2009年08月07日

径百余歩の円墳か?

径百余歩の尾根
 『魏志倭人伝』は卑弥呼の墓を径百余歩とする。
径とは差し渡しのことである。一歩は1.44mとされる。余歩とするわけだから144mよりやや大きいくらいであろう。
今日150m近い大きさの円墳や方墳は知られていない。知られている最大の円墳は、埼玉県行田市の丸墓山古墳で、大きさは直径約105mである。
したがって150m近い円墳は日本列島に存在しないとされる。

 ところうが私は玉手山に150mの円墳らしき尾根を発見したのである。
発見したのは偶然ではない。私の仮説にもとづいて、そのあたりにあるはずだと探した結果である。

孝安天皇陵、となりの尾根
 私は卑弥呼の男弟が孝安であるとする。そこで孝安の宮や墓の近くに、卑弥呼の墓はあると考えて、探したのである。けっしてやみくもに探したわけではない。
『日本書紀』や『古事記』によれば、孝安天皇が葬られたのは玉手丘である。玉手丘とは現在の奈良県御所市玉手山である。

 最初私は孝安天皇秋津島宮伝承地の碑がある、御所市の宮山古墳のあたりを探し回った。宮山古墳の南側、巨勢山は我が国有数の群集墓地帯である。しかし三世紀中頃まで遡るような古墳を見つけることはできなかった。
そこで範囲を広げ、航空写真で探索を行った。その結果、玉手山に円形の尾根を発見する事になったのである。

 最上段に掲げた航空写真を見ていただきたい。
きつね塚とする尾根がそれである。
玉手山の東、国見山の裾に掖上かんす塚という、全長150mの前方後円墳がある。私が玉手山に発見した円形の尾根は、ほぼこの大きさなのである。まさに径百余歩である。

重要なのはその場所である。そこは現在宮内庁が孝安天皇陵とする隣の尾根である。
私はもしこの円形の尾根を、玉手山以外の地域で見たなら、これを卑弥呼の墓などと言い出す事はなかった。
孝安陵の隣りの尾根であるということが、この円形の尾根を卑弥呼の墓と考える決め手となった。
それは私の仮説である、孝安は宇那比姫の義理の弟、すなわち卑弥呼の男弟ということ密接に関係するからである。

自然地形か人工か?
 もちろん航空写真だけでここが径百余歩の円墳としたわけではない。
航空写真では整った円形と見える尾根も、私の手元にあった2万500分の1の地形図では、円形とはいい難い形なのである。そこで地形図と航空写真を手に現地踏査を実施した。
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 最初の踏査では、藪(やぶ)に覆われた尾根が古墳であるか否かの確証は何も得られなかった。しかし古墳であろうという感触は得た。

玉手山の山塊から西に尾根が張り出す。尾根は平地に向かって緩やかに下る。その尾根の先端部分に盛り土をして墳丘を築いているという見解である。

後に地中レーダー探査を実施するために、藪を刈払った。すると明らかに土を盛ったと思われる円形の盛り上がりを確認した。
またその中心あたりに窪地を見つけた。地元の人に聞き及んだところによると、そこを2.5mほど掘ったが何も出土しなかったということであった。
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上段が藪を刈払う前の写真。下段がレーダー探査のために刈払った時の写真。真ん中あたりの窪地はすでにだれかが掘っている。

またこの尾根は「きつね塚」と呼ばれていることも聞いた。地元のの人たちはここを古墳として認識していたのである。

更に後ほど手に入れた2500分の1地形図では、明らかに尾根の中央に盛り上がりを確認できた。この盛り上がりは自然にできた地形ではないと判断した。
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まちがいなく古墳であることを確信した。

尾根全体が古墳か?
 しかし問題はここが径百余歩の大きさの古墳か否かである。
確かに土が盛られた様子は間違いなく古墳である。しかしそれは直径18mくらいのものである。径百余歩すなわち150mくらいとするには尾根全体を墳丘とする必要がある。
果たして尾根全体に手が加えられているかどうかである。
posted by 曲学の徒 at 11:48 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2009年08月08日

