2014年04月19日

崇神が箸墓を造った理由

 崇神が全長280mという巨大な倭途途日百襲媛の墓を造った訳は、崇神は自分がこの王権の正当な継承者であることを、国内に知らしめるためである。
文字の普及がない時代、もちろんテレビや新聞などのメデアも存在しなかった時代、誰がこの国の権力者であるかを、広く告知するには、目に見える巨大構築物を造ることが有効なのである。
崇神は、自分が正当な王権の継承者であることを、倭途途日百襲媛の墓を造ることによって国民に知らしめたのである。

 次の図は倭途途日百襲媛に至る系譜である。倭途途日百襲媛という女性が大和朝廷の王権の血筋を色濃く引く女性であることが理解できる。

himosohime.gif

 『日本書紀』によると崇神が王位に就いた初期の頃は王権は不安定な状況であった。国民が流亡したり、武埴安の反乱が起きるなど決して安定した王権ではなかったのである。
しかも王権の継承者としては、必ずしも崇神が筆頭という訳でもない。
『日本書紀』は少し奇妙な記述をなす。開化記の中で次のように述べる。「六年伊香色謎(いかがしこめ)を皇后に立てた。后は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇を生んだ。これよりさき、天皇は、丹波の竹野媛を入れて妃とし、彦湯産隅命(ひこゆむすみ)を生んだ」とする。普通に考えれば先に娶った女性が正妃すなわち皇后で、あとに娶った女性が妃のはずである。ところうが『日本書紀』は、先に娶った竹野媛を妃、後に娶る伊香色謎を皇后とする。
竹野媛は単なる妃ではない。天豊姫(あまとよひめ)と言い『魏志倭人伝』が台与とする女王である。その女王の子供は彦湯産隅命(ひこゆむすみ)で、王権の継承者としては筆頭となる存在である。『日本書紀』には崇神を正当な王権の継承者とするための潤色がうかがえる。

suuzinn.gif

崇神は彦湯産隅命をさしおいて、王権の座に就くわけである。そこに至るには、物部氏の意向が強かった事が推測される。崇神が王位に就く前の時代、物部氏は孝元の皇后、欝色謎命を皇后に立てる。次に開化の皇后に伊香色謎を送り込んでいる。物部氏が王権の中で強力な立場を築いたことが推測される。崇神はその物部氏の女性伊香色謎の子供である。物部氏の意向を反映して崇神王朝が誕生するのである。
このように系譜から見えてくる状況を推測すると、崇神が大和朝廷の正当な王権の継承者であることを誇示するために、王権の血筋を色濃く受け継ぐ、倭途途日百襲媛の巨大な墓を築造したのである。またその墓の形は長期王権の座に君臨した、卑弥呼すなわち宇那比姫命の墓をモデルにしたのである。

