2012年03月15日

秋津島宮が出現している

秋津遺跡の調査主体である橿考研の現地説明資料では、この遺構は四世紀前半の遺構とする。
しかし私は竪穴住居群は四世紀前半であっても、方形区画建物群は二世紀末あるいは三世紀前半までさかのぼると考える。

aktu2308.jpg

その理由である。

竪穴住居が方形区画建物を切り崩す

すべての遺構で竪穴住居が方形区画建物を切り崩す。二つの建物群が混在したわけではなく、方形区画建物が古いのである。

tateana.jpg

しかも方形区画建物は同一場所で3回は立替られる。その間に竪穴住居がそこに建てられる余地は無い。

CIMG0077.JPG

そして竪穴住居も少なくとも2回は建て替えられる。仮に20年毎に建て替えられたとすれば、この建物群の存続期間は100年を下らないであろう。

二つの建物群には時間差がある

方形区画建物の塀に沿って流路が存在する。区画建物と一体で、同時代の流路である。
不思議なことに竪穴住居のいくつかがこの流路の上に建てられるのである。

kukakumizo.jpg

このあたりは広大な平野部である。あえて湿潤な流路の上に住居を建てなければならない理由などない。
考えられるのは、流路がその機能を失い、干上がって埋没した後に、竪穴住居が建てられたと考えられる。
方形区画建物群と竪穴住居群との間には時間差がある。
方形区画建物が存続した期間、それに流路が埋没するまでの時間そして竪穴住居が存続した期間の合計は150年以上になるであろう。

竪穴住居が作られなくなった時期が四世紀の中頃とすれば、最初の方形区画建物が作られるのは三世紀初めあるいは二世紀末なのである。

方形区画建物は三世紀前半

方形区画建物が三世紀前半と言うことを裏付けるのが、多孔銅鏃の出土である。多孔銅鏃は二世紀前半から三世紀中頃の遺物とされる。これ1点のみなら何らかの理由で、古いものがまぎれ込んだという推測も成り立つかもしれない。しかしこの多孔銅鏃と同時代の東海系土器も出土しているのである。

takoudouzoku.jpg

私は方形区画建物群の年代は三世紀前半までさかのぼると考える。

秋津島宮の一部または周辺の建物

ここは六代孝安秋津島宮の伝承地である。私は「男弟有て佐けて国を治む」とするこの男弟を孝安とする。したがって孝安の実年代は卑弥呼の在位年代に重なる。その実年代は三世紀前半である。
今この秋津島宮の伝承地あたりから、三世紀前半の特異な建物遺構が出土している。
私は秋津島宮、あるいは近辺の同時代の遺構と考えている。
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。
この記事へのトラックバックURL
http://blog.sakura.ne.jp/tb/54454411
※ブログオーナーが承認したトラックバックのみ表示されます。
※言及リンクのないトラックバックは受信されません。

この記事へのトラックバック