尾根全体に手が加わっている

盛り土部分は直径18mくらい
 私がNo1とする尾根は、玉手山の山塊から南西に張り出した尾根である。

尾根の背は平地に向かって緩やかに降る。平坦な尾根の背は、途中から墳丘に向けて1.5mほど駆け上がる。
墳頂の大きさは直径8mくらいでさほど大きくはない。尾根の背から墳頂への駆け上がり部分を墳丘の基底部とすれば、その大きさは直径18mくらいであろうか。 

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この部分が盛り土部分であろう。これだけを墓域とするならさして大きな墓ではない。とても径百余歩とする卑弥呼の墓のイメージには程遠い。

尾根の裾は整った円弧を描く
 しかしながらこの尾根を航空写真で観察すると、尾根の裾は整った弧を描き、尾根は山側でくびれる。自然に形成された地形とするにはきわめて不自然である。
私は尾根全体に人の手が加えられていると考える。
次の航空写真は玉手山全体の写真である。北側斜面の尾根と比較していただきたい。

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北側斜面に張り出した尾根の裾は、何れも先端が尖っている。これが一般的な尾根の形状である。
これに比べ、南西側に張り出した尾根の裾は何れも、整った円形の弧を描く。

 また尾根と尾根の間の谷は一般的には、山頂に向かって狭くなる。ところうが南西斜面の谷は山頂に向かって扇形に広がるのである。
これは尾根の両脇を掘り取り、尾根全体を円形に整形した結果と考える。

土が盛られたのは墳頂の一部であるが、尾根全体を円形に整形して墓としていると考える。

樹木がなければ径百余歩の円墳
 現在この尾根は樹木で覆われ、尾根の地形を実感しにくいが、もし樹木を伐採すれば高さ30m直径150mのお椀を伏せたような地形が出現する。
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まさに径百余歩の円墳である。
posted by 曲学の徒 at 20:43 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2009年08月09日

発掘結果

No1尾根のレーダー探査の結果
 No1の地中レーダー探査を行った。
中心付近にすでに誰か掘った穴がある。その近辺の探査を行ったが、確実に何かが存在すると思えるような徴候を検知できなかった。
ただし墳丘の中心から2mほど離れた場所で、レーダーの異常反射波を検知した。
深さ1.2mくらいのところに、何かが存在する。目印の木杭を打ち、後日発掘する事にした。

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尾根は古墳であった
 後日その場所を掘った。
そこから五世紀後半の鉄刀、槍の石突、鉄族(てつぞく)30本くらいを発掘した。遺物の出土場所には朱が撒かれていた。

残念ながら私が期待した年代の遺物ではなかった。
古墳であることを確認したので、県の文化財保護課に連絡を取り、出土遺物を引き渡すと共に、後の調査を移管した。

卑弥呼の墓という仮説は証明できなかった
結果としてここが径百余歩の卑弥呼の墓という私の仮説を証明できなかった。
私にとっては不本意な結果である。

しかしそうでないと確定したわけでもない。
掘った場所は中心からやや外れたあたりである。なぜ中心を掘らなかったかと言えば、墳丘の中心あたりではレーダーに、目だった反応はなかったからである。
だがレーダー探査のみで結論が出るわけではない。最終的には掘ってみなければ解らない。

文化財保護法の対象地域となった
 これまで私はこの場所を一般に公開することを避けてきた。ホムーページで航空写真を提示したが、具体的な場所を公開しなかった。
不用意な発掘によって遺跡破壊を恐れたからである。
これまでここは県の遺跡地図で、古墳として認識されていない場所である。
しかしこの時点で古墳として認識され、埋蔵文化財保護法の対象地となった。
以降、県の教育委員会の許可なくして発掘はできない。遺跡として保護されるのである。
今はこうして、このブログで詳細を語ることができる。

結論は秋津島宮の出土まで持ち越し
 私は今行われている京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、六代孝安天皇の秋津島宮が出土すると予想している。
最終的な結論はその後としたい。
posted by 曲学の徒 at 15:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2009年08月11日

発掘に至るまでの経緯

個人に発掘許可は出ない。

 埋蔵文化財保護法という法律がある。
遺跡とされている場所を掘るには、地元教育委員会の許可が必要である。

奈良県は個人や企業の発掘は認めないとする。業者等が適当な調査委員会を立ち上げ、都合の良い調査報告を作って、開発を実施することを防止するためである。
許可が下りるのは、教育委員会や、教育委員会主導の下に組織された調査委員会である。

