2013年05月11日

葛城の歴史

 秋津遺跡の性格を理解するためには葛城の歴史を知る必要がある。
どんなに精緻な発掘調査が行われようとも、考古学的な探求のみでは絶対に解らない事がある。
たとえば立派な住居跡が出土しようとも、そこに何と云う名前の人が住んでいたかは、文字資料が出土しない限りまったく不明なのである。
そこに文献史学の出番がある。そして文献史学の資料の一つに系譜伝承がある。これまで系譜伝承は、歴史資料としてあまり重要視されてこなかった。しかし私は『日本書紀』や『古事記』そして偽書ともされる『先代旧事本紀』などの歴史書と共に、系譜伝承は我が国の古代史を解明する、有力な歴史資料であると確信する。

そこで葛城の歴史を、系譜伝承と神社伝承から概観する。
古くは葛城とは、奈良盆地東南部葛城山の山麓に広がる地域を指す。南は現在の御所市あたりから、北は北葛城郡王寺町、上牧町あたりまで及ぶ地域である。
飛鳥時代には葛城上郡(かつらぎかみのこおり)、葛城下郡(かつらぎしものこおり)に分かれる。
秋津遺跡のある御所市近辺は、葛城上郡(かつらぎかみのこおり)と称された地域である。

葛城に居た氏族

 この地域と関連する氏族は、神武が大和朝廷を樹立した時、葛城国造(かつらぎのくにのみやつこ)に任じられたとする、葛城氏である。そしてこの葛城氏と婚姻を通じて密接に関わる尾張氏である。
もう一つ葛城氏や尾張氏がこの地に進出する前の時代、この地に勢力を持っていたと思われる氏族がある。大国主の子供とされる事代主(ことしろぬし)や味耜高彦根(あじすきたかひこね)を祀る鴨(かも)と称される一族である。この一族は後の大神氏(おおがみし)あるいは三輪氏(みわし)である。

そしてもう一つは四世紀の中頃葛城国造、荒田彦宿禰の娘、葛姫(かつらひめ)を娶つた竹内宿禰(たけのうちすくね)に始まる葛城氏である。竹内宿禰と葛姫の子が葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)で、全長230mの前方後円墳宮山古墳を築く、強力な氏族となる。葛城襲津彦は葛城国造の娘の子であるが、それ以前の剣根に始まる、葛城国造と竹内宿禰に始まる葛城氏とは性格を大きく異にする。
この点を理解しておかなければ、秋津遺跡の性格を理解することは出来ない。なぜなら現在出土している方形区画施設と称される特異な建物遺構は、四世紀中頃に終わる。竹内宿禰やその子供葛城襲津彦の活躍する年代には、この遺構は消滅しているのである。したがって宮山古墳を造った氏族との関連では秋津遺跡を理解することは出来ない。

葛城国造の系譜

 神武が最初に大和朝廷を打ち立てた時、椎根津彦(しいねつひこ)を倭国造(やまとのくにのみやつこ)。剣根命(つるぎねのみこと)を葛城国造(かつらぎのくにのみやつこ)とする。
これは興味深い伝承である。神武によって支配地を与えられたのは、その多くが奈良盆地侵攻に当たって活躍した人物に対する論功行賞である。だが『日本書紀』が伝える限り、剣根命については何の活躍も記さない。剣根命は特段の活躍が無くとも賞にあずかる立場なのである。そのことを伺わせるのが、その剣根命に至る系譜である。
剣根命は三嶋溝杭(みしまみぞくい・溝咋耳)の子、玉依彦(たまよりひこ)の子とされる。
三島溝杭の娘、玉依姫が事代主と結ばれ、後に神武の皇后となる、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずよりひめ)を生んだとされる。
この時代の葛城氏は、大神氏の祖先である事代主とも関わりを持つ、名門の出なのである。
樹立直後の大和朝廷は、早くからこの地域で勢力を持っていた有力氏族を無視できなかったのである。
奈良盆地は、南西部をこの剣根命が国造となり、北東部を椎根津彦が国造となる。大和朝廷お膝元の地域支配は葛城国造と倭国造の二つの国造によって行なわれるのである。


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そしてこの剣根命の娘、賀奈良知姫が尾張氏の天忍男命の妻となる。その子供が瀛津世襲や世襲足媛である。
この辺りから尾張氏と葛城氏は婚姻関係を通じて深い関係となる。

