2013年06月03日

国宝「最奧之秘記」に何が書かれているのか

 国宝に指定される「最奧の秘記」がある。
天橋立で有名な丹後半島の付け根、籠(この)神社の宮司家、海部(あまべ)氏に伝わる『勘注系図』という系図である。

系図の末尾に「今ここに相傳(あいつたえ)以て最奥之秘記と為す。永世相承(あいうけたまわって)不可許他見(たけんゆるすべからず)」とする。また「海神の胎内に安鎭(やすめしずめ)もって極秘」ともする。

江戸時代、天下の副将軍と称された水戸光圀(みとみつくに)が、『大日本史』を編纂するにあたり、この系図を見たいと申し入れた。だが海部氏は断ったという。それほどまでにして秘匿しなければならなかったこの系図に何が書かれているのかである。
そこに日本古代史最大の謎、卑弥呼や邪馬台国の謎を解く鍵が潜んでいた。

もう一つ同じ系譜を伝える系図が海部氏に伝わる。『本系図』と称される系図である。こちらは朝廷の提出命令に応じて作成された系図の副本あるいは控えである。こちらも国宝となり現物の古さでは『勘注系図』より古い。だが、その内容は当主の名前を書き連ねるだけの簡略な物である。
しかも系譜の一部を大きく欠落させる。その部分が不明であった訳ではない。意図的に隠しているのである。その意図的に隠した部分に『勘注系図』を最奧の秘記とする理由があることは想像に難くない。だがそれが何なのか私にも今一つ解りかねていた。ようやくその疑問が解けた。

二人の大倭姫


 隠さねばならなかったのは二人の「大倭姫」という名である。
大倭姫という名は、丹波の女性の名ではない。『勘注系図』の作者はこの二人が、大和朝廷の最高権力者の名であることを熟知していたのである。
大倭(おおやまと)とは、古い時代の天皇名に冠される名前であり、この二人の女性は天皇と同格の権威の持ち主である。いわば大和朝廷の女王の名であり、中国史書が倭国の女王とする名前なのである。これこそ『魏志倭人伝』が伝える、卑弥呼と台与である。

また最初の大倭姫である宇那比姫(うなびひめ)の亦の名を、天造日女命(あまつくるひめみこと)とする。これは古い時代の天下人を意味する。『勘注系図』の作者がその意味をを知らないはずはない。
これは『記紀』が伝える、大和朝廷の最高権力者の系譜と若干異なるのである。そのことが危険であり『勘注系図』を隠さなければならなかった理由である。

『記紀』には見られない記述

系図とされる物の多くが一般的に人物同士を線で結び系譜上の関係を示す。『勘注系図』もまた同じである。
ところうが最初の大倭姫という名を持つ宇那比姫について、『勘注系図』は例外的な書き方をする。六世孫とするが、系図の中でどのように繋がるのか記さないのである。単独でその名を記すのみである。
宇那比姫は丹波の人ではない。だが丹波の一族に繋がる重要な人物であるから、系譜の端にその名前が記されるのである。『勘注系図』の作者はそのことを熟知の上で丹波の系譜にこの名前を記したのである。

 中国史書は三世紀代の倭国に、二人の女王が存在していた事を伝える。ところうが『記紀』伝承では、初期の大和朝廷最高権力者は何れも男子である。女性が最高権力者に就いたとは記さない。
これまで、その点が、中国史書と『記紀』伝承を結びつける上で最大の難関であった。
だがここに『勘注系図』に二人の女王の名前を見るのである。
日女命(ひめみこと)という卑弥呼と、天豊姫(あまとよひめ)という台与である。男子一系とする皇統譜とは異なる伝承である。このことが危険であり最奧之秘記として命がけで隠さねばならなかった理由である。

