2019年03月23日

真珠か水晶玉か

『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』に倭国の産物を記す。両者に違いがある。

出真珠青玉其山有 『魏志倭人伝』
出白珠青玉其山有丹『後漢書倭伝』

私が問題にするのは真珠か白珠かである。
真珠なら貝から採れる真珠である。一方白珠なら水晶を加工した小玉である。

これは間違いなく白珠である。すなわち水晶の小玉なのである。当時倭国でも天然真珠は産出したかもしれない。だが特産品として記すほど産出したとは思われない。
一方水晶の小玉は倭国の重要な産物なのである。その証拠に台与の朝貢に際し「貢白珠五千」として5,000個の水晶小玉を献上している。倭国の重要な特産品なのである。

『後漢書倭伝』の記述が正しいのである。『後漢書倭伝』が『魏志倭人伝』からの派生などと主張する人たちは、『後漢書倭伝』を読んでいないのである。

そしてこの水晶加工品は、鉄素材を入手するための、重要な交易品なのである。その産地は丹波である。
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2019年03月21日

今日に続く世界最長の皇室は、何時始まったのか

2019年5月、126代とされる新天皇が誕生する。
今日まで続く、世界最長の皇室あるいは王家である。
この天皇家は何時始まるのか。それは今日につながる日本という国の始まりでもある。
720年に完成した『日本書紀』は、今日の皇室の祖先とされる、初代を神武天皇とする。神武が橿原宮で即位した年次を辛酉(かのととり)とする。これを年次に直すと紀元前660年となる。紀元前660年といえば縄文晩期、あるいは弥生時代の前期とされる時代である。とても詳細な年次や、事件の内容が伝わるとは考えられない。
また古い時代の天皇の年齢を、あり得ない長寿とする。明らかに大和朝廷の始まりを、実際より古く記す。

大和朝廷の始まりは107年倭国王朝貢の直前


それでは、この大和朝廷の始まりは何時の事なのか。
それを知る手がかりがある。中国史書の『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』である。

これまでそれらの史書に登場する、倭国や邪馬台国と大和朝廷の関係が不明であった。
だが私は、系譜伝承から、邪馬台国の女王卑弥呼は、尾張氏の宇那比姫命である事を知った。この宇那比姫命の義理の弟が、六代孝安天皇である。この事から、『魏志倭人伝』に「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする男弟は、孝安天皇という結論に至った。
卑弥呼は、大和朝廷の女王で、邪馬台国とは大和の国に他ならない。
したがって六代孝安天皇は、卑弥呼が王位に在った三世紀前半の人である。孝安を六代目とするわけであるから、大和朝廷の始まりは、これ以前にさかのぼるのである。

『魏志倭人伝』と『後漢書倭伝』には、卑弥呼が王位に擁立される経緯が記される。すなわち倭国の歴史が記されている。そこに大和朝廷の始まりの時期を知る手がかりがある。
結論を云えば、大和朝廷は倭国大乱の七、八十年前に始まるのである。倭国大乱の時期を
梁書(りょうしょ)は霊帝光和年中(178〜184)とする。
この二世紀後半の倭国大乱の時期から、七、八十年さかのぼるれば、おおよそ一世紀の末から二世紀の初頭である。ここが大和朝廷の始まりとなる。

更にその始まりの時期を伺わせる記述が『後漢書倭伝』にある。
『後漢書倭伝』は、安帝永初元年(107年)、倭国王が後漢王朝に朝貢したとする。
これこそが、初代とされる神武が後漢王朝に朝貢した記録であろう。
なぜならこの時の貢ぎ物は、生口160人である。生口すなわち戦争捕虜と考えられる奴隷が後漢王朝に献上されたのである。
逃亡や反乱の危険性のある160人の生口を引き連れ、はるばる後漢の都、洛陽まで出向いたのである。
おそらく数百人規模の使節団であろう。これだけ大規模な使節団の派遣は、単なる朝賀ではない。神武が、倭の地域に覇権を確立したことを、後漢王朝に認めてもらうための朝貢であったと考える。

107年の朝貢の前に建武中元二年、すなわち西暦57年にも倭の奴国が朝貢している。この時の奴国は、倭という地域の奴という国である。これに比べ107年の朝貢の主体は、倭国王という、倭を代表する王権の主である。中国史書に倭国王の名が登場するのはこれが最初である。