そこが明確に遺跡と認識されていなくとも、重要な伝承地などの近辺や、周りに遺跡が在るところの発掘の許可は下りない。
私が掘ろうとした場所は天皇陵の隣の尾根である。200mとは離れていない。したがって私が個人的に発掘することに対し、県は許可しないと伝えてきた。

個人の仮説を検証するために調査など行わない。


 実はそれまでに様々な経緯があった。
私はそこが極めて重要な遺跡であるから調査をするよう申し出た。
文化庁を初め、県の文化財保護課、地元教育委員会、橿原考古学研究所、奈良文化財研究センター、それに地元の考古学研究室を持つ大学等である。

しかし私の申し出をまともに取りあげる人など誰も無かった。
皆さん大人である。はっきりとはおっしゃらないが、「素人の仮説などにいちいち付き合っておられるか」「個人の仮説を立証するために調査など行う予算もひまもない」というのが本音である。

しかたなく自分で掘る事にした。しかし先に述べたように、県の教育委員会は個人の発掘を許可しないという。

市長へのお願い

八方ふさがりの中で地元市長にお願いした。
次のように説得した。
本格的調査でなければ費用などたかが知れている。もし私の仮説が正しければとんでもない遺跡である。佐賀県の吉野ヶ里は整備費として国の予算が何十億と付き、年間50万人を超える来場者がある。
もし私の仮説が正しければ吉野ヶ里など比では無い。そしてこの遺跡がもたらす地元への経済効果は計りしれないと訴えた。

市長は調査を約束してくれた。しかし担当者にしては極めて迷惑な話である。
御所市は、ただでさえ京奈和自動車道建設に伴う事前調査で大忙しなのに、個人のトンデモナイ仮説に付き合わされるはめになった訳である。

埋蔵遺跡の多い市町村には、考古学の専門知識を持った職員がいる。
最初に私がこの尾根の調査を申し出た際、その職員は「そこは古墳ではありません」と断言した。

本人が遺跡とは思わない場所へ、遺跡の確認調査に行く羽目になったわけである。しかもそこは道のない藪の中である。
市長の業務命令といえ、そんな所の調査など気が進むはずもなかろう。そんな担当者の困惑が推し量られた。

2ヵ月後、教育長名で調査報告書が送られて来た。
私が古墳であろうとする場所は、自然の尾根で遺跡など無いとするものであった。

遺跡ではないという調査報告が発掘を可能にした

 私は落胆した。私が考えるような年代や、大きさの古墳では無いとしても、専門家によってそこが古墳と認定される事を期待していたからである。

しかし結果としてこれが幸いするのである。
遺跡ではないと認定されたわけであるから、もはやこの場所は、文化財保護法の対象にはならないのである。

そこで県の文化財保護課に問い合わせた。遺跡調査などと言い出すとややこしい事になるので、「穴掘り大会を実施したいが問題はあるか」と問い合わせた。地元教育委員会によって、遺跡ではないと認定されたわけであるから、文化財保護法の見地からは、規制する立場には無いとの回答を得た。

ただし該当箇所は、環境保全地域であり宅地造成規制地域である。そちらの確認を取るようにとのことであった。何れも口頭でのやりとりではあるが、2m四方深さ1.5mくらいの穴であれば特に、問題なかろうというものであった。

もちろん事前に地権者の了解は取り付けてある。
ようやく自分の手で合法的に、玉手山の孝安天皇陵となりの尾根を、発掘調査する事が可能となった。
posted by 曲学の徒 at 11:44 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2010年03月17日

卑弥呼の墓は石室を持たない

私は大きな勘違いをしていたかもしれない。
卑弥呼の墓には石室があると考えていた。桜井市のホケノ山古墳は卑弥呼が没した248年前後より古い時代の古墳である。
そこには石囲いとされる石室が存在する。したがって私はホケノ山より新しいであろう卑弥呼の墓は、石室を持つと推測していた。
そのために、No2の尾根で地中レーダ探査を行った際、レーダの異常反射波を石室の存在と確信した。しかしそれは石室ではなく岩盤であった。
またNo1の中心部では、そのような異常反射波を検知しなかった。そのため、墳丘の中心を試掘しなかった。
卑弥呼の墓が石室を持つと考えたのは、誤りであったようである。

