2011年09月02日

秋津遺跡は3世紀前半の遺構を含む

 橿原考古学研究所(以下橿考研と略記)は、これまでに発掘された秋津遺跡の年代を、古墳時代前期前半(4世紀前半)からの遺跡とする。
しかし私はこの遺構は三世紀前半、場合によっては、二世紀末まで古くなる遺構を含むと考える。

 2011年8月27日橿考研は、秋津遺跡4次、5次調査の現地説明会を実施した。
私は参加していないが、ネットで配布された説明資料を見る。
(ネットに提示されている資料はこちら)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2011/akitsu5_shiryou.pdf

それによると北側の方形区画と称される遺構と、南側の竪穴住居群は同時期の遺構とする。
しかし資料で提示された図面から、方形区画と竪穴住居群が同時期に存在していたという橿考研の見解に疑問を抱く。
図を見ていたただきたい。図は第2次、3次の調査区である。その中に方形区画と竪穴住居が重なり合って描かれる部分がある。

akitu2-3.gif

 考古学では柱穴などの切り合いによって、遺構の前後関係を推測する。
一方が他方を切り崩せば、切り崩された遺構の方が古いのである。
調査担当者は竪穴住居が、方形区画を切り崩すとする。方形区画が古く竪穴住居が新しいのである。

tateana.jpg

現地説明会用の資料を読むと、「それらの住居(竪穴住居群)の時期が古墳時代前期前半に限られると判明したため、北側の方形区画施設および掘立柱建物群と、南側竪穴住居群とが同時に併存していた事実が明らかになりました」とする。

しかしこの橿考研の「同時に併存していた事実が明らかになりました」という見解にはどうしても納得がいかない。
方形区画の建物と、竪穴住居が重なる遺構では、二つの建物が同時に存在することは在りえない。方形建物同士あるいは竪穴住居同士の切り合いなら、同一建物群が連続して建てられたと考えられる。そこにそれほど大きな時間差は無い。
だが方形建物と竪穴住居は、まったく性格の異なる建物である。土地利用の状況が大きく変化している。二つの建物群には時間差があると考えるべきである。
竪穴住居群が古墳時代前期前半なら、方形区画建物群はそれ以前なのである。

 配布資料には、秋津遺跡年代推定の根拠が何であるか記されていない。詳しいことは解らないが、たぶん次のような状況から判断されたと推測する。
方形区画の北側は流路で区切られる。その北側から多量の土器片が出土している。ゴミ捨て場のような場所と考えられる。そこから出土した土器は布留1式、2式とされる。布留1式、2式の年代は4世紀前半とされ、このことから橿考研は遺構の年代を4世紀前半と推定したのであろう。

だが方形区画の範囲からは目立った出土遺物は少ないとされる。年代推定の決め手を欠いている。もし竪穴住居群の年代が布留1式、2式に対応するものとすれば、方形区画の年代はそれより古いのである。
その事を示す、出土遺物がある。多孔銅鏃である。多孔銅鏃は東海地方を中心として出土する銅鏃である。

takoudouzoku.jpg

多孔銅鏃は2世紀から3世紀前半の遺物

 次の「東日本における青銅器の消長」という図は、東海地方の出土遺物に詳しい、愛知県埋蔵文化財センター副所長、赤塚次郎氏による青銅器の編年である。

douki-1.jpg

図の赤線で囲んだ部分が多孔銅鏃の年代である。この編年によれば、多孔銅鏃はおよそ2世紀前半から3世紀前半の遺物である。この編年を正しいとするなら、多孔銅鏃の最も新しい年代をとっても3世紀中頃を下らないのである。
だが秋津遺跡の年代を、この多孔銅鏃1点のみで決定するにはリスクがある。そこで昨年の現地説明会で展示されていた土器片の写真を、赤塚氏に見てもらった。氏によるとこの中に、多孔銅鏃と同時代と思われる東海系の土器片が、数点存在するとする。

063-1.jpg

3世紀前半以前にさかのぼる遺物は、多孔銅鏃だけではないのである。土器片も存在するのである。
もはや秋津遺跡が4世紀前半などという橿考研の見解は受け入れがたい。そうでなければ、多孔銅鏃やそれと同時代の東海系土器の出土を説明できない。

大本営発表を鵜呑みにしてはいけない

 橿考研は、日本最多の考古学研究者をかかえる国内最大の考古学研究機関である。
とりわけ奈良県における研究機関としては、最も評価の高い研究所である。
京奈和自動車道の建設に伴う遺跡の事前調査では、この研究所が主導的役割を果たしている。
だが橿考研は、桜井市の纒向こそ邪馬台国の王都と考えている。また後の大和朝廷は纒向あたりで興ると考えている。
したがってここ室の地を邪馬台国の王都や、後の大和朝廷との関連で考えることなど無い。
一方マスコミは、橿考研の発表を垂れ流すだけである。検証能力はゼロである。そんな橿考研の発表資料とマスコミ情報のみに頼っていたのでは、大きな間違いを犯す。
3.11原発事故を予見できなかった、原子力安全保安院の見解を鵜呑みにしたような過ちを犯す。

 この室の地は『日本書紀』や『古事記』が伝える、六代孝安天皇秋津島宮伝承地なのである。秋津島宮の遺構が出土しても何ら不思議は無い。
だが今日の研究者の多くが、欠史八代の天皇の実在を信じない。したがって秋津島宮の実在も信じない。
もし3世紀前半の大型建物の遺構が出土したとしても、葛城氏の豪族居館くらいで片付けてしまうのである。
私は調査地が更に南西方向に広がれば秋津島宮の一部が出土すると予想している。
東海を始め、瀬戸内海周辺から持ち込まれた土器の出土は、葛城氏という地域豪族の居留地にはとどまらないことを示唆する。
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