2014年04月19日

箸墓は卑弥呼の墓ではない

 箸墓は卑弥呼の墓ではない。また台与の墓でもない。
倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)の墓である。
多くのマスコミは箸墓について語るとき「卑弥呼の墓ともされる」という修飾語をつける。あたかも卑弥呼の墓であるがごとく語る。
また一部の研究者の中には箸墓の築造年代を三世紀半ばとし、あたかも卑弥呼が没したとされる248年か249年ころの築造と主張する。
箸墓は『日本書紀』が伝えるように倭途途日百襲媛の墓である。倭途途日百襲媛は卑弥呼ではない。
ここでは最初に倭途途日百襲媛と卑弥呼の関係を述べる。
次に前方後円墳という形の成り立ちについて、最後は箸墓が造られた理由について述べる。

 倭途途日百襲媛の父親は七代孝霊天皇である。問題は母親の出自である。『古事記』はその名前を意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめ)とし、またの名を蠅伊呂泥(ハエイロネ)とする。また『日本書紀』は倭国香媛(やまとのくにかひめ)として、またの名をハエイロネとする。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛とハエイロネを同一人物とするのである。
だがハエイロネと意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛とは別人である。ともに七代孝霊天皇の妃になった人物であるが、前者は三代安寧天皇の曾孫である。『古事記』や楽家系譜はその系譜を伝える。一方意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(『勘注系図』では大倭久邇阿禮姫命と表記)またの名倭国香媛と称される人物は、尾張氏の人物である。『勘注系図』では、私が卑弥呼とする宇那比姫命の姪である。

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『勘注系図』にはハエイロネという人物の名は見られない。一方楽家系譜に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛という名は登場しない。記紀が同一人物とする記載に誤りがある。

 倭途途日百襲媛の母親、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名倭国香媛は尾張氏の女性であることを伺わせる神社伝承がある。
香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)という神社がある。その神社伝承によれば、倭途途日百襲姫命は七歳の時、戦乱に陥った大和の黒田盧戸宮(くろだいおとのみや)を出て、八歳の時この地に至り、二十歳頃までこの地で暮らしたとされる。
この水主神社と同じ名前の神社がある。京都府城陽市久世の水主神社である。祭神十座は、彦火明命から始まる、すべて尾張氏の人物である。水主神社という神社は東かがわ市水主と城陽市久世の水主神社以外他に見当たらない。この二つの神社には深い関係があることが察せられる。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛は尾張氏の女性でハエイロネとは別人である。
したがって倭途途日百襲媛の父親は卑弥呼の孫、孝霊で、母親は卑弥呼の姪である。卑弥呼の血筋を色濃く引き継ぐ女性である。
王権の血筋を色濃く受け継ぐ女性であるからこそ、一介の皇女にすぎない倭途途日百襲媛の巨大な墓が築造されたのである。
posted by 曲学の徒 at 11:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫
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