2016年10月25日

稲部遺跡に見る鉄器流入ルート

10月22日滋賀県彦根市稲部(いなべ)遺跡現地説明会に行ってきた。
二世紀から四世紀代の遺跡とされる。
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注目されるのは三世紀前半の鍛冶工房群建物が出土していることである。
『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国時代の鍛冶工房である。鉄を加工した際に出来た鉄屑などが6s出土したとされる。大規模な鉄器加工の拠点である。
邪馬台国時代の鉄流通経路の一端が見えてくる。
鉄素材は朝鮮半島から丹後へ、そして若狭の小浜を経由し、琵琶湖西岸の今津に至る。ここから船で琵琶湖東岸の稲部に運ばれたのである。ここで加工され、畿内あるいは東海地方へもたらされた可能性が推測できる。

近江と関係の深い物部氏

大和朝廷の有力豪族物部氏は、近江と深い関係がある。滋賀県野洲あたりの豪族三上氏と複数世代にわたり婚姻関係にある。

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この三上氏と稲部遺跡との関係は定かではないが、三上氏の奉斎する三上山は稲部遺跡の25q位南である。琵琶湖東岸の地帯は鉄素材流入と加工に深くかかわる地域である。
また稲部遺跡から、溶けた銅を流し込む湯口に固まった銅片が出土している。銅製品の加工も行われている。三上氏の拠点である野州市大岩山は24個の銅鐸が出土したことで知られている。おそらくこの銅鐸もこの地域で制作された物であろう。この地域では古くから金属加工が行われていたのである。
物部氏が、琵琶湖東岸の鍛冶工房から鉄器を入手するのは容易なことである。むしろ私は物部氏が鉄器の入手を通じて、三上氏と強く結びついていると考える。

丹波から近江への鉄の道

もう一つ三上氏と関わる氏族がある。私が卑弥呼や台与の出身氏族とする尾張氏である。
『勘注系図』は尾張氏の彦火明命三世孫倭宿禰の、またの名を天御蔭命とする。天御蔭命は三上氏が奉斎する御上神社の祭神でもある。
倭宿禰は天村雲命が丹波に居た時娶った伊加里姫命との間に生まれた子供である。天御蔭命によって、丹波とこの琵琶湖東岸の地がつながるのである。
更に尾張氏の八世孫倭得玉命は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)を妻とする。谷上刀婢が三上氏の女性であるかは定かではないが、尾張氏は淡海国(近江)ともつながる。倭得玉は台与の兄妹で三世紀後半の人である。

丹波支配に当たった尾張氏

尾張氏は卑弥呼の兄、建田勢命が丹波支配に当たる。次いでその子供建諸隅命が丹波大縣主として丹波を支配する。丹波は大和朝廷にとって大陸との交易の重要拠点なのである。その事を物語る遺跡がある。
建田勢命が府を置いたとする場所は、京丹後市久美浜町海士(くみはまちょうあまべ)である。久美浜湾のほとりである。その久美浜湾の日本海側に函石浜遺跡がある。そこからは中国からもたらされた刀銭や貨泉など、古い時代の遺物が出土している。大陸と直接交易の在ったことを伺わせる。
丹後は大和朝廷にとって大陸との交易の窓口なのである。丹後にもたらされた鉄素材は若狭を経由して琵琶湖東岸に運ばれたのである。

邪馬台国は容易に鉄器を入手できた

邪馬台国九州説を唱える安本美典氏は、弥生の時代北部九州から鉄器が大量に出土すが、奈良県からは鉄器がほとんど出土しない。このことを根拠に邪馬台国畿内説を否定する。
だが大和朝廷の有力豪族である物部氏は、三上氏と結びつくことによって鉄器を容易に入手する立場にある。また尾張氏は鉄素材入手の拠点である丹波を支配している。
奈良県の弥生末遺跡から鉄器が、出土しない理由は不明であるが、卑弥呼時代ににおいて、大和朝廷は間違いなく鉄器を入手している。
安本氏の立論は稲部遺跡から出土した鉄屑によってもろくも崩れるのである。