『魏志倭人伝』は、「棺有りて槨無し」とする。槨は棺を収める囲いや、部屋のことである。それは無いとする。
「土で封じ塚を作る」とするから、棺を墳丘に直接埋葬している可能性が高い。石室は存在しないのである。

私は玉手山の尾根で試掘を試みた。そこから石室の石らしき物は、何一つ出土しない。
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2010年03月31日

御所市教育委員会は古墳と認めた

先月の中頃、御所市教育委員会は、私が古墳であると主張した場所、すべてを古墳であると認めた。
やっと1年半の時を経て、私の主張が認められた。私が掘り出した、遺物という物証の前には、自然の尾根であるという見解はもろくも崩れたのである。
しかしそれは私にとって、必ずしも喜ばしい状況ではなくなった。

当初御所市教育委員会は、そこは古墳ではないと断言した。その段階では私が玉手山で発掘調査することに何の問題もなかった。

だが昨年の夏、私が径百余歩百とする尾根から、鉄族と鉄剣を掘り出し、ここが古墳であることが確定したことによって、御所市教育委員会は玉手山の再調査を行った。
その結果、私が古墳とした場所すべてを古墳と認定してしまった。

奈良県文化財保護課は私に対して、以降玉手山での発掘は行わないようにとのお達しである。私の発掘調査は禁じられてしまったのである。
私としては何とも憤懣やるかたなしである。


私が径百余歩とする古墳から出土した遺物は、五世紀末の物である。
だが出土した場所は中心埋葬施設ではない。古墳の築造年代との関係は今ひとつ、はっきりしない。
中心埋葬部を掘れば、古墳の築造年代を確定することが出来るであろう。しかし古墳と認定された以降は私が掘ることは許可されなかった。

やむを得ず、隣の尾根の調査を続けてきた。
地中レーダー探査の失敗で、出端をくじかれたが、間違いなくここも古墳であるとの確信のもと、試掘を続けた。都合四回に渡る試掘を試みた結果、20点ほどの土器片を掘り出し、ここが古墳であることは、ほぼ確定した。
しかもその土器片の中に、弥生末か古墳前期と考えられる土器片が存在する。

私は確実な年代を推定できる遺物が出土するまで、もう少し発掘を続けるつもりであった。
しかしこの尾根も含めて、古墳と認定されたことによって、発掘を中止せざるを得ない。残念至極である。
だが何時の日か、正式な調査委員会を立ち上げて、専門家による本格的な調査を実現したいと、心に誓う今日このごろである。

posted by 曲学の徒 at 20:54 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2011年01月12日

日本一の円墳であることを実証したい

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「きつね塚」と称されるこの玉手山の古墳は、尾根上に墳丘を築く。
その盛り土の範囲は直径22m程に過ぎない。
しかし尾根全体を墳丘とすれば、それはまさに150mの円墳である。


このような地形を自然の造形とは考え難い。
尾根全体に人為的な手が加わっていると考える。

これが玉手山以外の場所であれば、私はたとえこの航空写真を見せられても、150mの円墳などと言い出すことは無かった。

玉手山という場所が150m円墳の根拠

私の仮説では六代孝安天皇は卑弥呼の義理の弟である。魏志倭人伝が「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする男弟である。
『記紀』伝承によれば孝安は玉手山に葬られたとする。卑弥呼もまた玉手山に葬られた可能性がある。
そこに直径150mの円墳らしき尾根を見たわけである。これこそ卑弥呼の墓と考えるに至った。
これが径百余歩すなわち150mの円墳と、執拗に主張する私の根拠である。

何とかして、尾根全体に人為的な手が加えられていることを実証する、手立てがないものかと思案している。

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私がNo2とする尾根から古い時代の土器片が出土した。もはや古墳であることは間違いない。

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この尾根の先端は削り取られていると推測する。
茶色の線で囲んだ範囲である。これが尾根全体に手が加わっているという証拠にならないかとと考える。

