2009年08月16日

秋津島宮が出現する

予言

秋津島宮とは六代孝安天皇の宮のことである。今日の学説の大多数は孝安天皇など実在しないとする。したがって実在しない天皇の宮など信じるわけがない。

シュリーマンはホメロスの叙事詩「イーリアス」が歴史を反映していると確信して、トロイアの発掘を行った。結果トロイアの発掘へとつながった。
『日本書紀』は歴史書である。少なからず歴史事実を伝えていると確信している。その点で私は孝安の実在も、秋津島宮の実在も信じて疑わない。

2009年秋津島宮が出現すると予言する。
もちろん私は超能力者ではない。地下にある遺跡が見えるわけではない。しかしこれまでの文献資料の考察と現地踏査から、秋津島宮の推定地をピンポイントで予測している。その場所の発掘調査が行われる。

秋津島宮こそ卑弥呼の王宮

現在京奈和自動車道という、京都から奈良県を縦貫し、和歌山に至る自動車道が建設されつつある。
その予定路線が、奈良県御所市の秋津島を通る。工事に伴う遺跡の事前調査が橿原考古学研究所によって行われると聞いている。
そこから三世紀前半の大型建物群の遺構が出現すると予想しているのである。

なぜなら私は秋津島宮こそ卑弥呼の王宮であったと考えている。
『魏志倭人伝』は卑弥呼には男弟があり、たすけて国を治めていたとする。この男弟こそ六代孝安天皇に他ならないからである。
卑弥呼は三世紀前半に活躍した人である。したがって孝安も同時代の人で、その宮も三世紀前半に存在していたと考えるからである。

2009年08月17日

宮山古墳後円部は秋津島宮跡ではない

 現在、秋津島宮伝承地とされる場所がある。御所市にある宮山古墳後円部にある八幡神社境内である。秋津島宮伝承地の碑が建つ。
しかしここは秋津島宮跡ではない。
私は2008年3月、卑弥呼の墓と宮を訪ねて、最初にここを訪れた。だがここは秋津島宮跡ではないと直感した。

 後に『帝王編年紀』に記される秋津島宮伝承地の場所を知る。『帝王編年記』は14世紀の成立とされる。
そこに秋津島宮の伝承地を「掖上池南西の田の中」と記す。掖上池がどこなのか今は定かではない。
しかし田んぼの中である。宮山古墳の八幡神社境内は田んぼに隣接するが、田んぼの中ではない。

 また宮山古墳は全長238mの前方後円墳である。古くから室の大墓として知られる古墳である。もしこの宮山古墳の後円部を表すなら、必ず宮山古墳を目印にしてその場所を示すであろう。
したがって『帝王編年記』が秋津嶋宮跡とした伝承地はここではない。そして14世紀時点で、秋津島宮伝承地が存在しているのである。

2009年11月18日

大型建物の遺構が出た

卑弥呼の王宮が出土した。
現地説明会で1万人を超える見学者を集めた、桜井市の纒向の話ではない。
奈良県御所市秋津の話である。
京奈和自動車道建設に伴う事前調査が行われた、秋津小学校東200m地点である。

私はここから大型建物の遺構が出土すると予言していた。まさにその予言どおり大型建物の遺構が出土している。

フエンス越しに調査地を見た限りでは、建物の外周を取り巻く塀ではないかと思われる柱穴がマーキングされていた。

ただし卑弥呼の王宮なら三世紀前半の遺構でなければならない。
だがこの遺構から出土した土器は布留1、2式である。四世紀前半の土器である。三世紀前半の庄内期の土器は出土していないらしい。
「らしい」と言うのは、11月18日現在、調査主体である橿原考古学研究所からは、何も正式な発表はなされていないからである。

布留1式の年代なら、300年代の前半であろう。
魏の使者が240年頃見たであろう卑弥呼の王宮の年代と100年くらいの年代差しかない。
しかもこの場所から、北東に1200m離れた玉手の調査地からは、布留式の土器と庄内式の土器が多数出土している。また更に北東200mの茅原からも庄内併行期の土器が出土している。

この近辺から、庄内期の土器が出土する可能性は十分ある。
もしこの建物遺構付近から庄内期の土器が出土すれば、そこが六代孝安の秋津島宮であり、卑弥呼の王宮であると私は断言する。
なぜなら私は六代孝安天皇こそ『魏志倭人伝』が「男弟ありてたすけて国を治む」とする男弟と考えているからである。

そしてこの場所の東北東1000m、玉手山の尾根に私が径百余歩とする円墳があるのである。

なぜ私が孝安を男弟とするのかは下記にアクセス欲しい。
http://kodai.sakura.ne.jp/yamato/600-himiko-kouann.htm

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2010年03月17日

秋津遺跡の重要性

 去る1月20日に新聞報道された御所市池之内の遺跡は、秋津遺跡と名づけられたようである。
http://yamatai.sblo.jp/article/43632931.html
問題は調査主体の橿原考古学研究所が、この地域の重要性をまったく認識していないことである。

先に出土した神社遺構なども四世紀前半の遺構であり、伊勢神宮の創建年代と同時代の遺構である。
これらを近くにある、室の大墓と称される宮山古墳などとの関連でしか語れないことである。
宮山古墳は五世紀初頭の築造であろう。100年くらいあとの時代なのである。ところがこの地域は宮山古墳が築造される200年も前に、王都の在った場所なのである。

五代孝昭の掖上池心宮、六代孝安の室秋津嶋宮の伝承地なのである。
橿原考古学研究所の考古学者を初めとして、今日の文献史学者の多くが、孝昭や孝安の実在などまったく信じない。
したがって三世紀代の遺構や遺物が出土しようと、秋津嶋宮や池心宮との関連を想像することなど無いのである。

2010年11月25日

秋津遺跡を守れ

調査担当者は、まったく理解していない。

11月25日の朝刊を見てネットで検索した。
秋津遺跡調査担当者の次のような感想を見た。

>「古墳時代前期(4世紀前半)にこんなにでかい建物跡があるなんて……」。24日、発表された御所市の秋津遺跡の大型建物跡などの遺構を前に、県立橿原考古学研究所のベテランたちは一様に絶句した。

発掘担当者たちは、この地が五代孝昭や六代孝安の宮が在った発生初期の大和王権の源郷の地であることを、まったく理解していない。
もちろん孝安や孝昭の実在を信じないから無理も無いことであるが。

異なる葛城氏

 御所市近辺のこの地は、初期大和王権の源郷の地である。
ここには系統を異にする二つの葛城氏と称される氏族が在る。

一つは武内宿禰に始まり、その子ども葛城襲津彦―葛城葦田宿禰―葛城玉田宿禰―葛城円(つぶら)と続く一族で、5世紀の後半、雄略によって滅ぼされる。この秋津遺跡の近く宮山古墳を築いた一族である。

もう一つは、神武が奈良盆地を平定した時、この地の国造となった剣根に始まる一族である。この葛城氏も5世紀代終わりには力を失っている。

先の葛城氏の祖となる武内宿禰は、この葛城国造荒田彦の娘、葛比売をを娶って葛城襲津彦を生んだとされる。
したがってこの二つの葛城氏は途中で一緒になるが元々は先祖を異にする氏族である。
秋津遺跡調査担当者は前者の葛城氏しか頭に無い。しかしこの一族は、この遺跡の年代である4世紀前半には、まだこの地で勢力を得ていない。
したがってこの葛城氏との関連では、この遺跡の性格をまったく理解できないのである。