倭国大乱は鉄入手ルートをめぐる戦いなどではない

もう一つバカバカしい仮説がある。倭国大乱を鉄入手ルートをめぐる近畿以西の国と、北部九州の国との戦いであるとする仮説である。
この説は鉄入手ルートとして瀬戸内海を想定する。だが邪馬台国すなわち大和朝廷の鉄入手窓口は丹波である。丹波は早くから大和朝廷の勢力圏にあり、瀬戸内海の政治状況が変化しても、入手ルートが途絶える危機に遭遇することなど無い。
『後漢書倭伝』は「桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主」として「歴年無主」とする。主の無い国同士の戦いなど想像できない。
倭国大乱とは、王位が空白となった為に起きた、大和朝廷内の王位をめぐる内紛である。
posted by 曲学の徒 at 11:33 | Comment(1) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷

2016年12月08日

丹波は大和朝廷の鉄資源入手窓口

今日大和朝廷成立に至る仮説として、多くの識者から支持を集める白石太一郎氏の仮説がある。だが私は、まったくありえない仮説として、この説に反論する。

下記に記したのが白石太一郎氏の著書「古墳の語る古代史」の一節である。

「古墳出現の前提となる広域の政治連合の形成は、朝鮮半島南部の弁辰(伽耶地域)の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートの支配権をめぐる争いと関係している。すなわち、このルートを一手に掌握していた奴(な)国、伊都(いと)国など玄界灘沿岸地域と争うために、これらの国よりさらに東方の豊前、吉備、讃岐、畿内などの瀬戸内海沿岸各地のが同盟関係を結んだ。畿内・瀬戸内連合による玄海灘地域の制圧の結果成立したのが、邪馬台国を中心にする、いわゆる邪馬台国連合にほかならない。」

私の反論である。


第一点は大和朝廷の政治的支配は、大和朝廷成立の当初から九州の一部に及んでいたことである。それは倭国大乱より前である。

第二点は畿内大和朝廷の鉄資源入手ルートは、瀬戸内海経由ではない。入手の窓口は丹波である。

鉄資源入手の経由ルートは朝鮮半島から対馬、壱岐を経由し北九州に至る。そして山陰の日本海側を経由して丹波に至るのである。北部九州を経由したことは間違いないが、北部九州の一部は大和朝廷成立の当初からすでに、大和朝廷の政治的影響下にある。

『先代旧事本紀』の国造本紀は、神武の時代対馬に建彌己己命(たけみここのみこと)を津島県直(つしまあがたのあたえ)として任命する。
大和朝廷成立直後に対馬に県主(あがたぬし)が置かれるのである。半島へのルート確保の意図がうかがえる。神武時代の任命として国造本紀に登場するのは、九州では対馬と宇佐のみである。ただし対馬は国造ではなく県主である。国造本紀の中で県主が登場するのはここ対馬のみである。
対馬市厳原(いずはら)町には建彌己己命を祀る銀山上(ぎんざんじょう)神社がある。

また『魏志倭人伝』は伊都国に一大卒を置き、周辺諸国を検察していたとする。諸国はこれを畏れ、それは刺史の如くであったとする。刺史とは中国王朝が派遣する監察官である。魏の時代には郡太守に勝る権限を持ったとされる。
また「世有王、皆統屬女王國」とする。皆とする訳であるから、伊都国の王は代々女王国に統屬していたのである。
「統屬」という言葉は、支配と被支配の関係である。連合などという対等の関係などではない。この記述は二四〇年の見聞に基づくものであろうから、それ以前から伊都国王は何代にも渡って、邪馬台国すなわち後の大和朝廷に統屬しているのである。大和朝廷の政治的影響は北部九州に及んでいるのである。

