2017年07月12日

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第1巻 大和朝廷はいつ始まったか

第2巻 欠史八代の時代

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posted by 曲学の徒 at 12:19 | Comment(1) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

2017年06月19日

出雲王権の歴史

大国主を祭る出雲氏と大神氏(おおみわし)

 私は『日本書紀』の中で語られる、大国主と『出雲風土記』に登場する大国主の関係が今一つ解らなかった。
島根県の出雲大社と奈良県の大神神社(おおみわじんじゃ)は、何れも大国主を祭る。
出雲大社の祭祀を行うのは、出雲国造(いずものくにのみやつこ)の千家家と北島家で出雲氏である。一方、大神神社(おおみわじんじゃ)の神官家は大神氏(おおみわし・大三輪氏)である。
何れも祭神は大国主であるが、この出雲氏と大三輪氏との関係が今一つはっきりしなかった。

中田憲信という人が著した諸系譜第1冊に、伊勢津彦之裔(いせつひこのえい)とする系図が示される。この系図の前半は出雲大社を祭る、出雲氏の系譜とほぼ同じである。この系譜の最初は意美豆奴命(おみずぬのみこと)という人物である。次を天穂日命(あめのほひのみこと)とする。
一方出雲国造(いずものくにのみやつこ)である出雲氏の最初は、天穂日に始まる。意美豆奴命(おみずぬのみこと)は登場しない。

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このあまり聞きなれない、意美豆奴命(古事記では淤美豆奴神・おみずぬのかみ)によって、出雲氏と大神氏の関係が明らかになった。
『古事記』は次のような系譜を伝える。
淤美豆奴神(おみずぬのかみ)、天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、大国主神(おおくにぬしのかみ)と続く系譜である。淤美豆奴神を大国主の祖父とする。
この大国主に続く子孫が、現在の奈良県桜井市の大神神社(おおみわじんじゃ)を祭る大神氏(おおみわうじ・三輪氏)である。

伊勢津彦之裔の系図は意美豆奴命、天穂日命とするが、天穂日は出雲の人ではない。
天神とされる高皇産霊(たかみむすひ)によって、出雲を平定するために派遣された人物である。天穂日は出雲に取り込まれ帰ってこなかったとする。更に天穂日の子、大背飯三熊之大人(おおそびみくまのうし)を派遣するが、これもまた出雲に留まって戻らない。
したがって伊勢津彦之裔系図は、意美豆奴命から天穂日命に続けるが、この関係は親子ではない。

出雲市西園町の長浜神社は、八束水臣津野命(やつかみずおみつのみのみこと)を主祭神として淤美豆奴命(おみずぬのみこと)を祭る。淤美豆奴命は八束水臣津野命(やつかみずおみつのみのみこと)の子とされる。八束水臣津野命は『出雲風土記』に登場する国引き神話の人物である。
伊勢津彦之裔の系図は、意美豆奴命に続けて天穂日命とするから、天穂日命は淤美豆奴の後を継いだのである。さらに系図は天夷鳥(あめのひなとり)と続く。この系図によると『日本書紀』が、天穂日の子とする、大背飯三熊之大人(おおそびみくまのうし)は天夷鳥(あめのひなとり)の事とする。

この天穂日の子孫が出雲臣とされる一族で、現在の出雲大社を祭る千家、北島氏につながる。
その後、高皇産霊(たかみむすひ)は武甕槌(たけみかずち・武御雷)を派遣する。武甕槌は稲佐(いなさ)の浜で大国主に国譲りをせまる。かくして葦原中国(あしはらのなかつこく)は天神の治めるところとなったとされる。

出雲王権の歴史

 これらの系譜伝承や神話によれば、最初に出雲を統一するのは八束水臣津野命(やつかみずおみつのみのみこと)である。だが国引き神話に見る、その範囲は現在の出雲市から松江市あたりの、島根県の一部にとどまる。
そして曾孫にあたる大国主が、国域を大きく拡大する。いわゆる大国主の国造神話である。
大国主の妃の出身地は、北は新潟県糸魚川市、西は福岡県宗像市に及ぶ。また『日本書紀』によると大己貴(おおなむち・大国主)の幸魂奇魂(さきたまくしたま)が三諸山に住みたいといったので、そこに宮を営み住だまわせたとする。出雲から大和に移り住んだようである。
三諸山山麓の桜井市から御所市にかけて、奈良盆地東南部には、大国主とその子供たちを祭神とする神社が多く存在する。出雲族の痕跡を残す。
しかしその後天神に武力で国譲りを迫られ、これらの国を天神に受け渡し、出雲に引っ込むのである。