尾張氏と大和朝廷

 尾張氏が何時からこの地に進出したかは定かではないが、世襲足媛や瀛津世襲の時代には間違いなくこの地に住む。瀛津世襲を亦の名葛城彦ともする。そして世襲足媛が五代孝昭天皇の皇后となって、天足国押人命と倭足国押人命すなわち六代孝安天皇を生むのである。

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孝昭の宮は掖上池心宮とされる。掖上とは現在の御所市南部の地名である。掖上池心宮の伝承地の碑が建つ場所がある。御所工業高校前、塀で囲まれた民有地の中である。宮山古墳前方部の八幡神社境内に建つ、秋津島宮伝承地の碑と同じく、大正四年、大正天皇の即位を記念して建てられた物であるが、この池心宮伝承地も場所としては疑わしい。
なぜなら、御所工業高校が建設された際事前発掘調査が行われている。その際出土したのは縄文時代の遺物で、弥生や古墳時代の遺物は出土していない。したがって池心宮はここではなかろう。
伝承によれば、池心宮は「よもんばら」あるいは「よもぎはら」と称される場所にあったとする。現在「よもぎはら」と呼ばれる場所がある。御所工業高校の西側一帯である。
京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、御所市茅原の河川跡地から、庄内式同時期の土器と布留式土器が多数出土している。この河川跡の上流に庄内式時代まで遡る集落の在ったことを伺わせる。
わたしは掖上池心宮の場所は、御所工業高校の西側、300〜400m離れた場所あたりではないかと推測する。

大和朝廷と一体を成す尾張氏

『魏志倭人伝』は、卑弥呼が邪馬台国の女王として擁立される前、70年〜80年に渡って「男王」の時代があったとする。私は孝昭が、その最後の男王と考える。したがって中国史書が伝える「倭国大乱」はこの孝昭の後に起きた戦乱と考える。

そしてこの掖上池心宮から2kmほど南の、室という場所に、六代孝安の秋津島宮が在ったとされる。室とは現在秋津遺跡と名づけられたあたり一帯である。したがって現在出土している特異な建物群は、秋津島宮の一部で、これこそ卑弥呼の王宮に他ならないと考える。

そして私が卑弥呼とする、宇那比姫の甥にあたる建諸隅命は、葛城国造大諸見足尼の娘、諸見己姫を娶って、天豊姫を生む。天豊姫が『魏志倭人伝』の伝える台与である。また266年西晋に朝貢した、倭の女王でもある。
宇那比姫と天豊姫という二人の尾張氏の女性が、大和朝廷の王権の座に就くことによって、この時代の大和朝廷は尾張氏と一体なのである。

宇那比姫の兄建多乎利の墓

 御所市の北隣は葛城市である。そこに通称笛吹神社(ふえふきじんじゃ)と呼ばれる古い神社が在る。祭神は天香山命(あめのかぐやまのみこと)で尾張氏系譜で、始祖神、天火明命の子とする人物である。
この神社の宮司家、持田氏に古い系譜が伝わる。その系譜に私が卑弥呼とする、宇那比姫の二番目の兄、建多乎利(たけたおり)が登場する。
この神社裏手に、笛吹神社古墳群と称される古墳が在る。神社伝承によるとその一つが建多乎利の墓とする。神社すぐ裏手の一番大きな古墳は、その横穴式石室と石棺から、建多乎利の時代のものではない。だが更に、その奥に続く尾根上に、直径5〜6mくらいの円墳が3基ほどある。私はその一つが建多乎利の墓であろうと推測する。

もう一つの笛吹き神社

 更に同名の神社が秋津遺跡の近くに在る。秋津遺跡の南側は條の集落である。その山際に笛吹神社という小さな祠がある。葛城市の笛吹神社と同名の神社である。
当初私は、ここも祭神は、尾張氏の祖先である、天火明命か天香語山命と考えた。ところうが調べてみると、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なのである。しかし後に笛吹神社の宮司家、持田氏に伝わる伝承によってこの疑問が解けた。
持田氏の伝承によると、祖先の櫂子(かじし)が崇神天皇の時代、建埴安彦(たけはにやすひこ)を討って功あり、天皇より天磐笛(あめいわふね)を与えられ笛吹連(ふえふきのむらじ)の名を賜ったとする。そして瓊瓊杵尊を奉祭すれば国家は安泰とならんとする。
崇神の初めの頃大和朝廷は建埴安彦の乱が起きるなど必ずしも安定した王権ではなかった。そこで崇神は、尾張氏に共に共通の祖先神につながる祭神を持ち出して、より強固な忠誠を求めたのであろう。このことから條の集落にある、笛吹神社も祭神は瓊瓊杵尊であるが、尾張氏の祭る神社である事を理解した。