No1とNo3の緑で囲んだ円形の部分が土盛りがされている範囲である。No1は私の計測によると、おおよそ直径22m。
No3は県の遺跡地図で直径20mとされる。
No2について、土盛りの範囲を確認するために、私は斜面の雑木を帯状に伐採し、傾斜変更点を探った。だが今のところ土盛りの範囲を明確にできていない。航空写真などから、おおよそ青線で囲んだ範囲ではないかと推測している。No1、No3よりやや大きいのではないかと想像する。
posted by 曲学の徒 at 11:51 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2012年04月02日

卑弥呼の墓

 一歩は1.44mで径百余歩とは直径140m前後の円墳であろう。この写真の尾根の上に築かれた墳丘は直径22mくらいのものである。だが樹木が無ければ、尾根全体が墳丘に見えるはずである。これはまさに径百余歩の円墳である。

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尾根全体が墓域

 この尾根の300mくらい南に、直径20mの円墳がある。一見すると直径5mか6mくらいにしか見えない。だが盛り土の裾は尾根の中腹まで広がる。尾根の裾を意識して墳丘が築かれる。墳丘を築いた時には尾根の樹木はすべて切り払われていたはずである。尾根と墳丘は一体と見えるはずである。尾根全体が墓域である。私が卑弥呼の墓とする古墳も同様な構造を持つ。



玉手山という場所が重要

 この古墳の存在する場所が重要である。ここは六代孝安天皇が葬られたとする玉手山である。孝安は私が卑弥呼とする宇那比姫の義理の弟である。したがって卑弥呼の政治を補佐した男弟を孝安とする。卑弥呼もまた玉手山に葬られたとしても不思議は無い。

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木棺直葬石室は存在しない

『魏志倭人伝』は棺有るも槨無しとする。私が地中レーダー探査を行った範囲ではそこに石室のような物は確認できなかった。
画像は私が卑弥呼の墓とする墳丘の中心付近のレーダー画像である。
中央のグレーの縞模様は松の切り株による。石室らしきものは存在しない。木棺直葬であろう。

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この古墳は前方後円墳の原型

 山塊から張り出した尾根上に墳丘を築く。尾根は墳丘に至る墓道となる。したがって山塊側から墳丘に向かって緩やかに下る。
前方後円墳の前方部はこの尾根の形状を模したものである。平野部に造られる前方後円墳は山塊側の尾根を断ち切った形状である。初期の前方部がバチ状を呈するのはこの尾根の形状を残しているのである。

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殉葬はあるのか。

 私は『魏志倭人伝』の記述は事実を伝えていると考える。したがって奴婢百人の殉葬が有ったと考える。
その場所がある。私が卑弥呼の墓とする尾根の付け根に相当する場所である。県の遺跡地図で16−B-513の番号が振られた15mの円墳とされる場所である。
一般的な円墳のような高さは無い。よほど注意して観察しなければ、単なる自然の起伏と見過ごすような形状である。
当初私はこのあたりを何度も通っている。しかしそこが古墳であるとは気づかなかった。県の遺跡地図を見て気になり、確認のために現地を踏査した。そしてここが奴婢百人が殉葬された場所と確信した。
さすがにこの場所に立ったとき、鬼気迫るものを感じざるを得なかった。

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箸墓は径百余歩ではない


 今日箸墓を卑弥呼の墓と主張する人は多い。しかし全長280mの大きさの古墳を、径百余歩と見誤ることはなかろう。しかも後円部と前方部には二つの高まりがあり、鍵穴型の平面形状は、決して径というような表現が当てはまる古墳ではない。
この私の箸墓卑弥呼説に対する反論に対し、箸墓を卑弥呼の墓と主張する人たちは、径百余歩とするのは後円部を指して言った大きさとする。しかし前方後円墳は平面プランを持って築造される。最初から前方部も築造が開始されるはずである。段築はそれを物語る。後円部のみが先に完成するなどと言うことはあり得ない。

これ以外径百余歩に該当する古墳は無い
 
 我が国で、今日知られている円墳で最大とされるのは、埼玉県行田市の丸墓山古墳である。直径105mとされる。
したがって径百余歩に該当しそうな古墳は、この玉手山の円墳を置いて他には存在しない。
私はこれを卑弥呼の墓と確信する一つの理由である。
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2015年03月29日