『魏志倭人伝』は倭国の歴史についてつぎのように記す。
「その国もとは、また男子をもって王と為す。とどまること七、八十年倭国乱、相攻伐歴年、よりて一女子を共に立て王と為す、名曰卑彌呼・・・」
また『後漢書倭伝』は次のように記す。
「建武中元二年倭奴国奉貢朝賀・・・安帝永初元年倭国王、帥升等、生口百六十人を献じ(謁)見を願い請う
」に始まり「桓霊の間倭国大乱、更に相攻伐歴年無主 一女子あり、名曰卑彌呼・・・」と続く。

この文章は倭国の歴史を語る部分である。私はこの二つの文章は同じ原典を元としていると考える。それは文章の構成や単語の使い方に、類似性があるからである。

『後漢書倭伝』は『魏志倭人伝』からの派生では無い

ここで注意が必要である。今日多くの研究者は『後漢書倭伝』は『魏志倭人伝』からの派生であるとする。あり得ない誤認である。
『後漢書』は、范曄(398〜445)によって、西暦430年代に著わされたとされる。一方『三国志』の成立は280年代とされ、『後漢書』の成立は、一世紀半ほど遅れる。だが『後漢書倭伝』は『魏志倭人伝』からの派生ではない。
『後漢書倭伝』は、『魏志倭人伝』の典拠となった資料を参照している。すなわち240年倭国を訪れた、魏の使者の報告書、あるいは紀行記のようなものを見ている。
ここでの詳しい論証は省くが、建武中元二年の奴国朝貢や安帝永初元年倭国王の朝貢記事や、倭国乱を桓霊の間とする情報を『魏志倭人伝』から引き出すことは不可能である。
『魏志倭人伝』からの派生でないことは明らかである。

また朝貢の記事が、他の資料を元に書き加えられたものではない。なぜなら『魏志倭人伝』にも「漢の時朝見する者あり」と記す。
次のような一文である。
「倭人在帶方東南大海之中、依山島爲國邑。舊百餘國、漢時有朝見者・・・」
一方『後漢書倭伝』にも似たような文章が続く。
ところうが「漢の時朝見する者あり」という、この文言は『後漢書倭伝』に無い。後漢の歴史を記す者にとつて、この情報は重要なはずである。それを無視するはずはない。『後漢書倭伝』は別の場所で、この情報について詳しく記すのである。それが建武中元二年の奴国朝貢と、安帝永初元年倭国王の朝貢の記事である。

魏の歴史を著わそうとした者にとって、後漢時代のことは重要ではない。したがつて「漢時朝見する者あり」と簡略に記す。
一方、後漢の歴史を著わそうとした范曄にとって、これこそが重要な情報なのである。元となった資料は、魏代の資料であって、後漢時代の資料ではない。それをあえ採り上げたのは、そこに後漢時代の事が記されていたからである。

107年朝貢の倭国王が初代である事を知っていた

このように、表現は異なるが、二つの史書に同じ情報が含まれる。このことは、どちらも同一の原典から派生したことを意味する。朝貢の詳しい内容も范曄が他の資料から付け加えたわけではない。
二つの史書の一連の記述は、どちらも倭国の歴史について述べた部分である。両方の記述を重ねることによって、より具体的に倭国の歴史を知ることが出来る。
したがって二つの文章を、重ね合わせると次のようになる。

安帝永初元年(107年)倭国王、帥升等、生口百六十人を献じ、(朝)見を願い請う。
その国もとは、また男子をもって王と為す。とどまること七、八十年。桓霊の間、倭国大乱、更に相攻伐、歴年主なし。よりて共に一女子を立て王と為す。名いわく卑彌呼。

この男王の時代が七、八十年続いたとする認識は、107年の直前に倭国が始まることを知っていたのである。それ故に倭国乱の前に七、八十年の男王の時代が続いたと記すことがで来たのである。

107年朝貢倭国王こそ『日本書紀』が大和朝廷の初代とする、神武である。おそらく神武が奈良盆地を平定たのは、107年の直前であろう。また貢ぎ物として献上された160人の生口は、大和朝廷樹立の戦いで捕虜となった人たちであろう。

今日の天皇家につながる大和朝廷の出現は、二世紀初頭であり2019年の今日から1900年以上続く世界最長の皇室なのである。
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2019年01月17日

立体地形図を作成して、卑弥呼の墓を明かす!