秋津遺跡は尾張氏と関係する

古い時代この地域の支配者は、葛城国造家の葛城氏である。この葛城氏と密接に関係するのが尾張氏である。そしてこの尾張氏は、初期の大和王権と密接に関係する。
私の仮説によれば、孝安時代の尾張氏は、大和王権そのものなのである。

その尾張氏に関係すると思われる遺跡がある。秋津遺跡の東1kmにある日本武尊の墓、琴弾原白鳥陵である。
日本武尊の妃を宮簀姫と言う。宮簀姫の父親、乎止與命は尾張氏の人で、出身はこの御所市葛城高尾張と思われる。後に現在の愛知県に移り、後の尾張氏となる。
日本武尊は景行の皇子とされる。本来なら奈良県天理市や、桜井市あたりに墓が造られても良さそうなものである。ここ御所市琴弾原に墓が造られたのは、尾張氏との関係を推測する他無い。

琴弾原白鳥陵は宮内庁の陵墓参考地であり、詳しい事は解らない。だが私は間違いなく古墳と確信する。
国見山から北西に延びた尾根を切り墳丘を築く。
白鳥陵の前後にも明らかに、古墳と思われる墳丘が存在する。
特に尾根先端の古墳は相当大きい。現在は個人の墓地となるが、尾根の山側と先端側を切り、円墳とする。奈良県の遺跡地図では、古墳と認識されていなが、古い時代の古墳である。


大きな地図で見る

私は日本武尊は、4世紀初め頃の人と推測する。したがってこれらの円墳は、秋津遺跡と同時代の築造であろう。
秋津遺跡は、これらの古墳との関連で語られるべきなのである。5世紀初頭の、宮山古墳などとの関連では理解不能である。


橿原考古学研究所にこの遺跡を守る力は無い

私は早くから、この場所から大型建物の遺構が出土すると予言した。
文化庁や橿原考古学研究所にもそのことを伝えた。
誰も信じようとはしなかった。
出土している秋津遺跡は、私が予想した年代より百年くらい後の時代の遺構である。
だがこの地は初期大和王権の王都であり、それは他ならぬ邪馬台国の王都でもある。
そして今、卑弥呼の時代から百年後の大型建物遺構や、二重の板塀が取りか囲む、神社遺構が出土しているのである。
このような日本国家の源郷とも言うべき重要な遺跡が、今インターチェンジ建設によって破壊されようとしている。

六代孝安の実在も、秋津島宮の実在も信じない人たちに、この遺跡を守る力は無い。

2010年12月11日

秋津遺跡はどのような氏族の遺構か

秋津遺跡の性格を解明するには、先ず葛城の歴史を知る必要がある。

葛城の歴史は古い。
神武が大和朝廷を樹立する以前の歴史から語らねばならない。

今ここに葛城の地とかかわる氏族の系譜の一部を提示する。
日本書紀が神代とする時代までさかのぼり、どこまでが史実か確定しがたい。
したがって人物の世代位地等に不合理な点もあり、疑問もあるが大雑把な歴史として捉える。

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その一は神武や饒速日という天孫族が、大和に進出する前に、大和の支配者であった地祇と称される、大国主や事代主の一族である。

その二は神武が大和朝廷を樹立した時、この地の国造になった葛城氏である。

その三は大和朝廷が成立した頃この地に進出し、国造家の葛城氏と深く関わる尾張氏である。

最初にこの地に進出した大国主の流れ


 神武が奈良盆地を制圧し、大和王権を樹立する前に、この地へ早くに進出した王権が在る。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)に始まり大国主命そして事代主(ことしろぬし)へと続く勢力である。
すなわち出雲から起こったと思われる勢力で、この勢力は日本列島の広い範囲を支配地とするが、その後天孫族に支配権を奪われる。いわゆる国譲り神話である。
この一族の大国主命の児、八重事代主や味鋤高彦根命(あじすきたかひこねのみこと)が葛城の地に居たと思われる。それは鴨族とも鴨王とも称される。

神武が奈良盆地を制圧する前に、事代主が陶津耳命(すえつみみのみこと・三島溝杭耳命)の娘、玉櫛媛(たまくしひめ)を娶り生まれた子どもが、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)や五十鈴依媛命(いすずよりひめのみこと)で、前者が神武、後者が綏靖(すいぜい)の皇后となる。

葛城でこの一族が奉祭した神社は、鴨都波神社(かもつばじんじゃ)、高鴨神社(たかかもじんじゃ)、御歳神社(みとしじんじゃ)である。
鴨都波神社は、この一族の4世紀初め頃の人、大鴨積命(おおかもつみのみこと)によって創建されたとする。
そして大鴨積命の兄、大部主命の流れを汲むのが、三輪神社の神官家である大神氏(おおみわし)である。



剣根に始まる葛城国造

次に葛城国造となる一族が在る。
祖神を高皇産霊神(たかみむすびのかみ・高魂命)とし、元々は摂津三島、すなわち現在の大阪府摂津市あたりを本拠地とした一族である。

神武が大和朝廷を樹立した時、この一族の剣根命(つるぎねのみこと)が葛城国造に任じられる。
したがってこの一族が葛城に進出するのは大和朝廷の成立を期にしてである。

先に述べたように、この一族の陶津耳命の児、玉櫛媛と事代主の児が神武の皇后、媛蹈鞴五十鈴媛命なのである。

大和王権と密接に絡む尾張氏


 そしてこの葛城国造と深く関わるのが、尾張氏である。
尾張氏も神武以前の段階では、この地にかかわりは無い。この地と関わりを持つようになるのは、天忍男命(あめのおしおのみこと)や天忍人命(あめのおしひとのみこと)からであろう。天忍男命が葛城国造、剣根の娘賀奈良知姫(かならちひめ)を娶る。その後も尾張氏は葛城国造家の女を妻とする。

この一族から五代孝昭の皇后、世襲足媛(よそたらしひめ)が出る。
先代旧事本紀によれば世襲足媛(よそたらしひめ)の兄、瀛津世襲(おきつよそ)を葛木彦とも称し、孝昭の時代大連となったとする。

更に孝昭の皇子天足国押人命(あまたらしくにおしひとのみこと)の妻が、尾張氏の宇那比姫(うなびひめ)である。
そして九代開化の妃、竹野媛は尾張氏の建諸隅命(たけもろずみのみこと)の娘である。

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このように孝昭から開化に至るまで、尾張氏は大和王権と密接に関係する。むしろ大和王権と尾張氏が一体とさえ思われる。

秋津遺跡は大和王権と尾張氏の遺構

五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)伝承地は、秋津遺跡の北2kmほどの「よもんばら、あるいはよもぎ原」と呼ばれるあたりとされる。
そして六代孝安の秋津嶋宮が在ったとされる室(むろ)と呼ばれる地域は、ここ秋津遺跡の出土地近辺である。その秋津嶋宮伝承地から今特異な建物群が出土したのである。橿考研はこの遺構の年代を古墳時代前期とするが、秋津嶋宮と無関係であるとは思われない。

2011年03月01日

秋津遺跡

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写真は秋津遺跡と名づけられる前の道路予定地である。
2009年の春頃のものと思う。
道路予定地の一角を指して、私はここから秋津嶋宮が出土すると予言したのである。

出土したのは布留1式、2式土器

発掘の状況が気になって2010年正月明けに現地を訪れた。
まさにその場所から建物の遺構らしきものが出土していた。

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発表前で現場の人は何も答えてくれない。そこで御所市教育委員会に出向き尋ねた。
秘守義務があるのでということであったが、そこから布留1、2式の時代の塀で取り囲む建物遺構が出土している事を聞いた。

