2014年03月17日

想い込みが認識を誤る

 STAP細胞作成をめぐる報道がなにやら怪しくなってきた。「小保方晴子氏に元気をもらった」とする私も複雑な心境である。
もしSTAP細胞作成の論文が、事実の誤認や実験の不備、あるいは意図的なデータの改ざんによるものであるとしたら残念である。
華々しいマスコミ報道を、何の検証もせず信じた私がバカであったということである。

今回の出来事を教訓とするなら、私の邪馬台国論や卑弥呼論において、論拠となる事実の解釈に誤りがないか慎重を期す必要があるということである。
特定の結論を持って推論を組み立てると、結論に都合のよいデータのみを集め、都合の悪いデータは除外する。あるいはデータを仮説に合うように解釈する。そのような誤り犯していないか検証する必要がある。

 私は秋津遺跡から出土した大規模な建物遺構は、六代孝安天皇秋津島宮の一部またはその関連施設と考えている。
孝安は、私が卑弥呼とする宇那比姫の義理の弟で『魏志倭人伝』が伝える、「男弟ありてたすけてく国を治む」とする男弟に他ならないと考えているからである。
したがって、孝安の秋津島宮の存続時期は、卑弥呼が王位に在った二世紀末頃から三世紀前半でなければならない。

室と言う秋津嶋宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したのである。秋津遺跡が秋津嶋宮と無関係とは思われない。そのような想いで出土遺物の詳細な検討を行った。その結果、出土遺物の中に、多孔銅鏃という遺物が有ることを知った。多孔銅鏃は二世紀代から三世紀前半の遺物とされる。このことから私は、この遺構が二世紀末から三世紀前半まで古くなると確信する。
調査主体の橿考研は、庄内式が出土しないから、この遺構の年代は、布留の古式すなわち三世紀末ごろより古くならないという前提に立つ。したがって多孔銅鏃の存在についても、これをもって遺構の年代を古く見ることには否定的である。
同じ遺構を見ても私とは、異なる見え方になるのである。

もともと私の推論の根拠は出土遺物ではない。文献である。孝安は宇那比姫の義理の弟であるという系譜から導かれた結論からである。宇那比姫が卑弥呼なら孝安の秋津島宮の存続時期は二世紀末から三世紀前半で秋津遺跡もその時代の遺構という推論である。そこで調査報告書を詳細に読んでみた。

橿考研の報告書は重要な点で矛盾する


奈良県遺跡調査概報(第二分冊)2010年度版、とされる橿考研による報告書のP225からP231である。
私が最も関心を持つのは、第1遺構面とされる、古墳時代の方形区画施設、掘立柱建物、竪穴建物の出土した遺構である。


その出土状況の写真である。
027.jpg
そしこれを元に橿考研が描いたイメージ図である。
 
akitu-takayuka.jpg

だがこのイメージ図と報告書の間には重要な点で矛盾がある。

akitu-tatemono.jpg

 橿考研が方形区画施設と名づける柵あるいは垣または塀と思われる構造物がある。その方形区画施設は3→2→6の順序で造り替えられたとする。
さらにその中の建物は、大型建物SB0029→竪穴建物SB00101b→SB00101aの順序で立て替えられたとする。
一方SB00101aの床面から出土した炭化物によりこの竪穴建物は火災に会ったと考えられる。同じような炭化物が方形区画施設6の柱穴からも出土したことにより、SB00101aと方形区画施設は同時代とするのである。
問題はこのような論理の組み立てによって、次のような図を示す。

nenndaijyunni-1.gif

しかしながらこの考察は報告書のP238で記す、次の記述と矛盾する。
「SB0028、SB0029を囲み同位置で造り替えの行われた方形区画3、2、6」とする記述である。
SB00101aと方形区画6を同時代とする限り、SB0029はすでにそこには存在しないのである。方形区画6がSB0029を囲むことはできないのである。これは方形区画6がSB0029を取り囲んでいるイメージ図とも矛盾する。

akitu-nennda.jpg

私はSB00101aと方形区画6とが同時代とする推論に誤りがあると考える。
方形区画6が取り囲む建物は、イメージ図にあるように、SB0029という高床式の大型建物であろう。竪穴建物は一般的な住居建物である。それをこのような堅固な塀が取り囲むことはなかろう。取り囲んでいたのは高床式の大型建物であろう。したがって方形区画6とSB0029が同時代であろう。その関係を図示すれば次のようになろう。

nenndaijyunni-2.gif

3→2→6の順序で立て替えられた方形区画3の年代は、布留古、中相とされるSB0010aからさかのぼれば相当古い。
私は二世紀末あるいは三世紀初めということも十分ありえると考える。

 私たちは専門外の事や難しい事については、ついつい専門家の見解を鵜呑みにしがちである。今回の小保方晴子氏のSTAP細胞作成の論文も私にとっては、まったく解らない分野であり、詳細に検証してみる動機も意向もないまま、最初の華々しいマスコミ報道を鵜呑みにした。