 古代史最大の謎の女性、卑弥呼は径百余歩の墓に葬られたとする。150mくらいの円墳であろう。これまで日本列島に、直径150mの円墳は知られていない。だがここに直径150mの、お椀を伏せたような尾根がある。その中心に盛り土を持った墳丘が存在する。これこそが卑弥呼の墓である。場所は奈良県御所市玉手山。
玉手山の詳細な立体地形図を作成し、ここが径百余歩の円墳である事を実証する、プロジェクトを始める。

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『日本書紀』によれば、玉手山は六代孝安天皇が葬られたとする場所である。孝安が葬られたとする山に卑弥呼の墓を見るのは偶然ではない。
なぜなら卑弥呼は、葛木高尾張にいた尾張氏の娘、宇那比姫命(うなびひめのみこと)で、孝安は宇那比姫命の義理の弟である。『魏志倭人伝』が「男弟有りてたすけて国を治」とする男弟なのである。卑弥呼もまたこの山に葬られたのである。
宇那比姫命が、卑弥呼であり、孝安が卑弥呼の男弟という理由は、後ほど述べる。

孝安の宮は、室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)である。孝安が男弟なら、秋津島宮が卑弥呼の王宮でもある。秋津嶋宮の場所は室(むろ)とされる。室とは、現在の御所市南郊外である。
径百余歩とされる卑弥呼の墓は、必ず秋津島宮の近くに存在する。
たとえ長い年月の間に、その形を大きく変えようとも、目に見える形で存在する。そのような確信のもとに卑弥呼の墓を探すことにした。
そこで衛星写真を用い、古墳の探索を行なった。
室の1kmほど東、玉手山に不思議な形の尾根を見たのである。古墳かもしれないと思った。後日現地を踏査し、何れの尾根にも墳丘の存在を確認した。

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上の写真は昭和60年、国土地理院が撮影した航空写真である。
No1、No2、No3の尾根にはそれぞれ墳丘が存在する。かって奈良県の遺跡地図はNo3のみを、直径20mの円墳と記載していただけである。
No1とNo2の古墳は、古墳として記載されていなかった。後にNo1、No2の尾根から遺物が出土し、この二つも古墳と確定した。
No2はまったくの未知の古墳であった。おそらく、衛星写真や航空写真の情報がなければ、その存在に気づ付くことはなかった古墳である。
私が、衛星写真によって、未知の古墳を発見できたのは、尾根の裾が、整った円弧を描くことにあった。尾根と、墳丘は密接な関係にある。したがって尾根全体を墓域とする巨大古墳でと考えるわけである。

No1の尾根は、直径150mほどの円形を呈す。その中心には墳丘が存在する。墳丘の大きさは尾根方向で25m。尾根と直交する方向は、崩落があり確認できないが50mくらいはあろう。もし尾根全体を墓域とするなら、まさに径百余歩の円墳である。これこそ卑弥呼の墓と考えるわけである。

一方No2とする墳丘の盛り土は巨大である。楕円を呈し長径90m、短径45mくらいに及ぶ。同時代としては国内最大である。尾根全体を墓域とすれば160mにも及ぶ巨大古墳である。
詳細な地形図を作成できれば、そのことを明らかに出来る。それがこのプロジェクトの最大の目的でもある。

レーザースキャナーによる地形図作成

レーザースキャナーによる測量によって、玉手山の詳細な立体地形図を作成する。
これまで、玉手山の古墳群については、ほとんど調査がなされてこなかった。詳細な地形図作成は、巨大円墳の存在を明す事が出来ると考える。