次に大和に進出したのが、天神とされる饒速日(にぎはやひ)である。饒速日の子供とされる宇摩志麻治(うましまじ)の時代になって、同じ天神とされる神武が大和に進出する。最初宇摩志麻治は、神武と戦うが最後は神武に帰順する。神武が大和とその周辺を平定し、ここに大和朝廷が始まる。
神武は、大国主の後を継いだ都味歯八重事代主(つみはやえことしろぬし)の子、姫蹈鞴五十鈴姫(ひめたたらいすずひめ)を皇后として、出雲の権威を取り込むのである。また姫蹈鞴五十鈴姫の兄、天日方奇日方命(あめのひがたくしびがたのみこと)は、神武の食国政申大夫(おすくにまつりごともうすまえつきみ)となって神武に仕えたとされる。食国政申大夫とは後の大臣(おおみ)のこととされる。

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出雲大社を祭る出雲氏は天から派遣された天穂日の子孫であり、大神神社を祭る大三輪氏は出雲を出自とする一族の後裔である。天穂日が天から派遣されるとする「天」がどこであるかは不明である。

また大国主の子孫、美志卯(みしう)は神武時代に素賀国造(今の静岡県掛川当たり)に任じられる。美志卯(みしう)の父、伊佐我は伊勢津彦とよばれ、三重県伊勢あたりに居た。しかし神武が大和朝廷を立てたことにより、日鷲命(ひわしのみこと)に追われ、東国に逃げたとされる。伊勢津彦之裔とされる東国諸国造系図は、伊勢津彦の子孫の系譜となる。

神武以降の時代にあって、出雲氏の沙麻奈媛(さまなひめ)が大神氏の飯勝命(いいかつのみこと)の妻となる。二つの氏族は近い関係にあることが伺われる。またその次の世代、出雲色多利媛(いずもしこたりひめ)は、物部氏の大祢の妻となる。大和朝廷の有力豪族との間に婚姻関係がある。

神武が大和朝廷を立てる前、日本列島の広い範囲を支配下に置いたのは出雲に生まれた王権である。初期の大和朝廷は、この出雲王権の女性を皇后にするなど、この王権の権威に一目置いている。
だが十代崇神の時代になると、天夷鳥が天からもち来ったとする出雲の神宝を取り上げる。これが原因で起きた出雲の内紛を口実に、出雲王権の当主、出雲振根を殺してしまう。これを期に出雲王権は、大和朝廷の完全な支配下に置かれることとなる。
posted by 曲学の徒 at 06:19 | Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史

2017年05月07日

卑弥呼の系譜

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この人が卑弥呼

丹波の支配者系図を伝える、海部氏の『勘注系図』という系図がある。その系図の六世孫に宇那比姫命(うなびひめのみこと)とい名を記す。宇那比姫命のまたの名として、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たかのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。何れも一人の女性の別名である。

先ず注目されるのは大倭姫(おおやまとひめ)である。
『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。
この女性は天皇と同格の、大倭(おおやまと)の名前を持つ。
「やまと」という言葉は現在の奈良県あたりを意味する地域名と、そこに政治の中心が在った時代、支配地域全体を指す国名でもある。国名として明示的に指す場合は「やまと」に「大」を付けて「おおやまと」と呼ぶ。漢字表記は「大倭」である。大倭姫は大和朝廷の最高権力者を意味する女王の名でもある。
さらにこの人は天造日女命(あまつくるひめみこと)という、尊大な名前を持つ。
律令制が敷かれる前の時代、大和朝廷により任命された、地域支配の長を国造(くにのみやつこ)と言う。この「造」には支配者の意味がある。「天」は天下であるから、天下を支配した姫君という意味である。
そしてまた、大海靈姫(おおあまひるめひめ)という巫(みこ)姫の名を持つ。『魏志倭人伝』は卑弥呼が「鬼道(きどう)」に長けていたことを伝える。この人もまた靈姫(ひるめひめ)という宗教的色彩を帯びた名前を持つ。
最後は日女命(ひめみこと)である。読みは「ひめみこと」であろうが、異国の人がこの音を『卑弥呼』と書き表しても不思議はない。
日女(ひめ)とは後の「姫」「媛(ひめ)」などと同じ、高貴な女性を指す普通名詞である。この日女に「命(みこと)」という尊称がついたのが日女命である。
大倭姫、天造日女命、大海靈姫命、日女命とくれば、この人はまさに『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の女王、卑弥呼である。

