大久保氏に伝わる系譜伝承である。
そこに記された 「押媛命(一に忍鹿比売命)母は建田背命の妹、宇那比媛命也」とする一文であった。
posted by 曲学の徒 at 11:41| Comment(0) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち

2019年08月04日

大倭とは何

 『魏志倭人伝』は「国々市有りて、有無するところを交易す。大倭の使いこれを監す」とする。
ここで唐突に「大倭」という単語が登場する。この一文だけでは「大倭」の意味は不明である。
だが『後漢書倭伝』の次の一文を読むと「大倭」の意味が理解できる。
「国々皆王を称し、世々統を伝う。その大倭王居る邪馬台国」である。
この一文は、『後漢書』の作者が、勝手に付け加えた文言ではない。なぜならこの前後は『魏志倭人伝』と良く似た文章が続く。この一行だけ『魏志倭人伝』にはない。こんな詳しい情報が他の史料に有ったとは考えられない。原典にあった文言である。

『後漢書倭伝』は「大倭王居る邪馬台国」とするから、「大倭」とは国名であろう。
それでは何という国名なのか。結論を言えば「おおやまとの国」である。
本来「倭」という字を「やまと」とは読めない。だが中国の史書が「大倭」とする意味は「おおやまと」のことであるから、『古事記』は「大倭」と記して「おおやまと」と読ませるのである。

「やまと」という言葉には、二つの意味がある。一つは現在の奈良県あたりの地域名である。もう一つはここに都がおかれた時代、その支配が及ぶ国域の名前である。「やまと魂」とか「やまと言葉」という場合は、後者の意味で使われる。
どちらも「やまとの国」であるが、後者を明示的に言う場合は「大」をつけて「おおやまとの国」という。
『後漢書倭伝』に登場する「大倭」は、「おおやまとの国」で、邪馬台国は「やまとの国」である。
現代の日本語的に表現すれば「おおやまとのおおきみ(大王)は大和の国に居る」となろう。


posted by 曲学の徒 at 21:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝

2019年08月03日

あなたは『後漢書倭伝』を読んだことがありますか?

邪馬台国論者の多くが、『後漢書倭伝』は『魏志倭人伝』を下敷きに書かれたとする説を、鵜呑みにしている。
下記にその比較文章を挙げる。一度両者を比較して読んで頂きたい。
http://kodai.sakura.ne.jp/gokannzy/03hikaku.html

『後漢書倭伝』の次の一文は興味深い。

『後漢書倭伝』 桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主
『魏志倭人伝』 倭国乱相攻伐歴年

『後漢書倭伝』は戦乱の時期を桓霊間(146年 - 189年)とし、「互いに攻伐して何年も主が無かった」とする。
私は「主」は「王」の書写誤りと考えるが、何れにしても一国の主権者あるいはリーダーの事であろう。
多くの論者がこの戦いを、国同士の戦いとする。しかしながらリーダーの存在しない国同士の戦いなど想像できない。主権者、すなわち王のいない戦いとは、王位をめぐる戦いで内乱である。
内乱であったから「よりて共に一女子を立て王と為す」という戦いの終息が可能なのである。
国同士の戦いなら、共通の王を擁立するなどということは考えられない。
posted by 曲学の徒 at 10:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝
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