このプロジェクトへのご支援を、お願いする次第である。




なぜ宇那比姫命が卑弥呼なのか

 京都府宮津市に、籠(この)神社という古社がある。その宮司家、海部氏(あまべし)に『勘注系図』という系図が伝わる。最奥之秘記として、千年以上にわたり隠し続けられた系図である。昭和51年に国宝に指定され、その内容を知ることが出来るようになった。
そこに、始祖天火明命(あめのほあかりのみこと)の六世孫として、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という名前が記される。その別名を、大倭姫命(おおやまとひめのみこと)、天造日女命(あまつくるひめみこと)、靈日女命(ひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。
大倭姫命とは、大和朝廷の最高権力者の名である。 天造日女命は、天下を支配する人。靈日女命は、巫女(みこ)姫で、霊力の持ち主。日女命は、姫、媛という高貴な女性の呼び名に、命(みこと)という尊称を付けた名である。この日女命(ひめみこと)を、大陸の人は、卑弥呼と書き表したと考える。宇那比姫命が卑弥呼なのである。

この宇那比姫命は、後に尾張氏と称される一族の女性である。尾張氏は、葛木高尾張という、現在の奈良県御所市あたりに居た氏族である。父親は尾張氏の当主、建斗米(たけとめ)、母親は紀伊国造(きいのくにのみやつこ)の女性、中名草姫(なかなくさひめ)とされる。

もう一つ宇那比姫命の名を見る系譜がある。静岡県磐田市、国玉神社宮司家の系譜は、和邇氏(わにし)の系譜を伝える。
その系譜によると、宇那比姫命を押媛命(おしひめのみこと)の母親とする。

押媛命は天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子である。したがって宇那比姫命と、天足彦国押人命は、夫婦なのである。
天足彦国押人の弟が、六代孝安天皇で、孝安は、宇那比姫命の義理の弟となる。
『魏志倭人伝』は、卑弥呼の政治を補佐した「男弟」が有ったとする。宇那比姫命には、実の兄はあるが、弟はない。この義理の弟、孝安が男弟なのである。 孝安の宮は、室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)とされる。ここが、卑弥呼の王宮でもある。

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なぜこの古墳が卑弥呼の墓なのか

『日本書紀』は、孝安は玉手山に葬られたとする。玉手山は、秋津嶋宮伝承地の北東一kmのところである。
孝安が『魏志倭人伝』の伝える、男弟なら、卑弥呼も、ここに葬られた可能性がある。そこに径百余歩の円形の尾根を見るのである。
尾根全体が墓域なら、まさに径百余歩である。
もちろん直径150mの円墳である事が確認できたとしても、それだけで卑弥呼の墓と決まるわけではない。だが日本列島に、ここをおいて径百余歩に該当する円墳は、見当たらない。これが卑弥呼の墓である可能性は高い。

玉手山の古墳について詳しくは下記のページをご覧下頂きたい。
http://kodai.sakura.ne.jp/teste/index.html

http://yamatai.sblo.jp/category/776680-1.html
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2019年01月09日

倭国大乱とはどのような戦乱か

 倭国大乱を国同士の戦いとする見解は多い。
だが倭国大乱は国同士の戦いではなく、一国の中での王位をめぐる内乱である。

そのことを『後漢書倭伝』は「相攻伐歴年無主」とする。何年も、戦いが続き主が無かったとする。「主」は「王」の書写誤りであろう。王もしくは主のいない国同士の戦いなど考えられない。王がいないと云うことは、王位をめぐる戦いが繰り広げられたのである。それが主無しの意味である。
そして『魏志倭人伝』が記すように、「一女子を共に立て王と為す」という妥協が成立するのである。
もし国同士の戦いなら、仮に和平が成立したとしても、統一国家にでもならない限り、共通の王を擁立することなどありえない。

また卑弥呼の後に擁立された台与もまた、王位をめぐる内乱の後に擁立される。卑弥呼没後に立った男王は「国中不服」として倒れる。新たに台与という女性が王位に就く。
これも「国中」とするから、一国の中の内乱であることは明らかである。

それでは王位をめぐる内乱は、どのような勢力同士の争いなのかである。
それをうかがわせる記述が『魏志倭人伝』にある。『魏志倭人伝』は、邪馬台国の高官として次の四人の名を記す。「伊支馬、彌馬升、彌馬獲支、奴佳鞮」である。

