2010年04月26日

宮内庁の管理する孝安陵は本当の孝安陵か?

 現在宮内庁が孝安陵として管理する場所がある。玉手山の一番北の尾根である。
これは本当に孝安陵なのだろうか?

私は六代孝安の実在も、孝安が玉手丘に葬られたという『記紀』伝承も信じて疑わない。
しかし現在宮内庁が管理する場所が、本当の孝安の墓かと言うことには、大きな疑問を持っている。

理由は次の二つである。
その一つは、延喜式に記される、孝安陵の墓域は東西六兆、南北六兆である。おおよそ650m×650mである。これはほぼ玉手山全域の広さである。

宮内庁が管理する一番北の尾根が孝安陵なら、この北の尾根のみを墓域とするだけで良い。東西六兆、南北六兆という、玉手山全域を墓域とする必要はないように思うからである。

そしてもう一つは、この玉手山に、これより大きな墳丘が存在するからである。


 幕末の1862から1866年にかけて、江戸幕府により、天皇陵の大幅な改修が行われた。「文久の修陵」と云われる事業である。

この修陵にあたって、『御陵画帳』という改修前と改修後の絵図面が残されている。

この絵図を見ると陵によっては大幅なつくり変えが行われている。
たとえば初代とされる神武陵などは、そこにあった小さな円墳に大幅な手を加え、壮大な陵墓に仕立てている。
神武陵ほど極端でなくとも、御陵とされた場所は、多かれ少なかれ、元の形が改変されていることに注意する必要がある。
修陵前の絵図面と、この修陵に携わった谷森善臣(たにもりよしおみ)の記録から元の状況を見てみよう。

A改修前(出典:文久山陵図 出版:新人物往来社)
kouannryou-a.jpg

B改修後(出典:文久山陵図 出版:新人物往来社)
kouannryou-b.jpg

絵図面Aが改修前の状況である。玉手山の山塊から北に張り出した尾根の先端に小さな盛り土の墳丘が認められる。
谷森善臣によると「玉手丘陵、孝安天皇の御陵なり、大和国葛上郡玉手村のうち玉手山の北隅にあり、字を宮山とよぶ、南傍に天満宮の祠あり、この御陵の高さ壱丈許めくり拾三丈ありて松樹生えたり」とする。

壱丈許めくり拾三丈とするから、高さ約3m周囲40mくらい、すなわち直径12〜13mの円墳であろう。

もともとこの尾根は、玉手山の山塊と続いているようである。修陵の際、山側との間を掘り、尾根を切断して、墳丘のある尾根を大きな御陵に仕立てている。また墳丘の下部に石積みを行って、墳丘を改修している。
改修前の墳丘は直径12〜13mで決して大きくはない。私が径百余歩の円墳とする、隣の尾根上に存在する墳丘は、直径18mか19mはある。さらにその南の尾根上の高まりは長径25mくらいの楕円状を呈す。何れもこの孝安陵の墳丘より大きいのである。

改修前の絵図面には天満宮が描かれている。この天満宮は改修により完全に取り払らわれたようである。
天満宮の祭神は一般的には、菅原道真である。現在この祭神は、この尾根の南100mくらいにある金比羅神社に合祀されている。孝安天皇陵と天満宮の関係は不明である。

それでは本当の孝安陵はどれか?

下の航空写真に写る、No1、No2、No3、No4、のすべての尾根に墳丘の存在する事を地元教育委員会は確認した。

tamateyama-5.jpg

尾根上の盛り土部分の大きさは、No1が直径19m高さ2m程度の円形。
No2は長径24m高さ2m程度の楕円である。
No3は県の遺跡地図では直径20mの円墳とする。当初私は直径7〜8mくらいの円墳と思ったが、再度踏査した結果直径20m位の円墳であることを確認した。
No4は明確に盛り土の範囲を確定しがたい。したがってその大きさはも確定できない。

問題はどこまでを古墳とするかである。盛り土の範囲のみを古墳とするのであれば、それらはそれほど大きな古墳ではない。
それでもNo1やNo2は宮内庁が孝安陵とする墳丘よりは大きい。

私は尾根の裾が整った弧を描く事から尾根全体に手が加わっていると考える。したがってNo1は150mくらいの円墳であり、No2は長径160m、短径90mくらいの楕円墳と見る。
No3も県の遺跡地図では20mの円墳とするが尾根全体を古墳とすれば、尾根の幅は45mくらいある。
ここは巨大円墳が立ち並ぶ墓域なのである。
私はNo1を径百余歩の卑弥呼の墓とする。孝安は卑弥呼の政治を補佐した男弟である。ほぼ近い年代に没したと推測される。したがって隣の160mの楕円墳が孝安の墓ではないかと推測する。

No2の尾根で、四回に渡る試掘を行った。だが明確に埋葬施設と思われる遺構は確認できていない。しかし20点近い土器片と、朱と思われる酸化第二鉄に染まった砂の塊の出土により、ここが古墳であることはほぼ確定した。
ただし墳頂は削平されているのではないかと思われる。わずかに尾根の先端側に墳頂の一部が残ると考える。最初この尾根の先端の一番高い所を掘ったが、埋葬施設らしきものは確認できなかった。

確実な遺構等を確認しえていないので明確にはならないが、出土した土器片には、三世紀半ば頃と思われる物が存在する。この古墳の築造年代が三世紀半ば頃の可能性はある。

私はこれこそ孝安陵ではないかと考えている。もしかすると私は天皇陵を掘ったのかもしれない。

地元教育委員会は、このあたり一帯に古墳が存在する事を認識した。これにより県の文化財保護課は、私に対して、今後玉手山での発掘を行わないよう通達してきた。したがって以降発掘は出来なくなった。

古墳の築造年代等を明らかにする為に、もう少し試掘を試みる予定であったが、中止せざるを得ない状況である。


posted by 曲学の徒 at 11:11 | Comment(0) | TrackBack(0) | 孝安天皇陵
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