だがここに取り上げた橿考研の秋津遺跡調査報告は、私にとって極めて関心の高い事柄である。それゆえ報告書を詳細に読み込んだ。その過程でこの報告書には、年代推定に誤りがあると考えている。庄内式が出土しないから、この遺構の年代は布留式の時代をよりは古くならないという先入観である。これが年代推定を誤らせている。
橿考研は我が国最大の考古学者を抱える研究機関である。その研究機関による調査報告である。だがその報告書の内容は、無批判に受け入れるには極めてずさんである。

 そもそも今日の考古学者の大部分は、孝安天皇などという人物の実在を信じていない。したがって秋津島宮など信じる訳も無い。仮に秋津島宮の伝承地とされる室の地で大型建物遺構が出土したとしても、それを秋津島宮との関連で考えることなど無い。
私はそのことを一番危惧している。この遺構を単に豪族居館跡くらいの認識で片付けられることを恐れているのであう。仮にここが秋津島宮であっても、単に歴代天皇の宮の一つに過ぎないと言うだけなら調査の後、記録に残して、自動車道の橋脚の下に埋め戻されてもやむを得無いと考える。だが私の仮説では、ここは卑弥呼の王宮であり、その王都の建物跡である。万全の保存処置と、更なる周辺の調査が必要と主張するのである。
この記事へのコメント
両面宿儺の伝承から武振熊の実年代を尋ねて、桂川先生の論文に出会ってから10年以上たちました。
その卑弥呼=宇那比姫論は、事実(文献)に基づき論理をつくしたもので、疑う余地がないものと思っています。
武振熊は卑弥呼の子孫だったのですね。
「小保方晴子氏に元気をもらった」は、失敗でしたが、悪いのは先生ではなく、理研だと思います。
Posted by 西本久司 at 2014年03月18日 11:06
私の仮説にご理解をいただきありがとうございます。
両面宿禰の伝説を追っておられるようですが私も大変興味があります。

最近次のような事が解りました。
『日本書紀』では武振熊は、神功皇后摂政前期と仁徳六五年の条に登場します。『日本書紀』ではどちらも武振熊とのみ記しますが、『勘注系図』では前者は武振熊宿禰。後者は武振熊命とします。
武振熊宿禰は武振熊命の子供で、和邇氏系譜で大矢田宿禰とする人物のようです。
親子という別人にしても、神功の新羅出兵と仁徳六五年では年代に差がありすぎます。
最近わかったことですが、武振熊宿禰が両面宿灘を追って飛騨の地に入ります。
飛騨の入り口、下呂市金山町下原に下原八幡神社が祭られます。武振熊宿禰が戦勝祈願を行ったという場所です。祭神は神功皇后と応神です。
その神社伝承によると武振熊宿禰はここで応神崩御の報に接したとあるようです。

どうも『日本書紀』の応神紀の後半部分は、仁徳時代の事が含まれるようです。逆に仁徳紀の中に応神時代の事が含まれるのではないかという気がします。
したがって武振熊宿禰が両面宿灘を追って飛騨の地に入ったのは、『古事記』が応神の崩御年とする、甲午(394)ではないかと推測します。
武振熊宿禰(大矢田宿禰)は、父武振熊命と共に新羅出兵に加わり、新羅に留まり後に帰国します。
私は神功の新羅出兵を仲哀崩御の翌年としますから363年です。武振熊宿禰が両面宿灘を追って飛騨の地に入ったのが394年ならつじつまが合います。

武振熊宿禰は『勘注系図』によると熊野郡川上郷安田に葬られたとします。
熊野郡川上安田とは、現在の京丹後市久美浜町橋爪あたりとされる。この橋爪の南、島川東と称される地区に、島茶臼山古墳という全長42mの前方後円墳があります。築造の年代は四世紀末以降とされるが詳しいことは不明。
私はこの古墳こそ海部直建振熊宿禰又の名、大矢田宿禰の墓と考えるに至りました。

飛騨の地には武振熊宿禰と両面宿灘との戦いに関する伝承が多く存在します。
私の町金山にも、先の下原八幡をはじめ、攻め入った武振熊宿禰を迎え撃つために布陣したとされる鎮守山という場所があります。



Posted by 曲学の徒 at 2014年03月20日 10:47
>>特定の結論を持って推論を組み立てると、結論に都合のよいデータのみを集め、都合の悪いデータは除外する。あるいはデータを仮説に合うように解釈する。そのような誤り犯していないか検証する必要がある。