秋津遺跡と同時代の日本武尊の墓

秋津遺跡の東1q、国見山の尾根が西に延びる、その尾根の背に琴引原白鳥陵(ことひきはらしらとりりょう)と称される古墳が在る。
日本武尊の墓とされる。遺跡地図では古墳とは記さないが、墳丘の周りを掘り、墳丘に土を盛り上げた古墳である。ただし遺骸はなかろう。もしこれが本当に日本武尊の墓なら、その築造は四世紀前半の中頃と推測される。
秋津遺跡に住居群が濃密に存在していた時代である。日本武尊の妃は宮簀媛(みやずひめ)である。父親は尾張氏の乎止与(おとよ)である。この人が、四世紀の初め愛知県に移り、土地の豪族、尾張大印岐(おわりおおいきみ)の娘、真敷刀俾(ましきとべ)を娶って生んだのが宮簀媛である。したがって、尾張氏と日本武尊は浅からぬ縁にある。それがこの地に日本武尊の墓が造られたとする理由であろう。
また秋津遺跡に住んでいた人達がこの墓造りに関わった可能性は十分ある。
秋津遺跡を発掘調査する橿考研の研究者は、しばしば秋津遺跡と宮山古墳との関連を口にするが、関連を究明されなければならないのは、孝安が葬られたとする玉手山の古墳と、この琴引原白鳥陵である。

しかしこの葛城に居た尾張氏は成務朝に仕えたとする大縫や小縫という人物を最後に、王権の中枢から姿を消す。尾張氏系譜でも『勘注系図』でも、愛知県に移った乎止与に続く系譜は伝えるが葛城の尾張氏の系譜を持たない。私は秋津遺跡が四世紀中頃で終わる事と関係があるんではないかと考える。



武内宿禰に始まる葛城氏

 替わってこの地に台頭するのは、武内宿禰が葛城直、荒田彦宿禰(あらたひこすくね)の娘、葛媛(かつらひめ)を娶って葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を生むあたりからである。
武内宿禰は一四代仲哀亡き後、神功と応神を担いで、神功応神朝を支える。積極的な朝鮮半島への出兵を繰り返し、巨大軍事国家へと成長する。この神功、応神朝を支えた武内宿禰につながる一族は、五世紀初頭、全長238mの宮山古墳を築く強大な豪族へと成長する。宮山古墳は、葛城襲津彦が、その父武内宿禰と自分の為に築造した古墳である。その場所は、ここも室と称される、秋津遺跡に近い南西500mの所である。
秋津遺跡を発掘調査する橿考研の研究員は秋津遺跡と宮山古墳との関係を口にするが、宮山古墳が造られた時代には、秋津遺跡の建物群は存在しない。
私はこの武内宿禰に始まる葛城氏との関係では、秋津遺跡の性格はけっして解明できないと考える。

巨大古墳を築造するに至った、武内宿禰に始まる葛城氏も460年頃、葛城円(かつらぎのつぶら)が、雄略に攻められ滅びるのである。
葛城山麓の高台に位置する、極楽寺ヒビキ遺跡で見つかった大型掘立柱建物は火災に見舞われた形跡がある。雄略に攻められ滅んだとされる、葛城円の屋敷跡ではないかと推測する。

出雲王権につながる鴨一族

 これまで、葛城氏と尾張氏の関係を中心に葛城の歴史を概観した。も一つこの地方と深く関わる氏族がある。
大国主の子とされる、事代主(ことしろぬし)や味耜高彦根神(あじすきたかひこね)を奉祭する一族である。
御所市にはこれらを祭神とする神社がある。高鴨神社(たかがもじんじゃ)、御歳神社(みとしじんじゃ)、鴨都波神社(かもつばじんじゃ)そして大倉姫神社である。
高鴨神社は大国主の子供の一人味耜高彦根を祭る。また御歳神社は須佐之男命(すさのおおみこと)の孫ともされる御歳神(みとしのかみ)と、積羽八重事代主の妹、高照姫(たかてるひめ)を祭る。
そして鴨都波神社は大国主の子、積羽八重事代主(つみはやえことしろぬし)。大倉姫神社は味耜高彦根の妹、下照姫(したてるひめ)を祭る。
これらはすべて須佐之男に始まる出雲王権につながる。神武が大和盆地を平定して大和朝廷を樹立する以前、ここは出雲王権の支配下にあったことを伺わせる。
神武が大和朝廷を樹立すると、事代主の子とされる媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后として、それまでの支配者の権威を取り込むのである。

