2009年08月07日

径百余歩の円墳か?

径百余歩の尾根
 『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓を径百余歩とする。
径とは差し渡しのことである。一歩は1.44mとされる。余歩とするわけだから144mよりやや大きいくらいであろう。
今日150m近い大きさの円墳や方墳は知られていない。知られている最大の円墳は、埼玉県行田市の丸墓山古墳で、大きさは直径約105mである。
したがって150m近い円墳は日本列島に存在しないとされる。

 ところうが私は玉手山に150mの円墳らしき尾根を発見したのである。
発見したのは偶然ではない。私の仮説にもとづいて、そのあたりにあるはずだと探した結果である。

孝安天皇陵、となりの尾根
 私は卑弥呼の男弟が孝安であるとする。そこで孝安の宮や墓の近くに、卑弥呼の墓はあると考えて、探したのである。けっしてやみくもに探したわけではない。
『日本書紀』や『古事記』によれば、孝安天皇が葬られたのは玉手丘である。玉手丘とは現在の奈良県御所市玉手山である。

 最初私は孝安天皇秋津島宮伝承地の碑がある、御所市の宮山古墳のあたりを探し回った。宮山古墳の南側、巨勢山は我が国有数の群集墓地帯である。しかし三世紀中頃まで遡るような古墳を見つけることはできなかった。
そこで範囲を広げ、航空写真で探索を行った。その結果、玉手山に円形の尾根を発見する事になったのである。

 最上段に掲げた航空写真を見ていただきたい。
きつね塚とする尾根がそれである。
玉手山の東、国見山の裾に掖上かんす塚という、全長150mの前方後円墳がある。私が玉手山に発見した円形の尾根は、ほぼこの大きさなのである。まさに径百余歩である。

重要なのはその場所である。そこは現在宮内庁が孝安天皇陵とする隣の尾根である。
私はもしこの円形の尾根を、玉手山以外の地域で見たなら、これを卑弥呼の墓などと言い出す事はなかった。
孝安陵の隣りの尾根であるということが、この円形の尾根を卑弥呼の墓と考える決め手となった。
それは私の仮説である、孝安は宇那比姫の義理の弟、すなわち卑弥呼の男弟ということ密接に関係するからである。

自然地形か人工か?
 もちろん航空写真だけでここが径百余歩の円墳としたわけではない。
航空写真では整った円形と見える尾根も、私の手元にあった2万500分の1の地形図では、円形とはいい難い形なのである。そこで地形図と航空写真を手に現地踏査を実施した。
koukuusyasinn.jpg

tikeizu.jpg

 最初の踏査では、藪(やぶ)に覆われた尾根が古墳であるか否かの確証は何も得られなかった。しかし古墳であろうという感触は得た。

玉手山の山塊から西に尾根が張り出す。尾根は平地に向かって緩やかに下る。その尾根の先端部分に盛り土をして墳丘を築いているという見解である。

後に地中レーダー探査を実施するために、藪を刈払った。すると明らかに土を盛ったと思われる円形の盛り上がりを確認した。
またその中心あたりに窪地を見つけた。地元の人に聞き及んだところによると、そこを2.5mほど掘ったが何も出土しなかったということであった。
funntyou-1.jpg

funntyou-2.jpg
上段が藪を刈払う前の写真。下段がレーダー探査のために刈払った時の写真。真ん中あたりの窪地はすでにだれかが掘っている。

またこの尾根は「きつね塚」と呼ばれていることも聞いた。地元のの人たちはここを古墳として認識していたのである。

更に後ほど手に入れた2500分の1地形図では、明らかに尾根の中央に盛り上がりを確認できた。この盛り上がりは自然にできた地形ではないと判断した。
no1-no2tikeizu.jpg
まちがいなく古墳であることを確信した。

尾根全体が古墳か?
 しかし問題はここが径百余歩の大きさの古墳か否かである。
確かに土が盛られた様子は間違いなく古墳である。しかしそれは直径18mくらいのものである。径百余歩すなわち150mくらいとするには尾根全体を墳丘とする必要がある。
果たして尾根全体に手が加えられているかどうかである。
posted by 曲学の徒 at 11:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓
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