私は庄内式の土器は出土していないかと尋ねた。しかし庄内式は見つかっていないとのことであった。

秋津嶋宮であれば庄内式の時代である。予言ははずれた。秋津嶋宮ではないと思ったった。(だが後に発掘報告書や出土遺物を検討する中で、この遺構は3世紀前半あるいは2世紀末まで古くなると確信するに至る)

調査地は広大である

このあたりにインターチェンジが造られる。発掘調査されたのは広大である。

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下の写真は、発掘場所の航空写真。

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道路の北側が2009年に発掘調査された。続いて2010年南側が調査された。
矢印は発掘前に私が写真撮影した場所である。まさに遺跡の上に立っていたのである。

注目される方形遺構

2010年11月現地説明会が行われた。私も早速参加した。
遺構の年代は300年代から平安時代に及ぶ。しかも遺構の広さは広大で、とても短時間の見学では、遺構全体の性格を容易に把握できそうもない。

中でも注目されるのは方形区画と称される遺構である。
塀と考えられる2個一組の掘っ立て柱で囲まれる。柱列内部に建物が存在する。、

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遺構の広さは発掘された範囲だけでも100m×120mに及び一番広い区画の一辺は60m近くに及ぶ。

4世紀代の内で2から3回の立替が推定される。

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秋津遺跡出土遺物

方形区画内部からの出土遺物は少ないとされる。
秋津遺跡全体では次のような遺物が出土している。

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遺跡の重要性は纒向の比ではない

私はこのあたりこそ邪馬台国の王都と考える。六代孝安天皇の秋津嶋宮こそ、卑弥呼の王宮とする。
今日邪馬台国畿内説を唱える人たちの多くが、桜井市の纒向こそ卑弥呼の王都と考えている。
マスコミもこの説を鵜呑みにする。NHKあたりが「邪馬台国を掘る」というドキュメント番組を放映した。あたかも纒向こそ邪馬台国の王都であるかの如くの大合唱である。
だが纒向は崇神、垂仁、景行と続く大和王権の王都ではあっても、卑弥呼時代の王都ではない。

卑弥呼の王宮であればその存在した年代は三世紀の前半である。今出土している秋津遺跡は四世紀の前半とされる。
だが卑弥呼の没した248年か249年ころまで卑弥呼の王宮が存在したとすれば、秋津遺跡との年代差は70、80年である。秋津遺跡こそもっと注目されるべきである。

さすがに私とて、土の中に埋もれた秋津嶋宮の正確な場所を予見する事はできない。
だが必ず秋津嶋宮すなわ卑弥呼の王宮は、現在「室」とよばれる地域のどこかに存在する。
私が推定するその場所は、次の地図に示すあたりである。

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私の卑弥呼論、邪馬台国論はこの発掘調査と同時進行で進む。
とてつもない遺構が出土するかもしれない。

2011年04月28日

ここは邪馬台国の王都

 秋津遺跡では東海から西日本にまたがる各地の土器などが出土してる。
S字状口縁台付甕や多孔銅鏃などの東海系の遺物。
柳ヶ坪型壷と称される伊勢地方の土器。
それに瀬戸内海東部および瀬戸内海西部の土器。
さらには有段口縁壷と称される、中国地方と思われる土器である。
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秋津と称されるこの地は、交易の要衝となり得るような場所ではない。
それにもかかわらず各地の土器が出土する。

それをどのように考えるかである。
私は三世紀前半の大和王権の王都、すなわち邪馬台国の王都であったと考える。『記紀』伝承が伝える六代孝安天皇秋津嶋宮の在った場所ということである。

この近辺に秋津嶋宮は存在する

橿原考古学研究所が、現地説明会で配布したパンフレットによると、秋津遺跡は古墳時代前期、中期を中心とする遺跡とする。中でも特異な遺構として注目される、塀で方形に囲む建物遺構は、4世紀前半の遺構とする。
だがこれらの遺構が4世紀前半であるとしても、出土した遺物の中に三世紀代と思われる遺物が存在するのである。
その一つが多孔銅鏃である。赤塚次郎氏によれば、多孔銅鏃は濃尾平野にその中心があり、三世紀前半の終わり頃、周辺地域に拡散するとする。またS字状口縁台付甕も三世紀代の土器とする。
このように出土遺物の一部に三世紀前半まで古くなる可能性の遺物がある。

私は、六代孝安天皇を、魏志倭人伝が伝える「男弟有りて国を治めるを佐く」とする、男弟と考えている。
したがって孝安の宮とされる秋津嶋宮こそ、卑弥呼の王宮である。
だとすれば秋津嶋宮は卑弥呼の在位年代に実在したはずである。二世紀末から三世紀前半である。
現在出土している建物遺構は、秋津嶋宮そのものでは無いかもしれない。だがこの近辺に必ず秋津嶋宮は存在する。

秋津嶋宮が単に、歴代天皇の宮と言うだけなら、私もここまで、剥きになって秋津遺跡こだわる事も無い。
だが秋津嶋宮が、卑弥呼の王宮ということであれば話は別である。なんとしてでも保全されるべき遺跡である。



2011年09月02日

秋津遺跡は3世紀前半の遺構を含む

 橿原考古学研究所(以下橿考研と略記)は、これまでに発掘された秋津遺跡の年代を、古墳時代前期前半(4世紀前半)からの遺跡とする。
しかし私はこの遺構は三世紀前半、場合によっては、二世紀末まで古くなる遺構を含むと考える。

 2011年8月27日橿考研は、秋津遺跡4次、5次調査の現地説明会を実施した。
私は参加していないが、ネットで配布された説明資料を見る。
(ネットに提示されている資料はこちら)
http://www.kashikoken.jp/from-site/2011/akitsu5_shiryou.pdf

それによると北側の方形区画と称される遺構と、南側の竪穴住居群は同時期の遺構とする。
しかし資料で提示された図面から、方形区画と竪穴住居群が同時期に存在していたという橿考研の見解に疑問を抱く。
図を見ていたただきたい。図は第2次、3次の調査区である。その中に方形区画と竪穴住居が重なり合って描かれる部分がある。

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 考古学では柱穴などの切り合いによって、遺構の前後関係を推測する。
一方が他方を切り崩せば、切り崩された遺構の方が古いのである。
調査担当者は竪穴住居が、方形区画を切り崩すとする。方形区画が古く竪穴住居が新しいのである。

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現地説明会用の資料を読むと、「それらの住居(竪穴住居群)の時期が古墳時代前期前半に限られると判明したため、北側の方形区画施設および掘立柱建物群と、南側竪穴住居群とが同時に併存していた事実が明らかになりました」とする。

しかしこの橿考研の「同時に併存していた事実が明らかになりました」という見解にはどうしても納得がいかない。
方形区画の建物と、竪穴住居が重なる遺構では、二つの建物が同時に存在することは在りえない。方形建物同士あるいは竪穴住居同士の切り合いなら、同一建物群が連続して建てられたと考えられる。そこにそれほど大きな時間差は無い。
だが方形建物と竪穴住居は、まったく性格の異なる建物である。土地利用の状況が大きく変化している。二つの建物群には時間差があると考えるべきである。
竪穴住居群が古墳時代前期前半なら、方形区画建物群はそれ以前なのである。

