2013年06月12日

『勘注系図』は何を隠さねばならなかったのか

『古事記』によれば、開化の妃とされる竹野姫の父親を、丹波の大縣主由碁理とする。
一方『勘注系図』は、建諸隅命の亦の名を由碁理とする。『勘注系図』の初めの部分は、丹波の支配者の系譜であり、『勘注系図』に、丹波の大縣主由碁理が登場する事は当然の事である。
またその娘の名を竹野姫として、建諸隅命は開化に「仕え奉る」とする。加えて竹野姫の屯倉を置いたとする。屯倉とは天皇家の直轄領地である。この女性は『記紀』が開化の妃とする竹野姫で間違いはない。また『勘注系図』はこの女性の名を大倭姫命、天豊姫命とする。天豊姫命こそ卑弥呼の後に、年十三歳で王位に就いた台与である。すなわち開化の妃、竹野姫=大倭姫命=天豊姫命=台与=邪馬台国の女王なのである。『勘注系図』の作者はその事を100%熟知している。
 
 しかし『記紀』は竹野姫を開化の妃とする。単に妃であれば、倭王権の最高権力者ではない。竹野姫を中国史書が伝える倭の女王という最高権力者とするには問題がある。この女性を『魏志倭人伝』が伝える台与とする、私の主張も危うくなる。
問題は竹野姫、亦の名天豊姫が、台与であるか否かである。この難問を解く鍵がやはり中国史書にある。

266年、台与と一緒に中国の爵位を受けた男王

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』と、801年成立の『通典(つうてん)』の次の記事である。
『梁書』は「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
『通典』は「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」とする。

台与が王位に擁立された後、再び男王が立ち、並んで中国の爵位を受けたとするのである。
266年西晋に朝貢した朝貢の主体は女王である。この女王は台与であろう。そのとき女王と共に中国の爵位を受けた男王がある。この男王こそ開化なのである。
歳十三歳で倭の女王として擁立された台与は後に、開化と夫婦になり、開化も男王として帝位に就く。しかし遣使の主体が女王である以上この時点での倭国の最高権力者は、天豊姫すなわち、『記紀』が開化の妃としか記さない竹野姫なのである。

二人の女性の最高権力者の存在を知っていた

 中国史書は三世紀代に、卑弥呼と台与という二人の女王が在ったとする。だが『記紀』は、相当する時代には、男子の天皇を記すのみで、女性天皇を記さない。
一方『勘注系図』の作者は、中国史書と同様に、二人の女性の最高権力者が在ることを知っていたのである。
宇那比姫の亦の名とする、大倭姫という名はもちろん、天造日女命が、天下人の名であることは、『勘注系図』の作者は十分承知しているのである。
これは、後の大和朝廷が、男子一系を正当な皇統譜とする主張と異なる主張である。
この事が危険であり、命がけで隠さねば成らなかったのである。
ところうがしばらくすると、系譜の何が危険なのか解らなくなってしまう。
従って『本系図』がなぜ途中を記さないか、その意味を理解できなくなっている。ましてや現代の私が、それを解明することは困難を極めた。ようやく私はその意味を完全に理解し
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