2015年12月25日

卑弥呼の王宮を守れ

大変なことになっている。橿考研は秋津遺跡の重要性に気付いていない。卑弥呼の王宮の一部が出土しているにもかかわらずそのことを理解していない。
秋津遺跡は縄文末、弥生中期、古墳時代前期と続く重層する遺跡である。橿考研は古墳時代前期とする遺構の年代を、三世紀中ごろから四世紀中ごろとする。もちろん、その年代の竪穴住居も多数存在する。だが方形区画施設やその中に存在した高床式建物の年代は、卑弥呼の時代の物である。二世紀末から三世紀中ごろに存在したのである。
そのことは、炭素年代測定値が示す。方形区画施設の内部は清浄に保たれ、内部から直接その年代を推定する遺物は見つかっていない。だが炭素年代測定値の示す、その内部の高床式建物の年代は、古墳時代前期に収まるようなものではない。また方形区画区施設の内部の高床式建物を、布留時代の竪穴住居が切り崩す。その高床式建物を取り囲んでいた塀は三回にわたって建て替えられている。最初の塀の年代は布留式時代をはるかにさかのぼる。更に二世紀代から三世紀前半の遺物とされる、多孔銅鏃も出土している。

ここは秋津嶋宮の伝承地である。六代孝安の秋津嶋宮の一部が出土しているのである。すべての遺構が保存できるわけではない。単に歴代天皇の宮が出土したというだけなら、調査の上自動車道の橋脚の下に消滅したとしてもやむを得ない。だが卑弥呼の王宮であれば話は別である。何としてでも保存されなければならない。すでに橋脚の下に消滅した部分は、もはやいかんともしがたい。だが遺構は更に東西方向に広がる可能性がある。その部分だけでも残すべきである。

私はこの近辺の発掘調査が開始される前に、この秋津嶋宮の出土を予見した。だが発掘調査によって大型建物群が出土したとしても、一豪族居館跡として片づけられることを危惧した。それを秋津嶋宮との関連で考える人など無かろうと思った。ましてや卑弥呼の王宮などと言い出す者は無い。そこで、ここが卑弥呼の王宮であることを理解してもらう為には、玉手山に卑弥呼の墓が在る事を立証することが一番と考えた。
稚拙な発掘が遺跡破壊に成りかねないことは承知の上で、発掘を敢行した。2008年の頃である。当初簡単に立証できると思った。あれからすでに8年が経つ。古墳であることは立証できたが、いまだに、ここが日本最大の円墳である事を、立証できていない。古墳と確定して以来、一切の発掘行為は出来ないがこれまで、藪を刈りはらうなどして地形の観察を繰り返してきた。ようやく一部盛り土の裾を確認するに至った。尾根全体を墓域とする、巨大古墳であることが解ってきた。

年の瀬に至り、この一文をしたためる。2008年当時危惧したことが現実のものとなっている。この遺構の重要性を認識できていない。私はこの遺構の重要性を世間に訴えるために、来年には何としてでも、この玉手山の古墳が卑弥呼の墓であることを立証しようと思う。そのための新しい試みを企画している。
そのことが、秋津遺跡の重要性に気づいてもらうための、私のできる方法であると思うからである。
posted by 曲学の徒 at 13:11 | Comment(4) | TrackBack(0) | 卑弥呼の王宮を守れ