 配布資料には、秋津遺跡年代推定の根拠が何であるか記されていない。詳しいことは解らないが、たぶん次のような状況から判断されたと推測する。
方形区画の北側は流路で区切られる。その北側から多量の土器片が出土している。ゴミ捨て場のような場所と考えられる。そこから出土した土器は布留1式、2式とされる。布留1式、2式の年代は4世紀前半とされ、このことから橿考研は遺構の年代を4世紀前半と推定したのであろう。

だが方形区画の範囲からは目立った出土遺物は少ないとされる。年代推定の決め手を欠いている。もし竪穴住居群の年代が布留1式、2式に対応するものとすれば、方形区画の年代はそれより古いのである。
その事を示す、出土遺物がある。多孔銅鏃である。多孔銅鏃は東海地方を中心として出土する銅鏃である。

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多孔銅鏃は2世紀から3世紀前半の遺物

 次の「東日本における青銅器の消長」という図は、東海地方の出土遺物に詳しい、愛知県埋蔵文化財センター副所長、赤塚次郎氏による青銅器の編年である。

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図の赤線で囲んだ部分が多孔銅鏃の年代である。この編年によれば、多孔銅鏃はおよそ2世紀前半から3世紀前半の遺物である。この編年を正しいとするなら、多孔銅鏃の最も新しい年代をとっても3世紀中頃を下らないのである。
だが秋津遺跡の年代を、この多孔銅鏃1点のみで決定するにはリスクがある。そこで昨年の現地説明会で展示されていた土器片の写真を、赤塚氏に見てもらった。氏によるとこの中に、多孔銅鏃と同時代と思われる東海系の土器片が、数点存在するとする。

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3世紀前半以前にさかのぼる遺物は、多孔銅鏃だけではないのである。土器片も存在するのである。
もはや秋津遺跡が4世紀前半などという橿考研の見解は受け入れがたい。そうでなければ、多孔銅鏃やそれと同時代の東海系土器の出土を説明できない。

大本営発表を鵜呑みにしてはいけない

 橿考研は、日本最多の考古学研究者をかかえる国内最大の考古学研究機関である。
とりわけ奈良県における研究機関としては、最も評価の高い研究所である。
京奈和自動車道の建設に伴う遺跡の事前調査では、この研究所が主導的役割を果たしている。
だが橿考研は、桜井市の纒向こそ邪馬台国の王都と考えている。また後の大和朝廷は纒向あたりで興ると考えている。
したがってここ室の地を邪馬台国の王都や、後の大和朝廷との関連で考えることなど無い。
一方マスコミは、橿考研の発表を垂れ流すだけである。検証能力はゼロである。そんな橿考研の発表資料とマスコミ情報のみに頼っていたのでは、大きな間違いを犯す。
3.11原発事故を予見できなかった、原子力安全保安院の見解を鵜呑みにしたような過ちを犯す。

 この室の地は『日本書紀』や『古事記』が伝える、六代孝安天皇秋津島宮伝承地なのである。秋津島宮の遺構が出土しても何ら不思議は無い。
だが今日の研究者の多くが、欠史八代の天皇の実在を信じない。したがって秋津島宮の実在も信じない。
もし3世紀前半の大型建物の遺構が出土したとしても、葛城氏の豪族居館くらいで片付けてしまうのである。
私は調査地が更に南西方向に広がれば秋津島宮の一部が出土すると予想している。
東海を始め、瀬戸内海周辺から持ち込まれた土器の出土は、葛城氏という地域豪族の居留地にはとどまらないことを示唆する。

2011年12月20日

初期大和朝廷の王都

記紀が伝える初期大和朝廷の宮

日本書紀や古事記が伝える初期大和朝廷の宮の場所は下記のようなものである。

1 神武 畝火之白檮原之宮
2 綏靖 葛城高丘宮
3 安寧 片塩浮穴宮
4 懿徳 軽曲峡宮軽之境崗宮
5 孝昭 掖上池心宮
6 孝安 室秋津島宮
8 孝元 軽之境原宮

詳しくはこちら
http://www.lib.yamagata-u.ac.jp/elib/serials/hgca/004/4-00010012.pdf

何れも奈良盆地の南である。宮が現在の奈良市や桜井市などの奈良盆地東北部に移るのは、九代開化以降である。
初期大和朝廷の宮は奈良盆地南部なのである。
中でも、現在の御所市には二代綏靖の高丘宮、五代孝昭の掖上池心宮、六代孝安の室秋津島宮が存在したという伝承を持つ。御所市近辺は初期大和朝廷の源郷の地なのである。

秋津島宮が出土する

問題はこの日本書紀や古事記の伝承を、歴史的事実として信じるか否かである。
今日の研究者の大部分は、欠史八代の実在を信じない。したがって室秋津島宮や掖上池心宮の実在を信じるはずも無い。

今その秋津島宮伝承地の近くから、方形区画と称される、特殊な建物遺構群が出土した。一地方豪族の建物遺構とするにはその規模が広大である。

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しかもそこから、東海地方の土器を始め、瀬戸内海周辺や中国地方の土器が出土している。それはここが初期大和朝廷の王都で在ったことを示唆する。

そしてこの遺構の年代は、多孔銅鏃や、それと同時代と思われる東海系土器片などから、3世紀前半あるいは2世紀末までさかのぼる可能性がある。

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もちろん現在出土している方形区画は、秋津島宮そのものではない。だが更に西南に調査が進めば、秋津島宮の本体が出土する可能性がある。

宮室、楼観、城柵が出土すると予想する

単に大和朝廷の歴代天皇の宮が出土したと言うだけなら私もこれほどむきに成ることはない。調査を行って、記録に残し、埋め戻す事もやむを得ない。
だが私は秋津島宮こそ卑弥呼の王宮と考えている。広範囲に発掘調査を続ければ、『魏志倭人伝』に記された、宮室、楼観、城柵が出土すると予想する。
出土した遺構が豪族居館跡というような、認識で埋め戻されることに異を唱えなければならないと考える。



2012年03月15日

秋津島宮が出現している

秋津遺跡の調査主体である橿考研の現地説明資料では、この遺構は四世紀前半の遺構とする。
しかし私は竪穴住居群は四世紀前半であっても、方形区画建物群は二世紀末あるいは三世紀前半までさかのぼると考える。

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その理由である。

竪穴住居が方形区画建物を切り崩す

すべての遺構で竪穴住居が方形区画建物を切り崩す。二つの建物群が混在したわけではなく、方形区画建物が古いのである。

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しかも方形区画建物は同一場所で3回は立替られる。その間に竪穴住居がそこに建てられる余地は無い。

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そして竪穴住居も少なくとも2回は建て替えられる。仮に20年毎に建て替えられたとすれば、この建物群の存続期間は100年を下らないであろう。

二つの建物群には時間差がある

方形区画建物の塀に沿って流路が存在する。区画建物と一体で、同時代の流路である。
不思議なことに竪穴住居のいくつかがこの流路の上に建てられるのである。

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このあたりは広大な平野部である。あえて湿潤な流路の上に住居を建てなければならない理由などない。
考えられるのは、流路がその機能を失い、干上がって埋没した後に、竪穴住居が建てられたと考えられる。
方形区画建物群と竪穴住居群との間には時間差がある。
方形区画建物が存続した期間、それに流路が埋没するまでの時間そして竪穴住居が存続した期間の合計は150年以上になるであろう。