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秋津遺跡から弥生中期(今から2300年前)の水田跡地が出土している。現在知られている限り我が国、最大規模の水田跡地である。このあたりは早くから人の集住があった事が伺われる。この地に出雲王権につながる神社が数多く祭られることが、大和朝廷成立以前の歴史を垣間見せるのである。
高鴨神社と御歳神社の創建については明らかではないが、鴨都波神社については次のような伝承がある。
十一代垂仁の時代、この一族の大鴨積が鴨都波神社を祭る。弟の大友主が三輪神社の祭主となり、後の大神氏(おおみわし)または三輪氏と称される氏族になったとされる。

鴨一族の墓か?

鴨都波神社の近く、鴨都波遺跡から四世紀中頃の方墳が出土している。鴨都波1号墳と称される古墳である。
現地説明会資料には次のように記される。

『一辺20mほどの方墳にもかかわらず、豊富な副葬品を有す。この程度の規模の前期古墳で、棺の内外合わせて4面もの三角縁神獣鏡を副葬する例はほかには見当ない。一方で本墳の三角縁神獣鏡には特殊な意匠を持つものが多く、大形碧玉製紡錘車形石製品と呼んだものも他に例をみない。棺構造も異例に属し、こうした特殊性と鏡の特徴的な配列は、弥生時代以来、鴨都波遺跡周辺を中心とする南葛城に本拠を置いた、伝統勢力の性格の一端を示すものとみられる。』

私はこの古墳の被葬者を大鴨積またはその一族ではないかと推測する。


ここに挙げた系譜伝承の出典は次のようなものである。
葛城氏は中田憲信著、『各家系譜』難波田使首及び中島家家系。
尾張氏は『先代旧事本紀』尾張氏系譜。海部氏『勘注系図』。
大神氏は『先代旧事本紀』地祇本紀。
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2015年11月22日

御所市は大和朝廷発生の地

 御所市は初期大和朝廷の王都の地である。
二代綏靖(すいぜい)の葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)、五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)、六代孝安の室秋津島宮(むろあきつしまのみや)は何れも現在の御所市内である。
また橿原市あたりまで範囲を広げれば三代安寧(あんねい)の片塩浮穴宮(かたしおうきあなのみや)、四代懿徳(いとく)の軽曲峡宮(かるまがりおのみや)なども近くである。奈良盆地南部は初期大和朝廷の発生の地で王都なのである。
以降七代孝霊や九代開化あたりから宮は奈良盆地の北部へ移るが、初期の大和朝廷の宮は奈良盆地の南部に営まれたのである。

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私は初代神武の橿原宮(かしはらのみや)も現在の御所市の内に在ったと考える。現在橿原市の橿原神宮あたりを橿原宮の跡地とするが、ここは明治になってから、このあたりが橿原宮の跡地であろうとして定めたものである。その根拠となったのは『日本書紀』が伝える「畝傍山の東南の橿原の地」という記述である。
しかし私は初代神武の橿原宮はこの畝傍山の麓ではないと考える。

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江戸時代本居宣長が畝傍山(うねびやま)近辺に橿原宮の跡地を尋ねた。だが畝傍山近辺に「かしはら」という場所は無く、西南一里ばかりのところに「かしはら」という処のある事を聞いたととする。そのことを『菅笠日記』に記す。西南一里の「かしはら」とは現在の御所市柏原のことである。
現在の橿原市という地名は昭和31年、近隣市町村が合併し名付けられた名前である。江戸時代に畝傍山近辺に「かしはら」という地名は存在しなかった。1736年に成立した『大和志』では、御所市の柏原を橿原宮伝承地とする。
私が『大和志』などが伝える御所市の柏原を橿原宮の場所とするその根拠は次のようなものである。

神武は即位後、掖上のホホマの丘で国見をする。ホホマの丘が何処か確定は出来ないが、掖上とするわけであるから御所市の内である。その伝承地として御所市の国見山、あるいは御所市本馬町の本間の丘ともされる。この本間の丘南麓には、創建の経緯は不明であるが神武を祭神とする神武天皇社が祭られる。また神武が日向で娶ったとされる吾平津姫(あいらつひめ)が住んだという伝承の場所に、ホンダワラ社又はホホマ神社という祠があり、吾平津姫を祭神とする。更に吾平津姫は本間の丘に葬られたとされる。このあたり神武とかかわる伝承を多く持つ。