台与も登場する

『勘注系図』は宇那比姫の二世代後に、天豊姫命(あまとよひめのみこと)という女性を記す。この女性もまた大倭姫命の別名を持つ。
『魏志倭人伝』は卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が従わなかったとする。そのため千人ほどが死ぬ戦乱となる。そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与が擁立され、ようやく国が定まったとする。
天豊姫の「天(あま)」は、この一族に付けられる姓のようなものであるから、名前は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与の音と同じである。
天豊姫と宇那比姫は共に尾張氏の女性で同族の人である。『魏志倭人伝』が伝える「宗女」なのである。
天豊姫命の父親は、建諸隅(たけもろずみ)である。『勘注系図』は建諸隅の亦の名を由碁理(ゆごり)とする。由碁理という名前は『古事記』にも登場する。九代開化(かいか)の妃になった竹野姫(たかのひめ)の父親である。彼を丹波大縣主(たんばのおおあがたぬし)とするから、『勘注系図』という丹波の系図に登場することに不思議は無い。建諸隅命は由碁理(ゆごり)とみて間違いない。
だとすると天豊姫命は『日本書紀』や『古事記』が開化の妃とする、竹野媛である。
『勘注系図』は建諸隅命の注記に次のように記す。
建諸隅命は開化の時代、丹波の與余社郡(よさのこおり)に竹野姫(たかのひめ)の屯倉(みやけ)を置いて奉仕したとする。屯倉とは天皇家の私有地のことである。この事からもここに登場する竹野姫は、天皇家の人で『記紀』が開化の妃とする竹野媛であることが解る。

卑弥呼の出自は葛城高尾張

『勘注系図』では、宇那比姫を系図の端の方に六世孫として単独で記すのみで、系図の中でどのようにつながるのか不明である。だが『先代旧事本紀』尾張氏系譜を見ると、宇那比姫命の父親は建斗米、母親は紀伊氏の中名草姫であることが解る。更に宇那比姫命は建田背命を長男とする七人兄妹の一番末の娘である。
尾張氏は元は葛木高尾張と称された、現在の奈良県御所市近辺に居た一族である。愛知県の尾張氏もこの一族の後裔である。
宇那比姫は建斗米という尾張氏の当主の娘である。宇那比姫すなわち卑弥呼は、葛木高尾張の人である。その尾張氏の娘が『勘注系図』という丹波の系譜に登場するのは、丹波の人にとっても宇那比姫は特別な人であったからである。
またこの尾張氏は、葛城国造の葛城氏と何世代に渡って婚姻関係にあり強い縁戚関係にある。

卑弥呼の夫

『勘注系図』と『先代旧事本紀』尾張氏系譜の他に、もう一つ宇那比姫が登場する系譜がある。
静岡県磐田市國玉神社の大久保家につたわる系譜である。
大久保家は和邇氏に始まり、古い時代の和邇氏系譜を伝える。そこに次のような記述を見る。
『押媛命(おしひめのみこと)(一に忍鹿比売命(おしかひめのみこと)、母は建田背命(たけだせのみこと)の妹、宇那比媛命也)』とする。
押媛命とは天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の娘とされる。母親を宇那比媛命とするから宇那比媛命は天足彦国押人命の妻ということになる。宇那比媛命を建田背命の妹とするから尾張氏の宇那比姫命で間違いない。

卑弥呼の王宮は室秋津島宮

この系譜によってとてつもない事実が明らかになる。天足彦国押人には倭足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと)、すなわち六代孝安天皇という弟がある。孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟となる。
『魏志倭人伝』は卑弥呼には「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする。宇那比姫命には六人の兄弟があるがすべて兄で弟は居ない。弟に該当するのは義理の弟、孝安である。『魏志倭人伝』が伝える男弟とは孝安に他ならない。
孝安の宮は室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)とされる。秋津嶋宮は卑弥呼の王宮なのである。室とは奈良県御所市の南郊外である。京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、室(むろ)の場所から特異な建物遺構が出土した。私はこの遺構こそ卑弥呼の王宮の一部と考えている。


