2011年03月01日

秋津遺跡

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写真は秋津遺跡と名づけられる前の道路予定地である。
2009年の春頃のものと思う。
道路予定地の一角を指して、私はここから秋津嶋宮が出土すると予言したのである。

出土したのは布留1式、2式土器

発掘の状況が気になって2010年正月明けに現地を訪れた。
まさにその場所から建物の遺構らしきものが出土していた。

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発表前で現場の人は何も答えてくれない。そこで御所市教育委員会に出向き尋ねた。
秘守義務があるのでということであったが、そこから布留1、2式の時代の塀で取り囲む建物遺構が出土している事を聞いた。

私は庄内式の土器は出土していないかと尋ねた。しかし庄内式は見つかっていないとのことであった。

秋津嶋宮であれば庄内式の時代である。予言ははずれた。秋津嶋宮ではないと思ったった。(だが後に発掘報告書や出土遺物を検討する中で、この遺構は3世紀前半あるいは2世紀末まで古くなると確信するに至る)

調査地は広大である

このあたりにインターチェンジが造られる。発掘調査されたのは広大である。

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下の写真は、発掘場所の航空写真。

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道路の北側が2009年に発掘調査された。続いて2010年南側が調査された。
矢印は発掘前に私が写真撮影した場所である。まさに遺跡の上に立っていたのである。

注目される方形遺構

2010年11月現地説明会が行われた。私も早速参加した。
遺構の年代は300年代から平安時代に及ぶ。しかも遺構の広さは広大で、とても短時間の見学では、遺構全体の性格を容易に把握できそうもない。

中でも注目されるのは方形区画と称される遺構である。
塀と考えられる2個一組の掘っ立て柱で囲まれる。柱列内部に建物が存在する。、

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遺構の広さは発掘された範囲だけでも100m×120mに及び一番広い区画の一辺は60m近くに及ぶ。

4世紀代の内で2から3回の立替が推定される。

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秋津遺跡出土遺物

方形区画内部からの出土遺物は少ないとされる。
秋津遺跡全体では次のような遺物が出土している。

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遺跡の重要性は纒向の比ではない

私はこのあたりこそ邪馬台国の王都と考える。六代孝安天皇の秋津嶋宮こそ、卑弥呼の王宮とする。
今日邪馬台国畿内説を唱える人たちの多くが、桜井市の纒向こそ卑弥呼の王都と考えている。
マスコミもこの説を鵜呑みにする。NHKあたりが「邪馬台国を掘る」というドキュメント番組を放映した。あたかも纒向こそ邪馬台国の王都であるかの如くの大合唱である。
だが纒向は崇神、垂仁、景行と続く大和王権の王都ではあっても、卑弥呼時代の王都ではない。

卑弥呼の王宮であればその存在した年代は三世紀の前半である。今出土している秋津遺跡は四世紀の前半とされる。
だが卑弥呼の没した248年か249年ころまで卑弥呼の王宮が存在したとすれば、秋津遺跡との年代差は70、80年である。秋津遺跡こそもっと注目されるべきである。

さすがに私とて、土の中に埋もれた秋津嶋宮の正確な場所を予見する事はできない。
だが必ず秋津嶋宮すなわ卑弥呼の王宮は、現在「室」とよばれる地域のどこかに存在する。
私が推定するその場所は、次の地図に示すあたりである。

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私の卑弥呼論、邪馬台国論はこの発掘調査と同時進行で進む。
とてつもない遺構が出土するかもしれない。

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