もし橿原宮が畝傍山の山麓ならわざわざ掖上まで出向く必要などまったくない。畝傍山は奈良盆地の平野部に位置する独立峰である。ここに登れば360度を見渡せる。国見をするには最高の場所である。宮が畝傍山の麓なら国見は畝傍山に登れば良い。掖上まで出向く必要などさらさらない。
私は神武の橿原宮は畝傍山の山麓ではなく御所市に在ったと考える。
『日本書紀』の『畝傍山の東南、橿原の地』という表現は、必ずしも畝傍山の山麓とは限らない。良く知られている畝傍山という場所を起点として橿原の場所を示したにすぎないのではなかろうか。
だが御所市の柏原を橿原宮跡とするには一つの難点もある。現在の御所市柏原は畝傍山の南東ではなく南西である。『日本書紀』の方位の記述に誤りがあるとでもする必要が有る。
しかし私は神武が国見をしたという山の場所から、御所市柏原が橿原宮の在った場所と考える。御所市は大和朝廷発生の地なのである。

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2017年03月13日

秋津遺跡の消滅と尾張氏の衰退

秋津遺跡から古墳時代前期とする特異な遺構が出土した。この遺構は四世紀の後半で終わる。私は秋津遺跡の消滅とこの地域の尾張氏の動静が不明になることと深いかかわりがあると考えている。そこでこの地域の歴史を系譜伝承から探る。
秋津遺跡のある御所市は、古代において葛城上郡(かつらぎのかみのこおり)と称される地域である。
この葛城上郡の歴史を考える上で理解しておかなければならないことがある。

葛城国造という葛城氏と、武内宿禰の子、葛城襲津彦に始まる葛城氏は、異なる葛城氏である。後者が葛城氏と称されたかどうかも定かではない。
葛城国造の葛城氏は神武が大和朝廷を樹立した時、この地域の国造に任じられた氏族で二世紀初頭に始まる。
四世紀の後半になってこの地域で武内宿禰やその子供、葛城襲津彦の葛城氏が台頭する。五世紀初頭に宮山古墳を築いた豪族である。
葛城襲津彦は、その父親竹内宿禰が、葛城国造の女、葛姫を娶り生んだ子とされる。したがってこの葛城国造と無関係ではないが異なる葛城氏である。
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武内宿禰や葛城襲津彦がこの地の有力豪族となる前は、尾張氏がこの地の有力豪族であった。尾張氏の歴代の男子が葛城国造の女性を娶る。葛城国造と尾張氏は深い縁戚関係にある。
したがって四世紀中ごろまでは、この地域は葛城国造家と尾張氏の支配地域である。ところうが四世紀の中ごろを境にして、この地域の尾張氏の動静が系譜の上でたどれなくなる。これは四世紀の後半秋津遺跡が消滅することと深くかかわると考える。

尾張氏の系譜には次のような系譜の断絶がある。『先代旧事本紀』の尾張氏系譜でも、海部氏の『勘注系図』でも四世紀中ごろの十世孫を境に、葛木高尾張を本拠地とする尾張氏の系譜が途絶えてしまう。それ以降の系譜は、現在の愛知県に移った尾張氏の系譜となる。本家とも云うべき葛城に居た尾張氏の系譜が消えてしまうのである。
十世孫とされる人物たちは、おおよそ十三代成務朝時代の人である。この時代まで尾張氏と成務との関係が確認できる。ところうが十一世孫乎止与命という人物から、系譜は愛知県に移った尾張氏の系譜となる。
十世孫と十一世孫の間に系譜の断絶がある。ここを境に尾張氏の本家とも云うべき葛城高尾張に居た尾張氏の系譜が不明になるのである。私はこの系譜の断絶と秋津遺跡の終りとの間に深い関係があると推測する。


一四代仲哀亡き後武内宿禰は、仲哀の皇后神功と応神を担いで神功、応神朝を主導する。
この神功応神朝の樹立を境に、大和朝廷の権力構造は大きく変わるのである。
それまで大和朝廷の中枢であった尾張氏は、この神功応神朝を境に没落したと推測する。神功応神朝の成立とともにこの地域の尾張氏は滅び、替わって武内宿禰がこの地域の支配者として台頭したと考える。そして五世紀初頭には宮山古墳という全長230mの前方後円墳をこの地に出現させるのである。

宮山古墳を築いた氏族と秋津遺跡の住民とは関係のない氏族なのである。秋津遺跡は尾張氏と関わる遺構である。したがって武内宿禰や葛城襲津彦に始まる葛城氏との関係では秋津遺跡を理解することは出来ない。



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