箸墓の被葬者

この卑弥呼系譜から興味深い事実が読み取れる。箸墓古墳の被葬者とされる倭途途日百襲媛(やまとととひひもしひめ)の系譜である。『勘注系図』は建諸隅命の妹に、大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)という名を記す。倭途途日百襲媛の母親と思われる人物である。『古事記』の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)と同一人物と考える。
『日本書紀』では倭国香媛(やまとのくにかひめ)とされる人物で、またの名を蠅伊呂泥(はえいろね・はえ某姉)とする。七代孝霊の妃となって倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)を生んだとされる。
『記紀』は蝿伊呂泥(はえいろね)と意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、あるいは倭国香媛(やまとのくにかひめ)は同一人物とする。
しかし蝿伊呂泥が登場する楽家系図に、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命という人物や、倭国香媛という名前は出てこない。また『勘注系図』には大倭久邇阿禮姫命と国香姫命の名を見るが、蝿伊呂泥や蝿伊呂杼は無い。共に孝霊の妃または皇后となった女性であるが別人と考えている。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/4-4-ooyamatokuniarehime.htm
倭途途日百襲媛は、台与すなわち開化の妃とされる竹野媛と、従妹の関係にある。したがって箸墓は卑弥呼の墓でも台与の墓でもない。
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2017年03月13日

秋津遺跡の消滅と尾張氏の衰退

秋津遺跡から古墳時代前期とする特異な遺構が出土した。この遺構は四世紀の後半で終わる。私は秋津遺跡の消滅とこの地域の尾張氏の動静が不明になることと深いかかわりがあると考えている。そこでこの地域の歴史を系譜伝承から探る。
秋津遺跡のある御所市は、古代において葛城上郡(かつらぎのかみのこおり)と称される地域である。
この葛城上郡の歴史を考える上で理解しておかなければならないことがある。

葛城国造という葛城氏と、武内宿禰の子、葛城襲津彦に始まる葛城氏は、異なる葛城氏である。後者が葛城氏と称されたかどうかも定かではない。
葛城国造の葛城氏は神武が大和朝廷を樹立した時、この地域の国造に任じられた氏族で二世紀初頭に始まる。
四世紀の後半になってこの地域で武内宿禰やその子供、葛城襲津彦の葛城氏が台頭する。五世紀初頭に宮山古墳を築いた豪族である。
葛城襲津彦は、その父親竹内宿禰が、葛城国造の女、葛姫を娶り生んだ子とされる。したがってこの葛城国造と無関係ではないが異なる葛城氏である。
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武内宿禰や葛城襲津彦がこの地の有力豪族となる前は、尾張氏がこの地の有力豪族であった。尾張氏の歴代の男子が葛城国造の女性を娶る。葛城国造と尾張氏は深い縁戚関係にある。
したがって四世紀中ごろまでは、この地域は葛城国造家と尾張氏の支配地域である。ところうが四世紀の中ごろを境にして、この地域の尾張氏の動静が系譜の上でたどれなくなる。これは四世紀の後半秋津遺跡が消滅することと深くかかわると考える。

尾張氏の系譜には次のような系譜の断絶がある。『先代旧事本紀』の尾張氏系譜でも、海部氏の『勘注系図』でも四世紀中ごろの十世孫を境に、葛木高尾張を本拠地とする尾張氏の系譜が途絶えてしまう。それ以降の系譜は、現在の愛知県に移った尾張氏の系譜となる。本家とも云うべき葛城に居た尾張氏の系譜が消えてしまうのである。
十世孫とされる人物たちは、おおよそ十三代成務朝時代の人である。この時代まで尾張氏と成務との関係が確認できる。ところうが十一世孫乎止与命という人物から、系譜は愛知県に移った尾張氏の系譜となる。
十世孫と十一世孫の間に系譜の断絶がある。ここを境に尾張氏の本家とも云うべき葛城高尾張に居た尾張氏の系譜が不明になるのである。私はこの系譜の断絶と秋津遺跡の終りとの間に深い関係があると推測する。


一四代仲哀亡き後武内宿禰は、仲哀の皇后神功と応神を担いで神功、応神朝を主導する。
この神功応神朝の樹立を境に、大和朝廷の権力構造は大きく変わるのである。
それまで大和朝廷の中枢であった尾張氏は、この神功応神朝を境に没落したと推測する。神功応神朝の成立とともにこの地域の尾張氏は滅び、替わって武内宿禰がこの地域の支配者として台頭したと考える。そして五世紀初頭には宮山古墳という全長230mの前方後円墳をこの地に出現させるのである。

宮山古墳を築いた氏族と秋津遺跡の住民とは関係のない氏族なのである。秋津遺跡は尾張氏と関わる遺構である。したがって武内宿禰や葛城襲津彦に始まる葛城氏との関係では秋津遺跡を理解することは出来ない。



posted by 曲学の徒 at 11:25 | Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史

2017年02月17日

警告

昨年何者かによって玉手山の古墳が荒らされている。
地図の×印の場所を掘っている。複数の者による度々の仕業である。
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文化財保護法違反の犯罪である。御所市派出所に届けた。今後スコップなどを持って玉手山に入ると警察に通報されます。
posted by 曲学の徒 at 16:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