2011年04月28日

ここは邪馬台国の王都

 秋津遺跡では東海から西日本にまたがる各地の土器などが出土してる。
S字状口縁台付甕や多孔銅鏃などの東海系の遺物。
柳ヶ坪型壷と称される伊勢地方の土器。
それに瀬戸内海東部および瀬戸内海西部の土器。
さらには有段口縁壷と称される、中国地方と思われる土器である。
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秋津と称されるこの地は、交易の要衝となり得るような場所ではない。
それにもかかわらず各地の土器が出土する。

それをどのように考えるかである。
私は三世紀前半の大和王権の王都、すなわち邪馬台国の王都であったと考える。『記紀』伝承が伝える六代孝安天皇秋津嶋宮の在った場所ということである。

この近辺に秋津嶋宮は存在する

橿原考古学研究所が、現地説明会で配布したパンフレットによると、秋津遺跡は古墳時代前期、中期を中心とする遺跡とする。中でも特異な遺構として注目される、塀で方形に囲む建物遺構は、4世紀前半の遺構とする。
だがこれらの遺構が4世紀前半であるとしても、出土した遺物の中に三世紀代と思われる遺物が存在するのである。
その一つが多孔銅鏃である。赤塚次郎氏によれば、多孔銅鏃は濃尾平野にその中心があり、三世紀前半の終わり頃、周辺地域に拡散するとする。またS字状口縁台付甕も三世紀代の土器とする。
このように出土遺物の一部に三世紀前半まで古くなる可能性の遺物がある。

私は、六代孝安天皇を、魏志倭人伝が伝える「男弟有りて国を治めるを佐く」とする、男弟と考えている。
したがって孝安の宮とされる秋津嶋宮こそ、卑弥呼の王宮である。
だとすれば秋津嶋宮は卑弥呼の在位年代に実在したはずである。二世紀末から三世紀前半である。
現在出土している建物遺構は、秋津嶋宮そのものでは無いかもしれない。だがこの近辺に必ず秋津嶋宮は存在する。

秋津嶋宮が単に、歴代天皇の宮と言うだけなら、私もここまで、剥きになって秋津遺跡こだわる事も無い。
だが秋津嶋宮が、卑弥呼の王宮ということであれば話は別である。なんとしてでも保全されるべき遺跡である。



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