とんでもない輩がいる

とんでもないやつがいる。
玉手山のあの古墳を掘り返した輩がいる。誰か特定できれば文化財保護法違反で告訴しようと思う。
まったくもって遺憾である。取り返しのつかない遺跡破壊になるので絶対にやめてほしい。
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2016年07月08日

直径150mの尾根

2008年以来玉手山で古墳の調査を続けてきた。
私が日本最大級の円墳とする二つの古墳の概要が解ってきた。
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図は玉手山の西斜面に張り出した、尾根を南上空から眺めたイメージ図である。
説明のために尾根に番号を付ける。北から1、2、3とする。
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1の尾根は、航空写真ではほぼ円形に見える。また南西の地上からは直径150mの円墳に見える。
尾根上に盛り土を成して墳丘を築く。墳丘の大きさは尾根方向で25m。尾根方向の盛り土の範囲は明瞭に識別できる。
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尾根と直行する方向では、盛り土の範囲を明瞭に確認できない。北側、南側共に斜面表層の山砂が一部崩落する。盛り土という軟弱な地層ゆえの崩落と考えられる。南斜面の崩落個所は、墳丘の中心から30mほどの所である。この崩落個所あたりも盛り土の範囲と推測する。北斜面でも大規模な表層の崩落がある。盛り土の範囲は尾根方向で25mほどであるが、尾根と直行する方向では40〜50mに及ぶと推測する。
平地側にテラス状の平坦地がある。尾根の背の山砂を墳丘に盛り上げたと思われる。

尾根そのものは自然の尾根である。しかし、私は尾根裾は人の手によって整形されていると考える。
図に示した「ア」の地点で、鉄杭を使った地層調査を行った。
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尾根の斜面では鉄杭が私の体重で容易にめり込む。だが尾根裾の外側では、深さ20pくらいで地山の固い地層に突き当たる。鉄杭は容易にはめり込まない。尾根の斜面は、花崗岩の風化によって出来た柔らかな山砂に覆われる。自然の地層である。だがその尾根の外側、有機物の堆積する表層の下は、固くしまった地層で柔らかな山砂の堆積がほとんどない。山砂が取り除かれている。このことから私は尾根裾は人為的に整形されていると考える。したがって尾根全体を墓域とする直径150mほどの円墳である。

この古墳の築造時期についてである。墳丘の発掘調査で出土したのは鉄鏃の塊であった。5世紀末頃の遺物である。私の期待した時代の物では無かった。しかしこれはこの古墳の築造時代の物ではないと考える。出土したのは墳丘の中心から3mほど離れた場所である。中心を掘らなかったのは、地中レーダー探査を行った際、中心付近ではレーダーの反応がなかったからである。
後に墳丘の裾で土器片を採取している。小さな土器片で年代を確定するまでには至らないが、3世紀中ごろとしてもおかしくないと考える。
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bQからは庄内式と思われる土器片が出土した。3世紀前半の土器である。1も同時代の古墳と考える。私はこの古墳こそ『魏志倭人伝』が伝える径百余歩の卑弥呼の墓とする。
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日本最大の円墳と楕円墳

私は玉手山の二つの古墳は同時代としては日本最大級の古墳とする。詳しくはこちら
150-ennpunn-No1,.jpg
これまで、前方後円墳が造られるようになる以前の古墳としては、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓が、国内最大規模とされてきた。楯築墳丘墓は円丘部分が直径43m、両側に張り出した突出部を入れた全長は、現在確認される範囲で72mとされる。
私が2とする古墳は、盛り土の範囲だけでも長径80mくらいに及ぶ。尾根全体を墓域とすれば、楯築墳丘墓などよ、りはるかに大きな古墳である。
尾根全体を古墳とするなら、日本最大の円墳とされる埼玉県行田市の丸墓山古墳(直径105m)より巨大である。
1とする古墳は、盛り土の大きさでは2に及ばない。だが尾根全体の大きさではほぼ2に匹敵する。私は、この二つは日本列島最大規模の円墳、あるいは楕円墳とする。
その事を実証する手立てがある。
精密な地形測量を行い地形図を作成すれば、盛り土の範囲や尾根裾に改変があるか否か判別できると考える。
レーザー航空測量による地形図の作成である。
以前橿原考古学研究所は、この方法によつて、箸墓古墳、西殿塚古墳、新沢千塚古墳群などの測量を行い立体地形図を作成している。図は千塚古墳群の赤色立体地図である(橿原考古学研究所提供)