竪穴住居が作られなくなった時期が四世紀の中頃とすれば、最初の方形区画建物が作られるのは三世紀初めあるいは二世紀末なのである。

方形区画建物は三世紀前半

方形区画建物が三世紀前半と言うことを裏付けるのが、多孔銅鏃の出土である。多孔銅鏃は二世紀前半から三世紀中頃の遺物とされる。これ1点のみなら何らかの理由で、古いものがまぎれ込んだという推測も成り立つかもしれない。しかしこの多孔銅鏃と同時代の東海系土器も出土しているのである。

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私は方形区画建物群の年代は三世紀前半までさかのぼると考える。

秋津島宮の一部または周辺の建物

ここは六代孝安秋津島宮の伝承地である。私は「男弟有て佐けて国を治む」とするこの男弟を孝安とする。したがって孝安の実年代は卑弥呼の在位年代に重なる。その実年代は三世紀前半である。
今この秋津島宮の伝承地あたりから、三世紀前半の特異な建物遺構が出土している。
私は秋津島宮、あるいは近辺の同時代の遺構と考えている。

2012年09月23日

方形区画施設の年代

下の図はたぶん橿考研によって描かれた、方形区画施設1.2.3.4.6のイメージ図であろう。

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方形区画施設と名づけられた、塀が囲む高床式の建物は一般的な住居ではない。これだけ大掛かりな塀に囲まれる建物は、かなり特殊な建物である。
一方、図の左下に描かれたような竪穴建物は、一般的な住居である。

橿考研はこのように方形区画施設は高床式の建物を囲んでいたと推測するのである。
にもかかわらず、三回に渡って建て替えられた最後の方形区画施設の年代を、SB0001aとされる竪穴建物と同時代とする。

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nenndaijyunni-1.gif



SB0001aはその切り合い関係から、大型建物SB0029→SB0001b→SB0001aの順序で建てられた事が解っている。
SB0001aと最後に建て替えられた方形区画施設6とを同時代とする限り、そこには大型建物SB0029は存在しないのである。
大型建物を囲んで方形区画施設が建て替えられたとする記述と矛盾する。

私は方形区画施設が図のように大型建物を取り囲んで建て替えられたという認識は正しいと考える。
問題は方形区画施設6とSB0001aとを同時代とする推測に問題があると考える。

同時代とする根拠は、方形区画施設6の柱穴から出土する炭化物を、火災で焼失したとされるSB0001aの炭化物とすることによる。
しかしその炭化物が本当にSB0001aの物かどうか確かな決め手は何も無い。同時代とする根拠は、このような脆弱な論拠の上に成り立つ推測なのである。
おそらく方形区画施設6とSB0001aを同時代とする推測が誤りなのである。

私は次のように推測する。

方形区画施設はイメージ図が示すよう、大型建物を囲んで三回に渡って建て替えられたと考える。当然最後の方形区画施設6も、大型建物の為に建てられたのである。
すると次のような関係が推測される。

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そして焼失したSB0001aの布留古相あるいは中相の年代から遡れば、最初に造られた方形区画施設3の年代は相当古いのである。私は二世紀の末くらいまで古くなる事を予想している。




2013年03月16日

橿考研は方形区画施設の年代を誤っている

 秋津遺跡から出土した方形区画施設と称される堅固な塀がめぐる建物遺構の年代を、橿考研は多量に出土した布留式土器の年代から四世紀前半とする。
だがこの認識は誤りである。確かに数多く確認されている竪穴建物の年代は、布留式時代のものであろう。これは一般的な住居である。
一方、広大な塀が高床式の建物を取り囲む遺構の年代は、竪穴住居が存在していた時代との間に年代の差がある。

竪穴建物と高床式建物とは年代が異なる

その理由の一つは、図に示した方形区画施設6の内部に存在する建物の年代である。

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報告書の中で、塀は3、2、6の順序で、高床式建物を囲んで少なくとも3回建て替えられたとする。そしてその高床式建物を、2度に渡って建て替えられた竪穴式建物が切り崩す。したがって年代順は大型建物SB0029→竪穴建物SB0001b→竪穴建物SB0001aである。そしてこの竪穴式建物SB0001aの年代を布留古相または中相とする。
これだけ堅固な塀が取り囲んでいたのは、報告書が「高床式建物を囲んで」とするように、竪穴建物ではなく高床式建物なのである。
したがって、布留時代の竪穴式建物が切り崩す高床式建物の年代は、それより古く、しかもそれを取り囲む塀は、少なくとも3度は建て替えられている。
建て替えのサイクルをどのように見るかは難しいが、20年毎とすれば、最初の塀は布留時代の60年前ということになる。

更に図の竪穴住居1、2は方形区画施設1と3を切り崩す。

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重要な建物を取り壊して一般の住居が建てられるとは考え難い。竪穴住居がここに建てられるのは、方形区画施設が消滅して、相当時間が経過した後であろう。方形区画施設と竪穴建物の間には相当大きな時間差がある。


もう一つ重要な徴候がある。
小さな流路である溝が、方形区画施設の塀に沿って認められる。この溝跡の上に竪穴住居が出現する。

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住居を建てる場所として、水の流れるような湿潤な溝の上に住居を建てることは無い。
考えられるのは溝がその機能を失って、干上がり、埋まった後に、住居が建てられたと云うことである。
溝が存在していた時代と、竪穴住居が造られるようになる時代との間には、相当の年代差がある。

布留式以前の遺物が出土している

橿考研がこの方形区画施設の年代を三世紀前半に遡らないとするのは、庄内式の土器が出土しないからである。
だが庄内式土器が出土しないとしても、明らかに二世紀代から三世紀と思われ遺物が出土している。
それは多孔銅鏃である。

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多孔銅鏃一点のみであれば、たまたま古い時代の遺物が何らかの理由によって、まぎれ込んだとも考えられる。しかしながら、この遺物の編年に詳しい研究者に出土遺物の写真を見せたところ、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器片が存在するとする。

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ここは秋津島宮という王都である。

 秋津遺跡の竪穴建物の年代は布留の時代であっても、塀が取り囲む高床式建物の年代は二世紀末から三世紀前半の遺構である。
ここは六代孝安天皇室秋津島宮の伝承地である。秋津島宮の一部が出土しているのである。
東海系をはじめ瀬戸内海東部、西部、そして山陰あるいは中国地方から持ち込まれたと思われる土器の出土は、ここが王都で有った事を物語る。
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六代孝安天皇の実在を信じない人たちには、この遺構の重要性を理解できない。宮山古墳を造った一族の居館あるいは祭祀建物などとしか想像が及ばないのである。


2014年03月17日

想い込みが認識を誤る

 STAP細胞作成をめぐる報道がなにやら怪しくなってきた。「小保方晴子氏に元気をもらった」とする私も複雑な心境である。
もしSTAP細胞作成の論文が、事実の誤認や実験の不備、あるいは意図的なデータの改ざんによるものであるとしたら残念である。
華々しいマスコミ報道を、何の検証もせず信じた私がバカであったということである。

今回の出来事を教訓とするなら、私の邪馬台国論や卑弥呼論において、論拠となる事実の解釈に誤りがないか慎重を期す必要があるということである。
特定の結論を持って推論を組み立てると、結論に都合のよいデータのみを集め、都合の悪いデータは除外する。あるいはデータを仮説に合うように解釈する。そのような誤り犯していないか検証する必要がある。