私は伊支馬は倭氏(やまとうじ)の邇支倍(にしば)、彌馬升は物部氏の三見宿禰(みまのすくね)、彌馬獲支は同じく、物部氏の大水口(おおみなぐち)、奴佳鞮は邇支倍の子と考える。
その理由は、この四人が、卑弥呼と同世代か一世代くらい後の人であり、何れも大和朝廷を支える有力豪族であることによる。

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邇支倍は倭国造(やまとのくにのみやつこ)という、大和朝廷のおひざもとの国造である。倭国造が邪馬台国の筆頭高官なのである。
つぎの彌馬升は、「みまのすくね」と読んで物部氏の三見宿禰をあてる。「升」は「宿禰」に当てた表意文字であろう。普通三見宿禰は「みつみのすくね」と読むが彌馬は「みま}で「みまのすくね」の可能性が高い。
『先代旧事本紀』の物部氏系譜によれば、三見宿禰は「孝安天皇の御世に、共に天皇のおそば近くに仕えたため、はじめは足尼(すくね)となり、ついで宿祢(すくね)となって、大神をお祀りした。その宿祢の号は、このとき初めて起こった」とする。
三見宿禰は、私が卑弥呼の男弟とする、孝安に仕えたのである。
つぎの彌馬獲支は「みまくち」と読んで「みなくち」であろう。物部氏の水口宿禰である。同じく物部氏系譜によれば、弟の大矢口宿祢命と共に「孝霊天皇の御世に、並んで宿祢となって、大神をお祀りした」とする。水口宿禰は孝安から孝霊時代にかけて高官の地位にあった人物である。
物部氏系譜によれば物部氏の歴代の人物が、天皇の近くにあって高官の地位にある。この二人が邪馬台国の高官であることに不思議は無い。

最後の奴佳鞮は「ぬかて」と読んで、倭氏の邇支倍の子とする。一般に目にする、倭氏の系図では、邇支倍の子を飯手とする。飯手を「ぬかて」とは読めないが「手」の字から飯手こそ「ぬかて」であると考える。どこかに飯手ではなく「ぬかて」とする系図が存在するのではないかと考える。

このように邪馬台国の高官は、倭氏と物部氏によって占められている。
したがって、倭国大乱は、この二大氏族の対立を中心にした戦乱であろう。
倭氏は、神武が大和朝廷を打ち立てたとき活躍した椎根津彦に始まる。その功績で倭国造として大和朝廷を支えてきた氏族である。
一方物部氏は神武が、奈良盆地に侵攻した際、最初は神武と敵対するが同族ということで許され神武に帰順する。物部氏系譜によれば、大和朝廷成立後、歴代の人物が高官として天皇に仕えたとする。
卑弥呼時代の四人の高官から、大和朝廷の権力構造がうかがわれる。この二つの勢力がぶつかったのである。これが倭国大乱であろう。

その後、卑弥呼亡き後に立った男王とは物部氏が擁立した孝元である。だが孝元は「国中不服」として倒され、再び「台与」という女性が擁立される。これもまた王位をめぐる内乱であることは言うまでも無い。
台与擁立に至る戦乱の一方は物部氏であろう。なぜなら孝元は物部氏が擁立した天皇である。孝元を倒し台与擁立した、もう一方の勢力の中心は和邇氏であろう。
なぜなら『魏志倭人伝』では、掖邪狗と云う人物が二度にわたって魏に赴く。最初は正始四年の卑弥呼の遣使として、二度目は台与擁立後の遣使としてである。掖邪狗が台与擁立に関わっていたことがうかがわれる。それでは掖邪狗とは誰かである。
卑弥呼と天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の子に、稚押彦(わかおしひこ)という人物がある。掖邪狗を「わきやひこ」と読んで、稚彦すなわち稚押彦と考える。天足彦国押人は和邇氏の祖とされる人物で、その子共も当然和邇氏の人である。
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和邇氏系譜によれば、稚押彦は和爾の里に居るとされる。和爾の里とは現在の天理市櫟本あたりである。
『魏志倭人伝』は、台与擁立に至る戦いで「更相誅殺、當時殺千餘人」として、激しい戦いのあったことを記す。
この戦いの遺構と考える場所がある。天理市東大寺山に、奈良県では最大規模の環濠がある。環濠は山全体を囲む、東大寺山を砦、あるいは山城としている。ここは和邇氏の裏山である。稚押彦すなわち掖邪狗たちが、ここを拠点として戦いを繰り広げたのではないかと推測する。
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二度にわたる王位をめぐる戦いの、一方の当事者は物部氏である。更に時代が下り崇神朝になると、大和朝廷は物部色の強い王権へとなっていく。

