2011年06月28日

15分で理解する邪馬台国と卑弥呼

最初の5分

卑弥呼は尾張氏の女性

 卑弥呼は尾張氏の女性宇那比姫(うなびひめ)である。宇那比姫は「日女命(ひめみこと)」とも呼ばれる。日女命(ひめみこと)とは、「ひめ」という高貴な女性の呼び名に命(みこと)と言う尊称が付いた呼び方である。卑弥呼とは「ひめみこと」の音写でる。また宇那比姫命は大倭姫命(おおやまとひめのみこと)とも称される。大倭姫命とは大和朝廷の女王を意味する名である。さらに天造日女命(あまつくるひめみこと)とも称される。天造日女命とは天下人という意味である。
父は尾張氏の建斗米命(たけとめのみこと)。母は紀伊国造(きいのくにのみやつこ)の中名草姫(なかなくさひめ)。
葛城高尾張(かつらぎたかおわり)と呼ばれた、現在の奈良県御所(ごせ)市近辺で、七人兄妹の一番下の娘として生まれる。
二世紀の終わり、五代孝昭(こうしょう)天皇亡き後の、王位をめぐる混乱を収拾するべく、幼くして大和朝廷の王位に擁立され、西暦248〜249年頃没したとされる。

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次の5分

男弟は孝安天皇。卑弥呼の王宮は秋津島宮

 卑弥呼には天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)という夫があった。天足彦国押人の弟は六代孝安(こうあん)天皇である。
したがって孝安天皇は卑弥呼の義理の弟にあたる。
魏志倭人伝が伝える「男弟有りて佐(たす)けて国を治む」とする「男弟」は孝安に他ならない。

晩年卑弥呼の政治を補佐したのが孝安天皇で、宮は室秋津島宮(むろあきつしまみや)とされる。したがって秋津島宮が卑弥呼の王宮でも在る。
現在御所市室の近くで自動車道建設に伴う発掘調査が行われている。秋津島宮と関連する遺構や遺物が出現している。

【発掘調査が進められている秋津遺跡】


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【炭素年代測定値が示す建物の年代】
炭素年代測定値から暦年代を推定したグラフである。一番古い値を示した建物の炭素年代測定値は、2世紀代にさかのぼる。
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【出土した三世紀前半の遺物(多孔銅鏃)】tannso
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発掘調査を行った橿原考古学研究所は、この遺跡の年代を古墳時時代前半(3世紀中ごろから4世前半)とするが、炭素年代測定値や多孔銅鏃の存在は、この遺構の始まりが2世紀末まで古くなることを物語る。掘立柱建物の一部は卑弥呼時代のものである。

径百余歩の卑弥呼の墓

また孝安は玉手山(たまてやま)に葬られたとする。現在宮内庁が孝安陵とする隣の尾根に、径百余歩すなわち直径150mの円墳がある。これが卑弥呼の墓であろう。

【卑弥呼の墓とする玉手山の尾根】

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最後の5分

台与は天豊姫で開化の妃。


卑弥呼の後に、歳13才で王位に就いた同族の女性がある。名前を台与(とよ)とする。この女性は卑弥呼の甥(おい)、丹波の大縣主由碁理(ゆごり)の娘で、天豊姫(あまとよひめ)である。後に九代開化(かいか)天皇の妃となる竹野媛(たかのひめ)でもある。
また由碁理は239年卑弥呼の使いとして魏に赴いた都市牛利でもある。

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邪馬台国は「やまとのくに」


邪馬台国とは「やまとのくに」の音写で後の大和朝廷の事である。
「やまとのくに」は西日本の中小の国々を支配下に置く。その支配する地域を「おおやまと」と呼ぶ。
宇那比姫と天豊姫は、共に「大倭姫(おおやまとひめ)」とも呼ばれる。「大倭姫」とは「おおやまと」の女王の名である。中国史書はそれを「大倭王」と表記する。

現在秋津遺跡から瀬戸内海、山陰、東海などの広い範囲から持ち込まれた遺物が出土している。ここが邪馬台国の王都で在る事を裏付ける。

【秋津遺跡から出土する各地の土器】

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以上ここまでが15分。次に若干の補足を加える

「卑弥呼に夫が有った」
あなたはそんな話は信じないだろう。なぜなら『魏志倭人伝』は、卑弥呼について『年すでに長大、夫壻なし』とする。夫が無かったとするからである。