 私は秋津遺跡から出土した大規模な建物遺構は、六代孝安天皇秋津島宮の一部またはその関連施設と考えている。
孝安は、私が卑弥呼とする宇那比姫の義理の弟で『魏志倭人伝』が伝える、「男弟ありてたすけてく国を治む」とする男弟に他ならないと考えているからである。
したがって、孝安の秋津島宮の存続時期は、卑弥呼が王位に在った二世紀末頃から三世紀前半でなければならない。

室と言う秋津嶋宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したのである。秋津遺跡が秋津嶋宮と無関係とは思われない。そのような想いで出土遺物の詳細な検討を行った。その結果、出土遺物の中に、多孔銅鏃という遺物が有ることを知った。多孔銅鏃は二世紀代から三世紀前半の遺物とされる。このことから私は、この遺構が二世紀末から三世紀前半まで古くなると確信する。
調査主体の橿考研は、庄内式が出土しないから、この遺構の年代は、布留の古式すなわち三世紀末ごろより古くならないという前提に立つ。したがって多孔銅鏃の存在についても、これをもって遺構の年代を古く見ることには否定的である。
同じ遺構を見ても私とは、異なる見え方になるのである。

もともと私の推論の根拠は出土遺物ではない。文献である。孝安は宇那比姫の義理の弟であるという系譜から導かれた結論からである。宇那比姫が卑弥呼なら孝安の秋津島宮の存続時期は二世紀末から三世紀前半で秋津遺跡もその時代の遺構という推論である。そこで調査報告書を詳細に読んでみた。

橿考研の報告書は重要な点で矛盾する


奈良県遺跡調査概報(第二分冊)2010年度版、とされる橿考研による報告書のP225からP231である。
私が最も関心を持つのは、第1遺構面とされる、古墳時代の方形区画施設、掘立柱建物、竪穴建物の出土した遺構である。


その出土状況の写真である。
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そしこれを元に橿考研が描いたイメージ図である。
 
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だがこのイメージ図と報告書の間には重要な点で矛盾がある。

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 橿考研が方形区画施設と名づける柵あるいは垣または塀と思われる構造物がある。その方形区画施設は3→2→6の順序で造り替えられたとする。
さらにその中の建物は、大型建物SB0029→竪穴建物SB00101b→SB00101aの順序で立て替えられたとする。
一方SB00101aの床面から出土した炭化物によりこの竪穴建物は火災に会ったと考えられる。同じような炭化物が方形区画施設6の柱穴からも出土したことにより、SB00101aと方形区画施設は同時代とするのである。
問題はこのような論理の組み立てによって、次のような図を示す。

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しかしながらこの考察は報告書のP238で記す、次の記述と矛盾する。
「SB0028、SB0029を囲み同位置で造り替えの行われた方形区画3、2、6」とする記述である。
SB00101aと方形区画6を同時代とする限り、SB0029はすでにそこには存在しないのである。方形区画6がSB0029を囲むことはできないのである。これは方形区画6がSB0029を取り囲んでいるイメージ図とも矛盾する。

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私はSB00101aと方形区画6とが同時代とする推論に誤りがあると考える。
方形区画6が取り囲む建物は、イメージ図にあるように、SB0029という高床式の大型建物であろう。竪穴建物は一般的な住居建物である。それをこのような堅固な塀が取り囲むことはなかろう。取り囲んでいたのは高床式の大型建物であろう。したがって方形区画6とSB0029が同時代であろう。その関係を図示すれば次のようになろう。

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3→2→6の順序で立て替えられた方形区画3の年代は、布留古、中相とされるSB0010aからさかのぼれば相当古い。
私は二世紀末あるいは三世紀初めということも十分ありえると考える。

 私たちは専門外の事や難しい事については、ついつい専門家の見解を鵜呑みにしがちである。今回の小保方晴子氏のSTAP細胞作成の論文も私にとっては、まったく解らない分野であり、詳細に検証してみる動機も意向もないまま、最初の華々しいマスコミ報道を鵜呑みにした。

だがここに取り上げた橿考研の秋津遺跡調査報告は、私にとって極めて関心の高い事柄である。それゆえ報告書を詳細に読み込んだ。その過程でこの報告書には、年代推定に誤りがあると考えている。庄内式が出土しないから、この遺構の年代は布留式の時代をよりは古くならないという先入観である。これが年代推定を誤らせている。
橿考研は我が国最大の考古学者を抱える研究機関である。その研究機関による調査報告である。だがその報告書の内容は、無批判に受け入れるには極めてずさんである。

 そもそも今日の考古学者の大部分は、孝安天皇などという人物の実在を信じていない。したがって秋津島宮など信じる訳も無い。仮に秋津島宮の伝承地とされる室の地で大型建物遺構が出土したとしても、それを秋津島宮との関連で考えることなど無い。
私はそのことを一番危惧している。この遺構を単に豪族居館跡くらいの認識で片付けられることを恐れているのであう。仮にここが秋津島宮であっても、単に歴代天皇の宮の一つに過ぎないと言うだけなら調査の後、記録に残して、自動車道の橋脚の下に埋め戻されてもやむを得無いと考える。だが私の仮説では、ここは卑弥呼の王宮であり、その王都の建物跡である。万全の保存処置と、更なる周辺の調査が必要と主張するのである。

2015年01月06日

欠史八代天皇は実在した

今日の研究者の多くは欠史八代の天皇は実在しないとする。だが私は間違いなく実在したと考える。そのことを論証する。
古代有力豪族系譜の中に、欠史八代の天皇が登場する。一例を挙げるなら物部氏系譜には、欠史八代のすべての天皇名を見る。そして物部氏の歴代の人物が、これらの天皇に仕えたり皇后になったとする。図は各氏族の系譜上に見る天皇名である。
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もしこれらの天皇が実在しないとすれば欠史八代の天皇に仕えたり、皇后になったとする古代有力氏族系譜もすべてが架空系譜となる。
これらの系譜が架空系譜でないとする理由がある。それは有力豪族の系譜同士が婚姻を通じてつながり、世代位置や世代数におおむね整合性がある。このような関係を持った架空系譜を創作することは不可能と考えるからである。しかも一つの系譜は他の系譜とつながり、その系譜はまた別の系譜とつながる。一定の期間をとれば、すべての古代有力系譜がつながってしまうのである。それぞれ独自に成立した系譜同士が、年代に矛盾をきたさないでつながるということは、これらの系譜が事実に基づく伝承であることの証である。
欠史八代とされる天皇たちもこの系譜関連と密接な関係にある。したがって欠史八代とされる天皇も実在したのである。
ただし『日本書紀』が伝えるこれらの天皇の年次や寿命が史実で無いことは明らかである。だが私は古代有力豪族系譜の中にこれらの天皇が登場することから、『日本書紀』の年次や寿命の記事を以って実在を否定するのは軽率すぎると考える。