大和朝廷の鉄資源入手の窓口

大和朝廷鉄資源入手の窓口は丹波である。丹波は早くから大陸と交易を行っている。丹後半島の西側に久美浜湾が広がる。久美浜湾は自然の良い港となる場所である。ここ久美浜湾の日本海側に函石浜遺跡という、縄文から室町時代まで断続的に続く遺跡がある。この遺跡からは貨泉や銅鏃、鉄鏃などの大陸からの輸入品が採取されている。中でも貨泉は紀元八〜二三の新王朝時代の物であり、ここは古くからの港湾機能を有した遺跡と考えられている。
一方興味深いのは『日本書紀』の垂仁紀に田道間守(たじまもり)が香果(かぐのみ)を求めて常世(とこ)の国へ出かけた事を記す。函石浜のある地元では、田道間守が帰国にあたってこの函石浜の港に上陸したという伝承を残す。もしこの伝承が史実を伝えるものであれば、ここは大和朝廷にとって大陸への窓口なのである。

それではなぜこの丹波が、大陸との交易の窓口となったのかである。
私は二つの理由があると考える。
一つは、貨泉という一世紀代の大陸系遺物に見るように、この地の人たちは早くから大陸に至る航海技術を有していたことである。
二つ目は、丹波は交易の対価となる水晶加工品の産地であったことによる。鉄資源入手には、何らかの交換の品物が必要である。大陸の人が欲しがる日本列島産の産物は、そう多くはなかろう。数少ない交易品の一つとして水晶の小玉が用いられた。衣服に縫い付けて飾りとしたとされる。弥生中期の峰山町奈具岡(なぐおか)遺跡には水晶を加工した玉造工房と、鉄器を加工した遺構や鉄器が出土している。丹波では鉄素材入手のための、交易品となる水晶加工製品の生産が行われていたのである。また入手した鉄素材の加工も行われていた。


大和朝廷はこの丹波を直接支配している

私が卑弥呼とする宇那比姫命の兄、建田勢命が丹波支配に赴いている。そのことを記す系図がある。『勘注系図』である。『勘注系図』は次のように記す。

「大日本根子彦太瓊【おおやまとねこひこふとに・孝霊】天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國」

建田勢命が孝霊の時代丹波の宰(みこともち)と為って丹波に赴いたとする。
建田勢命は宇那比姫命すなわち卑弥呼の兄である。王権の最有力者が何のために、丹波支配を行ったかである。それは丹波が大陸への窓口であり、鉄資源などを入手する重要な拠点であったからである。
更に建田勢命の子供建諸隅命(たけもろずみ)も丹波支配に当たる。建諸隅命は亦の名を由碁理(ゆごり)と称す。『古事記』開化天皇条に、「この天皇、旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」とある。由碁理は竹野媛の父親で、竹野媛のまたの名を天豊姫と言い『魏志倭人伝』の台与である。卑弥呼の後に女王になった台与の父親は建諸隅命で、この人物が丹波大縣主として丹波支配に当たっている。建田勢命、建諸隅命という王権の中枢の人物が直接丹波を支配したのである。それは大和朝廷にとって、丹波は鉄資源入手のため大陸につながる重要な拠点なのである。