次のページを読んでほしい。
http://yamatai.sblo.jp/category/872520-1.html

2014年07月17日

古代有力豪族の系譜がすべて婚姻を通じてつながった。

古代有力豪族の系譜がすべて婚姻を通じてつながった。
私は世代位置に整合性を持たせ、系譜同士のつながりを持った系譜を架空の系譜として創作することは不可能であると考える。そのことにより古代氏族系譜は、架空ではなく史実の反映であると主張する。しかもそれらの豪族系譜の中に欠史八代とされる、その実在を疑われる天皇名を見る。中でも物部氏系譜などには、欠史八代とされるすべての天皇名を見る。
したがって私は、実在を疑われるこれらの天皇たちも間違いなく実在したと考える。
だがこの私の主張には、一つの弱点があった。それは、それらの系譜すべてが『日本書紀』や『古事記』の天皇系譜を参照して作成されたとすれば、系譜同士の整合性を確保することも、欠史八代の天皇名を記すことも、不可能ではないという反論である。今までこの反論を完全に否定できない弱点があった。

ようやく記紀伝承を排して、古代有力氏族の系譜伝承のみで、これらの系譜をすべてつなげることが出来た。
もちろん婚姻でつながる人物の世代位置に整合性がある。次の図はその関係を図にしたものである。

尾張氏、葛城氏、和爾氏、紀伊氏、大伴氏、大倭氏、大神氏
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物部氏、三上氏、中臣氏、大神氏(大三輪氏)、伊勢津彦裔
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PDFファイル
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このようなつながりを持った系譜を、フイクションとして創作することは不可能である。その点でこれらの系譜伝承は一定の史実の反映であると考える。もちろん系譜伝承は長い間の伝承の過程で、意図されない誤りが起きる。その点で系譜伝承が100%信頼できるわけではない。だが、複数の系譜伝承を相互に比較検討することによって、その信頼性を検証することが可能である。
今回その劇的な例として、『先代旧事本紀』に載せられる、物部氏の系譜伝承の検証が出来た。
(紙幅の都合で上記二つの図を1枚の図にすることは困難であるが、大神氏(三輪氏)系譜を両者に掲載することによって、この二つの図もつながりがあることを理解していただきたい。)

『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある

物部氏系譜は天津彦根(あまつひこね)の系譜と婚姻関係にある。以前、物部氏系譜と名前だけ羅列された、天津彦根の系譜との対応関係を探ったが、うまく対応させることが出来なかった。
今回、中田憲信(なかだのりのぶ)著『諸系譜』の天津彦根命裔と伊勢津彦命裔との系譜を見ることによってこの問題が解決した。
結論は『先代旧事本紀』物部氏の系譜に誤りがあることが判明した。

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すなわち物部氏系譜では川枯姫(かわかれひめ)と出雲色多利姫(いずもしこたりひめ)を彦湯支命(ひこゆきのみこと)の妻とするが、天津彦根の系譜では川枯姫は、大禰命の妻。または出雲色多利姫も大禰命の妻である。
更に物部氏系譜では、新河小楯姫(にいかわおだてひめ)を出石心大臣命の妻とするが、天津彦根の系譜では、新河小楯姫は欝色雄許(うつしおこ)の妻で、出石心大臣命の妻は坂戸由良都媛(さかとのゆらつひめ)である。また出雲色多利姫の登場する伊勢津彦命の系譜でも、出雲色多利姫は大禰命の妻である。
この天津彦根の系譜は天児屋根命(あめのこやね・中臣氏系譜)の系譜と婚姻関係を持ち、この系譜との間に矛盾は無い。
したがって、これらの女性と物部氏の男性の関係は、天津彦根命の系譜(三上氏系譜)や伊勢津彦命の系譜が正しく、『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある。
天津彦根命の系譜によって物部氏系譜を修正すれば、最初に私が感じた天皇系譜との違和感もある程度解消される。『先代旧事本紀』物部氏系譜は、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命を三世孫として同一世代とするが、出雲醜大臣命と、出石心大臣命は大禰命の児でこの間は二世代なのである。

 また今まで物部氏系譜と中臣氏系譜だけが、他の氏族系譜と孤立して、天皇系譜を仲立ちにしなければうまくつながらなかった。
今回天津彦根命の系譜と、天児屋根命の系譜が、宇佐津臣(うさつおみ)と梨迹臣命(なしとみのみこと)の世代でつながることが確認でき、また出雲色多利姫によって、伊勢津彦命の系譜につながり伊勢津彦命の系譜が、沙麻奈媛命(さまなひめのみこと)を介して大神氏(おおみわし・大三輪氏)の系譜につながることが解った。このことにより、畿内やその周辺の有力豪族系譜が、婚姻を通じてすべてつながった。
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