「最奧之秘記」とする理由

 ところうがしばらくすると、何が危険であるか解らなくなるのである。
『勘注系図』の末尾に系譜成立の経緯を詳しく記す。序とするから本来は系図の最初に添付されていた物であろう。そしてそれは系譜が完成してから後に書き加えた物である事が記される。
そこに次のような記述がある。
「この系図(本系図)は養老本記によるところうといえども、新たに数代の歴名を録し、神代並びに上祖の歴名を載せない。本記の體をなさずなり」
この序が作成された時点で、なぜ『本系図』が古い時代の系譜を削除したのか理由が解らなくなっている。
ましてや現代の私が、その理由を理解することは容易では無かった。だがここにようやくその理由を明確に知る事ができたのである。
歴代の人物を削除することなく詳細を記した『勘注系図』は『記紀』が伝える、男子一系の皇統譜とは異なる、二人の女性の最高権力者の存在を記すことであった。そしてそれは中国史書の記述に符合するのである。
それは男子一系を正史とする、時の権力が許すはずの無い危険な記述なのである。朝廷に提出した『本系図』ではその部分を削除して提出したのである。

『勘注系図』の詳しい内容はこちら

http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/index.html

2013年06月12日

『勘注系図』は何を隠さねばならなかったのか

『古事記』によれば、開化の妃とされる竹野姫の父親を、丹波の大縣主由碁理とする。
一方『勘注系図』は、建諸隅命の亦の名を由碁理とする。『勘注系図』の初めの部分は、丹波の支配者の系譜であり、『勘注系図』に、丹波の大縣主由碁理が登場する事は当然の事である。
またその娘の名を竹野姫として、建諸隅命は開化に「仕え奉る」とする。加えて竹野姫の屯倉を置いたとする。屯倉とは天皇家の直轄領地である。この女性は『記紀』が開化の妃とする竹野姫で間違いはない。また『勘注系図』はこの女性の名を大倭姫命、天豊姫命とする。天豊姫命こそ卑弥呼の後に、年十三歳で王位に就いた台与である。すなわち開化の妃、竹野姫=大倭姫命=天豊姫命=台与=邪馬台国の女王なのである。『勘注系図』の作者はその事を100%熟知している。
 
 しかし『記紀』は竹野姫を開化の妃とする。単に妃であれば、倭王権の最高権力者ではない。竹野姫を中国史書が伝える倭の女王という最高権力者とするには問題がある。この女性を『魏志倭人伝』が伝える台与とする、私の主張も危うくなる。
問題は竹野姫、亦の名天豊姫が、台与であるか否かである。この難問を解く鍵がやはり中国史書にある。

266年、台与と一緒に中国の爵位を受けた男王

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』と、801年成立の『通典(つうてん)』の次の記事である。
『梁書』は「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
『通典』は「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」とする。

台与が王位に擁立された後、再び男王が立ち、並んで中国の爵位を受けたとするのである。
266年西晋に朝貢した朝貢の主体は女王である。この女王は台与であろう。そのとき女王と共に中国の爵位を受けた男王がある。この男王こそ開化なのである。
歳十三歳で倭の女王として擁立された台与は後に、開化と夫婦になり、開化も男王として帝位に就く。しかし遣使の主体が女王である以上この時点での倭国の最高権力者は、天豊姫すなわち、『記紀』が開化の妃としか記さない竹野姫なのである。

二人の女性の最高権力者の存在を知っていた

 中国史書は三世紀代に、卑弥呼と台与という二人の女王が在ったとする。だが『記紀』は、相当する時代には、男子の天皇を記すのみで、女性天皇を記さない。
一方『勘注系図』の作者は、中国史書と同様に、二人の女性の最高権力者が在ることを知っていたのである。
宇那比姫の亦の名とする、大倭姫という名はもちろん、天造日女命が、天下人の名であることは、『勘注系図』の作者は十分承知しているのである。
これは、後の大和朝廷が、男子一系を正当な皇統譜とする主張と異なる主張である。
この事が危険であり、命がけで隠さねば成らなかったのである。
ところうがしばらくすると、系譜の何が危険なのか解らなくなってしまう。
従って『本系図』がなぜ途中を記さないか、その意味を理解できなくなっている。ましてや現代の私が、それを解明することは困難を極めた。ようやく私はその意味を完全に理解し