http://www.kashikoken.jp/from-site/2011/niizawa_rittaichizu.pdf
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この地形図では地形の微妙な凹凸なども読み取れる。この測量のメリットは、地表が樹木などに覆われていても、膨大なレーザーパルスの一部は、木々の枝葉間を通り抜け、地表に到達する。これにより木々に覆われた場所でも地形の測量が可能な事である。
かって私は、このレーザー航空測量の実施を模索した。だが、ヘリやセスナを使うこの航空測量は費用が相応にかかり断念した。
しかし近年ドローンという無人航空機による、レーザー測量が試みられている。この方法であれば費用は相当安く抑えられるという。レーザー航空測量実現の可能性が見えてきた。
レーザー測量によって精密な地形図が作成できれば、この玉手山の古墳が国内最大の円墳である事を立証できると確信している。
ぜひレーザー測量の実施を実現したい。

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2017年02月17日

警告

昨年何者かによって玉手山の古墳が荒らされている。
地図の×印の場所を掘っている。複数の者による度々の仕業である。
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文化財保護法違反の犯罪である。御所市派出所に届けた。今後スコップなどを持って玉手山に入ると警察に通報されます。
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2017年08月22日

ホビー用ドローンによるレーザー測量

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上の写真は、奈良県御所市玉手山の、航空写真である。
この山に存在する、円形の尾根と楕円の尾根は、列島最大の円墳であると考える。
尾根そのものは自然の尾根であるが、尾根の中心部には盛り土による墳丘が存在し、墳丘の盛り土は尾根の中腹に及ぶ。私は尾根の裾は、人為的な改変があると考えている。そのことから、尾根全体を墓域とする、古墳であると考える。前方後円墳などを除けば、我が国最大の円墳である。そのことを実証したい。

航空レーザ測量による、詳細な立体地形図を作成すれば、人為的な改変の有無を判別できると考える。
次の図は、橿原考古学研究所が行った航空レーザー測量による、千塚古墳群の立体地形図である。
航空レ―ザー測量による利点は、樹木などに覆われた地形であっても、樹木の間を通り抜けたレーザーにより、地形の測量が可能なことである。
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近年ドローンを使った、航空レーザ―測量が試みられている。だが搭載するシステムが高価でかっ重い。
写真RIGL製の、一番コンパクトな製品でも1.5Kgほどである。しかも機体の位置を知るために、GPSと、加速度センサー、ジャイロセンサーを使った慣性計測装置を別途準備する必要がある。
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私はホビー用ドローンに搭載できる、安価で軽量なシステムが開発できないかと考える。
構想は次のようなものである。
ポケットに入るレーザー距離計と、スマートホンとを組み合わせたシステムである。
測定できる距離や、レーザーパルスの数を落とすなどして、機能を絞り込めば、このシステムでも運用は可能である。
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写真のレーザー距離計は最大250mの距離の測定ができる。重量は200gくらい。
一方スマートホンは重量150g前後である。GPSや、慣性計測装置の、加速度センサー、ジャイロセンサーを備えているので、そのまま利用できる。

レーザ距離計は単4乾電池を使う。電源をスマートホンと共用すれば、軽量化が可能である。
またスマートホンで距離データ取得に不必要な、バイブレータ用モータ、音声マイク、スピーカー、カメラなどを外し、軽量化が可能である。レーザーのパルス化とレーザー距離計と、スマートホンのデータ接続を組み込んでも、総重量300gくらいに納めることが可能であろう。
どなたか、このシステムを開発してみませんか。
短期間で製品化できれば、大きな市場を獲得できると思います。

この古墳こそ径百余歩(直径約150m)とされる卑弥呼墓なのである。このシステムで日本1の円墳であることを実証したら、この製品の宣伝効果は計り知れない。
posted by 曲学の徒 at 15:33 | Comment(1) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