2017年03月13日

秋津遺跡の消滅と尾張氏の衰退

秋津遺跡から古墳時代前期とする特異な遺構が出土した。この遺構は四世紀の後半で終わる。私は秋津遺跡の消滅とこの地域の尾張氏の動静が不明になることと深いかかわりがあると考えている。そこでこの地域の歴史を系譜伝承から探る。
秋津遺跡のある御所市は、古代において葛城上郡(かつらぎのかみのこおり)と称される地域である。
この葛城上郡の歴史を考える上で理解しておかなければならないことがある。

葛城国造という葛城氏と、武内宿禰の子、葛城襲津彦に始まる葛城氏は、異なる葛城氏である。後者が葛城氏と称されたかどうかも定かではない。
葛城国造の葛城氏は神武が大和朝廷を樹立した時、この地域の国造に任じられた氏族で二世紀初頭に始まる。
四世紀の後半になってこの地域で武内宿禰やその子供、葛城襲津彦の葛城氏が台頭する。五世紀初頭に宮山古墳を築いた豪族である。
葛城襲津彦は、その父親竹内宿禰が、葛城国造の女、葛姫を娶り生んだ子とされる。したがってこの葛城国造と無関係ではないが異なる葛城氏である。
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武内宿禰や葛城襲津彦がこの地の有力豪族となる前は、尾張氏がこの地の有力豪族であった。尾張氏の歴代の男子が葛城国造の女性を娶る。葛城国造と尾張氏は深い縁戚関係にある。
したがって四世紀中ごろまでは、この地域は葛城国造家と尾張氏の支配地域である。ところうが四世紀の中ごろを境にして、この地域の尾張氏の動静が系譜の上でたどれなくなる。これは四世紀の後半秋津遺跡が消滅することと深くかかわると考える。

尾張氏の系譜には次のような系譜の断絶がある。『先代旧事本紀』の尾張氏系譜でも、海部氏の『勘注系図』でも四世紀中ごろの十世孫を境に、葛木高尾張を本拠地とする尾張氏の系譜が途絶えてしまう。それ以降の系譜は、現在の愛知県に移った尾張氏の系譜となる。本家とも云うべき葛城に居た尾張氏の系譜が消えてしまうのである。
十世孫とされる人物たちは、おおよそ十三代成務朝時代の人である。この時代まで尾張氏と成務との関係が確認できる。ところうが十一世孫乎止与命という人物から、系譜は愛知県に移った尾張氏の系譜となる。
十世孫と十一世孫の間に系譜の断絶がある。ここを境に尾張氏の本家とも云うべき葛城高尾張に居た尾張氏の系譜が不明になるのである。私はこの系譜の断絶と秋津遺跡の終りとの間に深い関係があると推測する。


一四代仲哀亡き後武内宿禰は、仲哀の皇后神功と応神を担いで神功、応神朝を主導する。
この神功応神朝の樹立を境に、大和朝廷の権力構造は大きく変わるのである。
それまで大和朝廷の中枢であった尾張氏は、この神功応神朝を境に没落したと推測する。神功応神朝の成立とともにこの地域の尾張氏は滅び、替わって武内宿禰がこの地域の支配者として台頭したと考える。そして五世紀初頭には宮山古墳という全長230mの前方後円墳をこの地に出現させるのである。

宮山古墳を築いた氏族と秋津遺跡の住民とは関係のない氏族なのである。秋津遺跡は尾張氏と関わる遺構である。したがって武内宿禰や葛城襲津彦に始まる葛城氏との関係では秋津遺跡を理解することは出来ない。



posted by 曲学の徒 at 11:25 | Comment(0) | TrackBack(0) | 葛城の歴史
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