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2019年01月02日

『勘注系図』は何を隠そうとしたのか

 私の邪馬台国論や卑弥呼論は海部氏に伝わる『勘注系図』を根拠とする。この系図に登場する宇那比姫命を卑弥呼とすることによる。
そこで『勘注系図』とはどんな系図かについて若干述べておく。
次は私がアマゾンで出版する『勘注系図を読み解く』の終章の文である。

(以下終章の抜粋)
系図の最後に次のように記す
『氏之本記一巻者、仁和年中、海部稲雄祝等修録、于今相傳以最奥之秘記、永世相承不可許他見伝伝』
また
『本記一巻者、安鎮於海神胎内、以極秘、永世可相傳者也伝伝』ともする。
他見許さずとするから、自分たちの子孫に対して編纂された系図である。最奥之秘記として何を隠さねばならなかったのか。またこれほど詳しい系図を、何のために造ったのかである。
『勘注系図』の大部分が完成するのは、千嶋の時代である。千嶋、千足、千成の兄弟によって、それまでの系図や古い記録を元に系図を編纂したとする。
成立は養老五年(七二一年)である。これを『養老本記』とする。『日本書紀』 完成の翌年である。

丹波の海部氏は、古くは葛城に在った尾張氏の支配地域であった。
丹波が尾張氏の支配地域であった時代、尾張氏の宇那比姫命が、『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国の女王なのである。すなわち大和朝廷の最高権力者である。後の天皇と称される権威の持ち主である。更にその二世代後の天豊姫も女王なのである。
この時代尾張氏は天皇家と一体なのである。むしろ尾張氏が天皇家なのである。その尾張氏の傍系である丹波の海部であるが、和銅四年(七一一)に起きた次の事件を期に、危機的状況へと追い込まれる。『続日本紀』は次のように記す

「和銅四年(七一一)十二月壬寅大初位上丹波史千足等八人。偽造外印、仮与人位。流信濃国」

丹波史千足等八人が、偽の外印を造り仮に人に位を与えたとする。それにより信濃に流罪とされる。流罪は死罪に次ぐ重罪である。千足とは当主である千嶋の弟である。三人の兄弟の次男である。
「偽の外印を造り」という事の具体的な内容は解りかねるが、それまで国造として行ってきた行為が越権行為とみなされて断罪されたのである。
そしてその二年後、大和朝廷は、丹波を二分して海部氏の支配地域を縮小するのである。

『続日本紀』は和銅六(七一三)年条に次のように記す。

「夏四月乙未(三日)丹波国から、加佐、与佐、丹波、竹野、熊野の五郡を割いて、始めて丹後国を設置した」
また『勘注系図』は千嶋の父親、愛志の時代のこととして『丹波の五郡を割いて丹後の国を置く、はじめて国司に任じられる。故(もとの)国造の如し』とする。

大和朝廷は七一三年、丹波の一部を割いて北部を、「丹後国」とする。それまで丹波国造として、丹波全域を支配していた海部の支配地域は、丹波の北部のみに縮小されてしまうのである。そして国造は廃止され国司へと変えられる。
律令制度の強化という中央集権化の流れの中で、海部氏の権力はそがれ、大和朝廷による直接支配が強化されてゆく。このような状況への危機感を持った海部氏は、自分たちが天皇家に劣らない家柄であることを子孫に伝えようとしたのである。
『魏志倭人伝』は二世紀の末から三世紀の後半にかけて卑弥呼と台与の二人の女王が在ったことを伝える。
『勘注系図』も古い時代に大和朝廷の最高権力者、大倭姫という女性が在ったことを記す。大倭姫が大和朝廷の最高権力者の名であり、天造姫命が天下人であることは、系図を作成した人たちはその意味を知っての事である。古い時代自分たち一族は、天皇家であったことを伝えるのである。