実在の天皇なら宮や墓は存在したはず

欠史八代の天皇が実在したとすれば、これらの天皇が営んだ宮や彼らが葬られたとされる墓も実在したはずである。
問題は今日の研究者の多くが、その実在を信じないことである。したがって室秋津島宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したとしても、それを秋津嶋宮との関連で捉えられないことである。
六代孝安天皇は私が卑弥呼とする宇那比姫命の義理の弟である。宇那比姫命には6人の兄があるが弟は居ない。したがって『魏志倭人伝』が『男弟有りて佐(たすけ)て国を治む』とする男弟は孝安に他ならないと考える。秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮でもあったと考えるわけである。卑弥呼の活躍した年代は二世紀末から三世紀前半である。したがって秋津嶋宮の実在時期もこの時期でなければならない。
後に秋津遺跡と名付けられたこの地から、塀に囲まれた特異な建物遺構が出土した時その年代を尋ねた。すると布留式土器の時代であるとの事であった。すかさず庄内式土器の出土はと尋ねた。庄内式は出土していないという返答であった。その時点で私は私の予想は大きく外れたと思った。布留式の時代であれば三世紀末を大きくさかのぼることは無いからである。秋津嶋宮の実在した年代ではないと思ったからである。
だが室(むろ)という秋津嶋宮の伝承地から出土した建物遺構が、秋津嶋宮と無関係のはずはないという思いが有った。そこで秋津遺跡から出土した遺物を詳細に検討する中で、多孔銅鏃という二世紀代から三世紀前半とされる遺物を見つけたのである。
takoudouzoku.jpg秋津遺跡の年代が卑弥呼の時代までさかのぼると確信した瞬間である。

後に調査主体の橿考研による発掘概報を読んでみると、橿考研が方形区画施設と名付ける建物遺構の年代推定に矛盾があることが解った。
報告書によると、最後に建て替えられた塀と、布留中相または古層とされる竪穴建物を同時代として方形区画施設の年代を布留式土器の年代とする。

akitu-nennda.jpg

しかしこの推定には大きな矛盾がある。もし最後に建て替えられた塀と竪穴建物が同時代なら、図に描かれる高床式建物は存在しないのである。遺構の斬り合い関係から、高床式建物は二度にわたって建て替えられた布留の時代の竪穴建物に置き換わっているとされるからである。最後に建て替えられた塀が高床式建物を取り囲むこのイメージ図は間違いという事になる。
だがおそらくイメージ図が正しい。竪穴建物は一般的な住居であろう。一方高床式建物は特殊な建物である。これだけ重厚な塀が取り囲む建物は、このイメージ図に描かれる高床式建物であろう。
だとすると最後に建て替えられたとする塀の年代は高床式の年代である。この高床式建物は二度にわたって建て替えられた、布留の時代の竪穴式建物に切り崩されるから、それより古い。さらに高床式建物を取り囲む塀は三度にわたって建て替えられているとする。建て替えのサイクルがどの程度であるか不明であるが、最初の塀が建てられたのは、布留の時代を相当さかのぼることが予想される。私はこの方形区画施設と称される建物遺構が三世紀前半まで古くなると確信する。

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秋津嶋宮の関連施設の一つが出土しているのである。
私は秋津嶋宮の実在を信じるからこそ多孔銅鏃の存在に注目し、橿考研の方形区画施設の推定年代に疑問を持つのである。
一方調査主体の橿考研は、そこから多量に出土した布留式土器の年代と庄内式土器が出土しないことからこの遺構は三世紀後半をさかのぼることは無いとするのである。
孝安天皇という天皇の実在を信じるか否かによって見える風景が全く異なるのである。自分が持つ歴史観や先入観によって見え方が異なるのである。

ここでも見え方が異なる

私は同じような見え方の違いを他でも味わった。
孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟であるから、径百余歩とされる卑弥呼の墓も、この秋津嶋宮伝承地の近くにあると推測した。この秋津遺跡の東1q離れた玉手山に不思議な形の尾根を見たのである。
私は巨大円墳の可能性を感じ、現地踏査を試みた。古墳であることは確信した。
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当初そこを踏査した地元教育委員会は、そこは自然の尾根で古墳ではないと判断した。だが後にそこから遺物が出土したことにより、地元教育委員会もそこが古墳であることを認めた。
No1墳丘盛り土裾あたりから出土した土器片
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No2とする尾根の墳頂あたりから出土した土器片。
doki-No2-5.jpgdoki-No2-01.jpg

巨大古墳など在るはずがないとする認識と、そのあたりに巨大古墳が存在するかもしれないという認識の差が、自然の尾根か古墳とするのかの見え方の差になったのである。
そこが古墳であることは意見の一致を見たが、尾根全体を墓域とする古墳であるか否かは見解が分かれる。
同じ風景を見ても見え方は全く異なるのである。
あなたには下の写真はどのように見えますか?
No1-ennkei.jpg

Yahoo地図の航空写真
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2015年08月20日

今、卑弥呼の王宮が明かされる。(中西遺跡新聞発表から)

 8月19日橿原考古学研究所は、秋津遺跡の南側に隣接する中西遺跡で、二六棟の竪穴住居跡を確認したと発表した。
秋津遺跡の建物遺構と同一の方位によって建てられており、両者は一体の遺跡である。計画的に配置された集落としてはこの時代最大規模である。
調査担当者の今尾文昭調査課長は「集落の規模や構造から葛城地域の首長では収まらず、初期の大和政権が運営していた祭祀用の集落ではないか」と分析している。

橿原考古学研究所は、この遺跡の重要性を全く理解していない。
ここは祭祀用の遺跡ではない。秋津嶋宮という大和朝廷の王宮の場所である。それは卑弥呼の王宮でもある。今、卑弥呼の王宮とその周辺の遺構が出土したのである。祭祀の目的で大和朝廷がこのような大規模な建物群を建造することなど考えられない。また一豪族の建物群でなく、大和朝廷(大和政権)が運営した遺構であるとは、調査担当者も認めるところである。

問題は橿原考古学研究所が考える、この遺構の年代である。橿原考古学研究所は、この遺構の年代を古墳時代前期とするが、古墳時代前期に収まるはずがない。
そのことを実証する科学的データがある。橿考研は秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代測定を行っている。その測定値のいくつかは、古墳時代前期に収まらない。特に方形区画施設の塀や、その内部に存在する高床式建物の年代は、もっと古い年代を示している。
この事については何れ詳しく述べるつもりだ。とりあえず19日の新聞記事を見たので書き込む。

2015年09月06日

炭素年代測定値は古墳時代前期に収まらない

 秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代測定値が、橿原考古学研究所の報告書に記載されている。(奈良県遺跡調査概報 2013年度第二分冊)その炭素年代測定値のデータは次のようなものである。
akitu-Radiocarbon.gif
報告書では「北半球で用いられる較正曲線IntaCal09に対し、日本産樹木年輪試料の測定値が系統的に異なる」として「現時点では、炭素年代値記載のみに止めた」たとする。したがって暦年(実年代)の推定については記載しない。
確かに日本列島で出土した遺物の炭素年代測定値を、北半球の標準となるIntCalで較正すると、暦年代が実際より古い年代となる可能性がある。
しかしながらこの差を考慮したとしても、秋津遺跡から出土した遺物の暦年代は相当古い。それらのいくつかは古墳時代前期には収まらないと考える。
次の表と図は秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代を、IntCal13を用いて暦年代に較正したものである。較正には次のサイトで提供される分析ソフトを用いた。https://c14.arch.ox.ac.uk/embed.php?File=oxcal.html
%の68.2=1σ 95.4=2σの範囲
IntaCal13-Fig1.gif
グラフは2σの範囲
Akitu-IntaCal13(1).gif
Akitu-IntCal13.gif


日本列島の遺物を、北半球の標準となるIntCalで較正すると、実際の年代より古い値を示すとされる。それは、太平洋に面した日本列島では、南半球の大気に影響を受けることによるとされる。
この説によれば日本列島で出土した遺物は、IntCalで較正した暦年代より新しく、南半球の較正曲線SHCalで較正した暦年代より古い可能性がある。その場合、南半球の較正暦年より新しくはならないと考えられる。
そこでSHCalでの較正を行った数値も示す。
ShCal-Fig-1.gif
Akitu-SHCal13.gif

