これで秋津嶋宮のほぼ南北が確定した。溝はさほど深くはないがその断面は逆三角形を呈し、人為的に掘られたものであろう。王宮の南側を区切る堀あるいは濠の様なものであろう。写真2本の青色点線で示したのが新しく発掘によって確認された溝である。以前確認された北側の流路とに挟まれた範囲が王宮の場所である。東西の範囲は今一つ不明である。
発掘担当者もこれだけ大規模な遺構が葛城の一豪族のものでないことを認める。大和朝廷と関係する遺構とする。そしてこの遺構を大和朝廷の祭祀遺跡とする。だがここは祭祀遺跡などではあり得ない。秋津嶋宮という王宮である。
もし橿考研が推測するようにこの遺構が、古墳時代前期とするなら、十代崇神や、十一代垂仁、十二代景行あたりの時代である。『記紀』をはじめその他の文献を見ても、崇神や垂仁、景行の時代に、ここ御所市近辺でこのような大規模の祭祀を行ったという記述はどこにも見当たらない。御所市というこの地が『記紀』伝承の中に出てくるのは、二代綏靖の葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)、五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)、そして六代孝安の室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)である。崇神などよりもっと古い時代なのである。このあたりは初期大和朝廷の宮が営まれた場所である。その一つ秋津嶋宮が出土しているのである。
また祭祀建物に、これだけ大規模の濠は必要なかろう。濠の出土は、ここが祭祀遺跡などとする仮説を否定する。
東西の範囲が確定しないので、その規模は不明であるが魏志倭人伝によれば、奴婢千人が仕える王宮である。私は、更に東西に広がるのではないかと推測する。赤の点線で囲んだ辺りである。