建田勢命が館を構えたとする伝承地がある。

私は2005年頃、初めて丹波を訪れた。その時たまたま出会った地元の方に、建田勢命の館跡を訪ねると、親切に現地近くへ案内してくださった。そのときは館跡とされる場所を見下ろす林道上に案内された。林道から見下ろす崖下あたりが伝承地と教えられた。しかし竹やぶや獣除けフェンスに阻まれ現地に降りることは出来なかった。
2015年9月再度ここを訪れた。今回は林道の下側からアプローチした。山塊から流れ出た小さな谷がやや開けた扇状地を形成する。その山際の竹藪の中に土段状の場所を見た。一見すると方形墓のようにも見えるが山側はそのまま山の斜面へと続くので方形墓ではない。
ここが建田勢命の館跡であろうと推測した。
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現地を訪れる前はなぜこんな場所にという疑念があった。現地を見て疑念は晴れた。ここは小さな谷が東から流れ出るやや開けた場所である。その北側斜面を背にした南向きの場所である。このあたりでは数少ない南向きの立地となる。しかも前を小さな小川が流れ、水の便が良い。しかも古い時代には、久美浜湾に注ぐ川上谷川の河口が、この近くまで及んでいたとされる。このあたりは波静かな湾の最深部で、船の出入りには都合の良い場所である。
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丹波支配の拠点は建諸隅命の時代になると現在の京丹後市竹野町に移る。ここもまた、かっては竹野川河口に広がる入り江か潟湖が有ったとされる。

建田勢命の館跡とされる場所から300mほど南の矢田神社は、建田勢命とその子供建諸隅命を祀る。
神社伝承によれば、垂仁の時代川上麻須が創建したとされる。『勘注系図』によれば川上麻須は建諸隅命の子ともされる。
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posted by 曲学の徒 at 14:38 | Comment(1) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷

2016年12月19日

椿井大塚古墳の被葬者は彦由牟隅

写真は木津川市の椿井大塚古墳後円部から前方部を撮ったものである。前方後円墳の断面を見られる特異な古墳である。奈良線が後円部の半分を切り裂く。
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私はこの古墳の被葬者は彦由産隅(ひこゆむすみ・比古由牟須美命)であると考える。
彦由産隅は竹野媛と開化の子供とされる。彦由産隅の子供が大筒木垂根である。
大筒木垂根は現在の京都府京田辺あたりの人で、京田辺市普賢寺御所内にある王居谷古墳が、大筒木垂根の墓とされる。
椿井大塚古墳は木津川を挟んで、王居谷古墳の対岸南東6Kmくらいの所にある。椿井大塚古墳は大筒木垂根がその父、彦由産隅の墓として築いたと私は考える。

椿井大塚古墳から、三角縁神獣鏡32面をはじめ、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。
古墳時代の前期初頭で、これだけの鏡を副葬する人物は王権の相当高位の人物である。彦由産隅は私が台与とする、天豊姫と開化の子供である。この人物であればこれだけの鏡を副葬されたとして不思議はない。
出土した鏡は36面だけではなさそうである。出土は奈良線の拡張工事によるもので偶然の発見である。出土時に持ち去られた鏡が返却されたとされるが、すべて返却されていない可能性がある。

現在三面の青龍三年銘方格規矩四神鏡が知られている。中国の有名な考古学者王仲殊氏は、この鏡は卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百面の一つであるとする。
私は鏡の事はまったく解らないが、たぶんそれで間違いないと思う。
三面の青龍三年銘鏡の内一面は、京都府京丹後市太田南5号墳出土である。二つ目は大阪府高槻市安満宮山古墳である。
三つ目は出土地不明で個人蔵である。私はこの出土地不明の一面は、椿井大塚古墳からの出土と推測する。

なぜなら椿井大塚古墳の被葬者、彦由産隅は由碁理の孫である。魏に使いした都市牛利、すなわち由碁理たちが持ち帰った、鏡の一部を持つているはずと考えるからである。

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この鏡は個人蔵である。持ち主は出土地について、ご存知なのではないかと思う。盗品であれば、その入手した事情を話すわけにはいかない。だがもし私の推測、椿井大塚古墳出土が当たっていれば、明らかにしてほしいものである。
卑弥呼が受け取ったとされる銅鏡がどの鏡であるか明らかになるからである。わたしはこの三面の鏡は間違いなく、丹波の大縣主由碁理すなわち、239年卑弥呼の使いとして魏に赴いた、牛利につながっていると考えるからである。
posted by 曲学の徒 at 16:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