2011年12月20日

初期大和朝廷の王都

記紀が伝える初期大和朝廷の宮

日本書紀や古事記が伝える初期大和朝廷の宮の場所は下記のようなものである。

1 神武 畝火之白檮原之宮
2 綏靖 葛城高丘宮
3 安寧 片塩浮穴宮
4 懿徳 軽曲峡宮軽之境崗宮
5 孝昭 掖上池心宮
6 孝安 室秋津島宮
8 孝元 軽之境原宮

詳しくはこちら
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/004/4-00010012.pdf

何れも奈良盆地の南である。宮が現在の奈良市や桜井市などの奈良盆地東北部に移るのは、九代開化以降である。
初期大和朝廷の宮は奈良盆地南部なのである。
中でも、現在の御所市には二代綏靖の高丘宮、五代孝昭の掖上池心宮、六代孝安の室秋津島宮が存在したという伝承を持つ。御所市近辺は初期大和朝廷の源郷の地なのである。

秋津島宮が出土する

問題はこの日本書紀や古事記の伝承を、歴史的事実として信じるか否かである。
今日の研究者の大部分は、欠史八代の実在を信じない。したがって室秋津島宮や掖上池心宮の実在を信じるはずも無い。

今その秋津島宮伝承地の近くから、方形区画と称される、特殊な建物遺構群が出土した。一地方豪族の建物遺構とするにはその規模が広大である。

aktu2308.jpg

しかもそこから、東海地方の土器を始め、瀬戸内海周辺や中国地方の土器が出土している。それはここが初期大和朝廷の王都で在ったことを示唆する。

そしてこの遺構の年代は、多孔銅鏃や、それと同時代と思われる東海系土器片などから、3世紀前半あるいは2世紀末までさかのぼる可能性がある。

takoudouzoku.jpg

063-1.jpg

もちろん現在出土している方形区画は、秋津島宮そのものではない。だが更に西南に調査が進めば、秋津島宮の本体が出土する可能性がある。

宮室、楼観、城柵が出土すると予想する

単に大和朝廷の歴代天皇の宮が出土したと言うだけなら私もこれほどむきに成ることはない。調査を行って、記録に残し、埋め戻す事もやむを得ない。
だが私は秋津島宮こそ卑弥呼の王宮と考えている。広範囲に発掘調査を続ければ、『魏志倭人伝』に記された、宮室、楼観、城柵が出土すると予想する。
出土した遺構が豪族居館跡というような、認識で埋め戻されることに異を唱えなければならないと考える。



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