秋津遺跡からの出土遺物暦年代は、先に推定したIntaCal13とこのSHCalの間に収まると考えられる。
次の図は、方形区画施設2についてIntCal13とSHCal13で較正した図である。二つの図から方形区画施設2の年代を考察してみる。
【IntCal13】
IntaCal13-Fig4.gif
【SHCal13】
SHCal-Fig-4.gif

IntCal13では新しく見ても西暦250年頃よりは新しくならない。SHCal13では300年代という可能性も有るが、可能性の高いのは3世紀の前半である。SHCal13の3世紀前半より新しくはならないと考える。

さらに炭素年代測定値は無いが、方形区画施設3は方形区画施設2より古いのである。古墳時代前期の可能性など無い。この方形区画施設2および3が卑弥呼の在位年代の物であっても何ら矛盾はない。

また、方形区画施設の中の、高床式建物SB0040とSB0030bはさらに古い年代を示す。
試みにIntCal13とSHCal13で較正したグラフを示す。
SB0040.gif
SB0030b.gif

IntCal13で校正すると卑弥呼の時代とするには古すぎる年代となる。だがSHCal13で較正した年代より新しくはならないとすれば、まさに卑弥呼の在位年代の建物である。この建物の年代を古墳時代前期とするためには、SB0040やSB0030bは百年以上経った巨木の、中心部測定値とでもする必要が有る。無理な想定であろう。
特異な建物である方形区画施設を、古墳時代前期などという推論は、炭素年代測定値が否定する。そのために橿考研は、これらの炭素年代値の暦年較正をスルーするのである。










2015年11月06日

秋津嶋宮の南北範囲が解ってきた

秋津遺跡の発掘調査は今も続いている。現在インターチェンジのループ部分の調査が行われている。自然流路を利用した濠のような溝が出土している。akitu-mizo02.jpg 

akitu-mizo01.jpg

akitu-02.jpg

これで秋津嶋宮のほぼ南北が確定した。溝はさほど深くはないがその断面は逆三角形を呈し、人為的に掘られたものであろう。王宮の南側を区切る堀あるいは濠の様なものであろう。写真2本の青色点線で示したのが新しく発掘によって確認された溝である。以前確認された北側の流路とに挟まれた範囲が王宮の場所である。東西の範囲は今一つ不明である。

akituiseki201511.jpg

発掘担当者もこれだけ大規模な遺構が葛城の一豪族のものでないことを認める。大和朝廷と関係する遺構とする。そしてこの遺構を大和朝廷の祭祀遺跡とする。だがここは祭祀遺跡などではあり得ない。秋津嶋宮という王宮である。
もし橿考研が推測するようにこの遺構が、古墳時代前期とするなら、十代崇神や、十一代垂仁、十二代景行あたりの時代である。『記紀』をはじめその他の文献を見ても、崇神や垂仁、景行の時代に、ここ御所市近辺でこのような大規模の祭祀を行ったという記述はどこにも見当たらない。御所市というこの地が『記紀』伝承の中に出てくるのは、二代綏靖の葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)、五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)、そして六代孝安の室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)である。崇神などよりもっと古い時代なのである。このあたりは初期大和朝廷の宮が営まれた場所である。その一つ秋津嶋宮が出土しているのである。
また祭祀建物に、これだけ大規模の濠は必要なかろう。濠の出土は、ここが祭祀遺跡などとする仮説を否定する。

東西の範囲が確定しないので、その規模は不明であるが魏志倭人伝によれば、奴婢千人が仕える王宮である。私は、更に東西に広がるのではないかと推測する。赤の点線で囲んだ辺りである。

2016年06月05日

炭素年代測定による方形区画施設の年代

方形区画施設の年代は卑弥呼の在位年代の物である。そのことを炭素年代測定値が裏付ける。
次の図は日本産樹木年輪の示す炭素14年代とIntCal09とを比較したものである。
tannso14hikaku.gif
出典:国立歴史民族博物館研究報告 第163集 2011年3月
「古墳出現期の炭素14年代測定」
日本産樹木年輪の示す炭素14年代とIntCal09との比較

ヨーロッパ産の樹木を用いて作成された北半球標準の較正曲線IntaCalと年代の解る国産樹木の炭素年代測定値では、1世紀代から3世紀頃に於いて日本産樹木の炭素年代値は、古い値を示すことが解る。
この図に南半球標準較正曲線を書き加えたのが次の図である。
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以前私はこのブログで、日本列島出土試料の推定年代は、南半球標準のShCalで較正した年代より新しくはならないとした。しかし、これは訂正する必要がある。ShCalで較正した年代より大幅に新しくなることは無いが、必ずしもShCalよりは新しくはならないとは言えない。
だがこの遺構が、古墳時代前期に収まらないとする見解に変わりはない。

橿考研が、古墳時代前期とする遺物の炭素年代値は、次のようなものである。
akitu-Radiocarbon.gif

この中で古い炭素年代値を示した掘立柱建物について、日本産樹木のグラフを元に、おおよその年代を推定してみる。
houkeikukaku-nenndai75.gif

炭素年代値1910±20のSB0040、および1900±20のSB0030bは、1世紀から3世紀前半の年代を示す。可能性の高いのは2世紀代である。
どう見ても西暦250年よりは新しくはならない。
また1850±20のSB0085についても300年代という可能性はあるが、可能性の高いのは3世紀前半である。
これらは測定された資料の年代で、それがそのまま建物の存続時期を表すわけではない。だがこれらの年代を古墳時代前期とすることには無理がある。
これらの掘立柱建物は、方形区画施設内部の建物である。方形区画施設の年代に通じると考える。
これは秋津嶋宮の一部であり、それは卑弥呼の在位期間の建物であると、私は考える。すなわち2世紀末頃から、3世紀中ごろに存在したのである。炭素年代測定値はそのことを裏付ける。






2016年07月08日

秋津遺跡の重要性

 1989年(平成元年)2月、佐賀県吉野ケ里遺跡が、大々的に新聞報道されることによって、話題を呼びこの年の来場者は180万人に達した。
この時、重要な役割を果たしたのは、著名な考古学者佐原真氏である。
氏は極めて上手な話法を用いた。楼観、城柵、宮室の3点セットが出土したという話法である。
あたかも邪馬台国と関連する遺構であるかの言い回しである。もちろん氏は邪馬台国九州論者ではない。吉野ケ里が邪馬台国でないと考えていた上での言い回しである。
単に弥生の環濠集落と言うだけなら、これほどまでに多くの関心を集めることは無かった。邪馬台国との関連を持ち出すことによって注目を集め、その重要性を強調したのである。氏のたくみなリードにより吉野ケ里遺跡の保存が実現し、後に国営公園としてし整備されるに至った。

私は、秋津遺跡の重要性は吉野ケ里遺跡の比ではないと考えている。ブレークすれば年間180万人を超える来場者が押し寄せると予想している。
残念ながら私は著名人ではない。現時点で私の発言をマスコミが取り上げることはない。
だがもし調査主体の橿考研が、この遺構の重要性に気づき、マスコミを通じて報道したなら、一挙に国民的関心を集めることになろう。橿考研は日本最多の考古学者を擁する研究機関である。その影響力は大きい。
私は橿考研がこの遺構の重要性をアピールする日を心待ちにしている。しかし桜井市の纏向遺跡こそ、初期大和王権の王都の場所と信じて疑わない人たちに、秋津遺跡の重要性を認識できるのであろうか。