 また倭途途日百襲媛は竹野媛すなわち台与の従妹でもある。台与が西晋に朝貢したのは266年である。この時代は、まだ開化の時代である。箸墓が築造されるのは崇神の時代である。したがって、私は箸墓築造の年代を280年前後と推定する。
posted by 曲学の徒 at 10:51 | Comment(3) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち
この記事へのコメント
モモソ姫は三輪山の社の神官大田タネコの息子と結婚した。男は姫が孕んだので安心して自分の素性を打ち明けた。モモソ姫は「まさか、まさか」と耳を疑った。
 大田タネコは大物主の子孫というので当然、饒速日命の子孫だと思って結婚した。
 ところが大田タネコはなんとあろうことか、出雲新羅韓神教の男だった。
タネコの大田(オオタ)とは出雲の「意宇だ」という意味で、俺は出雲の大田(意宇だ)だった。騙されたのです。大田タネコが饒速日命を祀る立派な神官だと思ってその息子と結婚したのに、こともあろうに天皇まで騙した出雲新羅韓神教の男で大国主の子孫だった(新羅から来た少彦名の9代目)。
 飛騨皇統の天敵出雲新羅韓神教の男の子など産めるはずもなく、モモソ姫は箸で突いて堕胎しようとして自らの命も落とした。
天皇とモモソ姫の思う「大物主神」とは大和開拓の祖饒速日命だったが、大田タネコのいう大物主神とは、出雲の大国主が新羅女に産ませた子の少彦名=イソタケルだったのだ。
 モモソ姫が大田タネコの息子の子を宿し、堕胎しようとして死んだ事は、三輪山の神主の大田タネコにすれば「俺の孫(息子の子)を産みたくない為に箸で突いて堕ろそうとして死んだ」などとは恥さらしだ。
 モモソ姫の墓が作られ、しかも箸で堕胎しようとして死んだ姫の墓が「箸墓」などとあだ名されて評判になり、大田タネコにすれば穴があったら入りたい程の恥話だ。
 それを隠す為にモモソ姫の墓に自分の墓を先ず隣接してその後上手に被せて造営した。
箸墓というといかにもモモソ姫の墓のようだが、古墳からは、吉備地方の特殊器台形土器、特殊器台形埴輪などが埋葬されている。
 モモソ姫の墓を壊すつもりで土を被せて覆い、恥をかかせるために作ったのが箸墓古墳。事情を知っている世間の人はモモソ姫に同情し、いつまでも箸墓古墳といった。大田タネコの墓よりもモモソ姫の箸墓が残った。「暴かれた古代史・二千年の涙」山本貴美子著より紹介させて頂きました。
Posted by Misaki-1167 at 2015年01月24日 01:31
また孝安さんと和邇と尾張について調べ始めたのでこちらにまいりました。本当分かり安く解説して頂きありがたいです。
多分5代のあたりで和邇と尾張はくっつきはじめていそうです。ただ歴史の中では6代の妻になっているようですけど天皇にならなかった方とまず出会ってからその後に6代が現実にいたならばそっちの籍に移動しているように思っています。5代のご兄弟で和邇と初期尾張が提携してそのあと孝霊さんが入り込んできていそうですね。モモソは私は苦手なので和邇でも初期尾張でもないように感じます。その後は尾張は乗っ取られ、和邇は利用だけされて主線が変わってしまってるように思います。ただ血筋としては初期尾張のが欲しい部分もあり奥様や関係者の女性の血はちゃんと継承していますよね。ここで本来の尾張と和邇は終わってしまってます。
きっと奈良から尾張と和邇は撤退してるはずです。そこからは資源調達は今まで通りではなくなっているはずなので古墳や遺跡に造り方や選ぶ地形手法は変わってくるはずです。

今日こう思ったのは、駒ヶ根を調べていて神社が出てきたのですが赤須彦と押姫が日本武尊に出会う伝説があるようでしたのでそんな妄想してみました。日本武尊が孝安さんに近いかな?本来、弟橘媛がいたのに宮簀媛に剣がいくのも尾張の変化だと思い始めました。
日本武尊がやってきて地主の赤須彦にもてなされて、娘に出会ったのが長野?ワニの赤須彦でワニさんの娘が宮簀媛だとしたらすでに赤須彦が初期尾張と出会った後に日本武尊の新尾張が一旦ワニさんの姫に婿になりそして本家初期尾張も日本武尊が入り込んでその後お役御免で消されらすっかり和邇も尾張も吸収されて看板だけ持って行かれたのでは?と。そんなんでその地の歴史も変えないといけないんで箸墓とかリメイクしちゃったんでは?ちょうど尾張と和邇のアイデアが浮かんだんでコメントしておきますね。
Posted by りひと at 2017年01月24日 23:55
りひと様

和邇氏と尾張氏の関係はこちらの系譜関連図のように考えています。
http://yamatai.sblo.jp/article/101770685.html
Posted by 桂川光和 at 2017年01月25日 14:41
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