これは大和朝廷の天皇系譜を否定するものである。これほど危険な系図はない。そのために命がけで隠さねばならなかったのである。
しかしながら時代が下り、序とする系図の表書きが付け加えられる頃には、系図のなにが危険か解らなくなってしまう。ただひたすらに最奥之秘記として他見許すべからずと、隠し続けてきたのである。

私とて、当初この系図の何が危険か、どうして命がけで隠さねばならなかったのか理解できなかった。ようやく詳細にその全文を読み解くことによって、その理由を理解した。
『勘注系図』は、大和朝廷が正史とする『日本書紀』の、天皇系譜を否定する系図なのである。もし朝廷の目に触れれば、危険極まりないな系図である。それゆえに最奥之秘記として隠さねばならなかったのである。
『勘注系図』は、大倭姫命という二人の大和朝廷の最高権力者の名を記す。これがまったくの作り話でないことは、邪馬台国に二人の女王が在ったとする、中国史書が裏付ける。

『勘注系図』は『日本書紀』や『古事記』と深くかかわる伝承を多く伝える。また系譜上の人物が、古い時代の天皇と深くかかわる。その意味で『日本書紀』や『古事記』を補完する一級の歴史史料である。
『勘注系図』をはじめとして、これらの系譜史料が、これまで語られてきた日本古代史とは異なった、歴史像を提示することになろう。
(以上終章の抜粋)

『勘注系図』は本系図や尾張氏系譜からの派生ではない

 一部の論者の中に『勘注系図』は『本系図』に詳しい注記を加えた、あるいは、尾張氏系譜を元に作成された系図などと云う。
この人たちは、まともに『勘注系図』を読んでいない。
たとえば『本系図』と『勘注系図』は、645年以降、籠(この)神社の神官として従事した年次と期間を記す。

(詳しくはこちら)

『本系図』はこの年次と期間に全く整合性が無い。『勘注系図』は一箇所、計算間違いと思われる部分があるが、他は整合性がある。
『本系図』は、年次と期間の対応する人物を、一行間違えて書き写すのである。両者を比較すれば『勘注系図』が、『本系図』からの派生でないことは容易に理解できる。

また『先代旧事本紀』の尾張氏系譜を元にした偽系図と主張する人がある。
『勘注系図』の前半は、尾張氏系譜とよく似た系譜を伝える。

(詳しくはこちら)

これは古い時代、丹波は葛城に居た尾張氏の支配地であった事による。したがって尾張氏の当主が海部の系図の中に登場する。二つはよく似た系譜を伝えるが、名前の漢字表記などは微妙に異なる。
一例を挙げれば、四世孫天登目命と天戸目命、五世孫建登米命と建斗米命、六世孫建田勢命と建田背命などである。その後の人名表記にも微妙な違いがある。
また二つの系譜を比べると、明らかに尾張氏系譜に誤りと思われる箇所がある。
尾張氏系譜は、七世孫建諸隅命を、五代孝昭の時代の人として、その妹大海姫命を十代崇神の妃とする。
このまま解釈すれば、五代孝昭と十代崇神が同じ時代となってしまう。明らかな誤りである。
このような誤りが生まれる理由には、次のような事情がある。
海部氏は「あま」とよばれる一族で、海部当主の娘はすべて大海姫と称される。五代孝昭の皇后世襲足媛(よそたらしひめ)も、建諸隅命の妹も、崇神の妃になった女性も、みんな大海姫命なのである。そのために尾張氏系譜は、これらの大海姫を混同する。
『勘注系図』は、明確に書き分ける。孝昭の皇后世襲足媛についての記載は無いが、建諸隅命の妹、大海姫命のまたの名を、孝霊の妃、大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)とする。更に崇神の妃になった大海姫命を、葛木高千名姫命(かつらぎたかちなひめのみこと)とし、またの名を八坂振天伊呂邊(やさかふるあまいろべ)とする。『日本書紀』でも一書に云うとして、崇神の妃の一人を、大海宿禰の娘、八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする。

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このようにそれぞれの系譜伝承を比較すると『勘注系図』が、『本系図』や尾張氏系図からの派生でないことが解る。『勘注系図』を偽系図と決めつける人は、まともに『勘注系図』を見ていないのである。
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