本当にその通りですね。先日、WOWOWのドラマで地の塩というドラマを見ました。石器を考古学者が造って自分で埋めて前期旧石器時代が日本に存在したかのようにねつ造した実在の事件です。考古学者の方は本当に気をつけて欲しいと思います。
邪馬台国の所在地に関しては僕は九州説です。
「完全決着!邪馬台国」という本を読んだら、そう考えざるを得ないと思います。一度読んでみてください。
Posted by ねつ造反対 at 2014年03月20日 17:01
邪馬台国論や卑弥呼論は星の数ほどある。一つとしてまったく同じものはない。
しかも論者は自分の説が絶対正しいと思っている。私とて例外ではない。
自然科学の分野では、仮説が正しいか否か、再現性が問われる。第三者によって再現が確認できれば実証された事になる。
例のSTAP細胞作成も、誰かによって同様の方法で作成できることが確認できれば、その正しさが実証されることになるのだが。だが現在の段階で再現できないところうに問題がある。

翻って特定の邪馬台国論や卑弥呼論が、正しいか否かを検証する方法はあるのであろうか。
犯罪捜査の場面では、事件につながる決定的な物的証拠が求められる。物証主義という考え方である。
私は邪馬台国論や卑弥呼論においても、この物証主義を重要視する。確実に卑弥呼や邪馬台国につながり、誰もがそれを認めるような物証を提示できれば、その説の妥当性が認められると考えている。
「ねつ造反対」さんが推薦する「完全決着!邪馬台国」には、誰もが納得する物的証拠は提示されていますか?

かって私は、私が卑弥呼の墓とする場所が、古墳か自然の尾根かで専門家と論争したことがあります。
専門家は踏査のうえ、そこは自然の尾根で古墳では無いと言っていました。しかし後に私がそこから遺物を発掘し、その遺物が埋まったままの状態を見た専門家は、二度と古墳ではないと口にすることはありません。
物証がなければ、私の主張は永遠に受け入れら得なかったことと思います。
Posted by 曲学の徒 at 2014年03月22日 13:14
建振熊と両面宿儺の前文に誤りがあります。神功の新羅出兵に従った「前者」とする人物は建振熊命で、両面宿儺を討伐に赴いた「後者」は建振熊宿禰の誤りです。
勘注系図には両面宿儺討伐の話はありません。
人徳の時代両面宿儺討伐に赴いたのは、息子の建振熊宿禰またの名大矢田宿禰というのは私の推測です。
お詫びして訂正します。
Posted by 曲学の徒 at 2014年03月22日 14:24
>>特定の結論を持って推論を組み立てると、結論に都合のよいデータのみを集め、都合の悪いデータは除外する。あるいはデータを仮説に合うように解釈する。そのような誤り犯していないか検証する必要がある。

私の心配しているのは、まさにこの文章の通りのことが纒向遺跡や箸墓で行われている可能性があることです。今、必要なことはより多くの仮説を集め、採取したデータがどの仮説により合致するのか検討することだと思います。そのためには、より確かな仮説を出し合うことが必要だと思います。
それ以前に発掘に関わった考古学者が自分の仮説に見合うように解釈したデータのみを発表するのではなく、すべてのデータを発表しないといけないと思います。
Posted by ねつ造反対 at 2014年03月22日 16:11
3月22日の訂正記事、気になっていたことなので安心しました。
前に書きましたように、私の出発点は「両面宿灘」でした。飛騨地方では実在を信ずる人が多いようですが、「日本書紀」の記述しかなく、伝説の域を超えませんでした。
桂川先生の論証により「建振熊宿禰」の存在が
394年の年代を伴った現実的なものとなりました。当然「両面宿灘」の実在も確かでしょう。
伝説の「両面宿灘」は人望があったようですが、実像は確かめようがありません。縄文系の人たちの頭領かなどと想像したりします。
ところで、「物証主義」という語は「両刃の刃」とも思われます。科学研究の過程での仮説は、当然「物証(証拠となる事実)」は不完全です。「物証」が不完全だからと言って仮説を否定するのは非論理です。
また、歴史研究では、十分に検証された「文献内容」も「事実」に準ずるものと考えられます。
要するに、桂川先生の「卑弥呼=宇那比姫論」は、「仮説」かもしれないが、限りなく真実性のある論であると考えます。
Posted by 西本久司 at 2014年03月23日 10:52
様々な説は発言するのは自由だが
思い込みは、あなたもだw
あなたの漢字の音韻も、出鱈目だらけだし。
Posted by 山本信二 at 2014年04月08日 08:45
山本信二様 の書き込みは、数少ない真っ向からの批判の一つである。しかも実名表記の書き込みである。
ぜひ批判にお答えしたい。

>あなたの漢字の音韻も、出鱈目だらけだし。

この批判についてもう少し具体的に説明していただきたい。
Posted by 曲学の徒 at 2014年04月10日 21:31
両面宿儺さんも小保方さんも甲午も私のルーツ探求キーワードになっています。以前お邪魔した時には気付きませんでしたがとても気になるお話がありますね。方という字には絶えず苦難がつきまとうイメージもありますが、私も中々つぶさればない強さも感じています。今話題になってきましたよ。
物的証拠が一番で考古学の正しい運用と情報公開が歴史を変える可能性も期待したいです。全てを受入る気持ちも大事に思いますね。
Posted by りひと at 2016年05月30日 19:06
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