2009年07月16日

卑弥呼は日女命で宇那比姫

京都府宮津市に日本三景の一つとして知られる、天橋立がある。その北側に籠(この)神社と呼ばれる、古い神社がある。
この宮司家に伝わる『勘注系図』と云われる海部氏の系図がある。

系図は初代を天火明命として、800年代末頃までが記される。系図の続き具合等に混乱もあり、すべてをそのまま信じられるわけではないが、丹波の国造(くにのみやつこ)となる、この地域の支配者の系図である。

『勘注系図』では傍系の人の扱いであるが、彦火明命六世孫に、宇那比姫命(うなびひめのみこと)という人が登場する。

この人の別名として天造日女命(あまつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たかのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)という名前を記す。何れも一人の女性の別名である。

注目されるのは大倭姫(おおやまとひめ)である。
『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。

この女性は天皇と同格の、大倭(おおやまと)の名前を持つ。
大倭とは古い時代「大和王権」が支配した国の名である。「大倭」が「大和」となり、後に「日本」となる。大倭姫は大和王権の女王なのである。

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先に大倭姫とは大和王権の女王の名とした。
さらに、この人の別名を、天造日女命(あまつくるひめみこと)とする。
国造(くにのみやつこ)という言葉がある。地域支配者の名前である。これに比して天造日女命は、天下を支配するという意味で天下人を意味する。これもまた女王を意味する名前である。

また、この人は大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)である。『魏志倭人伝』は卑弥呼が鬼道に通じていたことを伝える。宗教者のイメージである。
靈姫(ひるめひめ)もまた宗教的イメージを持つた名前である。

そして日女命である。日女(ひめ)とは高貴な女性を表す普通名詞で姫あるいは媛と同じである。
日女に命(みこと)の尊称が付いたのが日女命である。
この音を異国の人が卑弥呼と書き表しても不思議はない。

大倭姫命、天造日女命、大海靈姫命、日女命は何れも『魏志倭人伝』の卑弥呼のイメージに重なる。

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卑弥呼は尾張氏の人

 宇那比姫すなわち卑弥呼は尾張氏の出である。
尾張氏は天火明命(あめのほあかりのみこと)を始祖とする。神代の事で確かなことは解らないが、天火明命は天照大神の児、天忍穂耳尊(あめのおしほみみ)の子で、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の兄と思われる。

宇那比姫すなわち卑弥呼は天火明命の六世孫とされる。世代数で言えば天火明命を初代として七世代目の人である。

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 宇那比姫は七人兄妹の末の娘である。
父親は建斗米命(たけとめのみこと)で、母親は紀伊国造家の智名曾(ちなそ)の妹とされる中名草姫(なかなぐさひめ)である。




 尾張氏の住んでいたところは葛木高尾張とされる。後の尾張氏は現在の愛知県であるが、元は奈良県の葛木地方である。
この葛木高尾張の正確な場所は今ひとつはっきりしないが、推測の手がかりがある。

葛木に葛木坐火雷神社(かつらきいますほのいかづちじんじゃ)という古い神社がある。
通称笛吹神社と呼ばれる。場所は葛城市笛吹448である。

大きな地図で見る
祭神は彦火明命の児、天香語山命(あめのかごやまのみこと)とされる。

この神社の宮司家である持田家は天香語山命の子孫とされる。この系図に、宇那比姫の三番目の兄、建多乎利命(たけたおりのみこと)が登場する。

そしてこの神社の裏山に建多乎利命の墓があるとされる。
また笛吹神社の境内にある「波々迦(ははか)の木(ウワミズザクラ)」が天皇の即位式の占い用に献上されたとする。

この笛吹神社は尾張氏一族の祀る神社であろう。したがって尾張氏の本拠地とされる高尾張もこのあたりであろう。

また『勘注系図』では、宇那比姫の三番めの兄、建多乎利命の妹として、葛木高田姫という人物が登場する。先代旧事本紀尾張氏の建田背命たち七人の兄妹には登場しない名前である。『勘注系図』では建諸隅命の母親とする人物である。いくら古代でも父母を同じくする兄妹の婚姻はなかろう。したがって葛木高田姫は建登米命の子であるが、建田勢命とは母親違いの兄妹であろう。だとすると三番めの兄、建多乎利命もまた腹違いの兄弟であるかもしれない。

葛木高田姫という呼び方は出身地にもとづくものであろう。
現在でも高田と呼ばれる地域がある。大和高田市である。先の笛吹神社のある葛城市の隣の市である。
したがって葛木高尾張は現在の御所市から葛城市、大和高田市あたりまでを含むのかもしれない。
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2009年08月06日

『魏志倭人伝』の登場人物を探す事ができる。

日女命(ひめみこと)は普通名詞

私が宇那比姫を卑弥呼ではないかと思ったのは、日女命(ひめみこと)の音が卑弥呼に通じる事であった。
だが、日女(ひめ)とは後の姫(ひめ)あるいは媛(ひめ)で、高貴な家柄の女性を呼ぶ普通名詞である。
したがって、日女命という音の類似だけでは卑弥呼と断定するわけにはいかない。
六世孫日女命を卑弥呼と確信したのは、この人は世代位置から、三世紀前半の人と確信したからである。

六世孫日女命は三世紀前半の人

私は大和王権の初代とされる神武は、二世紀初頭の人と考える。107年後漢に朝貢した倭国王は、神武と考えているからである。

そして十代崇神は古事記の崩御干支から318年に没したと考えている。その活躍年代は三世紀末であろう。

私が卑弥呼とする宇那比姫はちょうど、この神武と崇神の中間あたりの人である。
一世代の平均的な世代差は25年から30年くらいの間にある。
宇那比姫は、神武世代から数えて四世代後、崇神時代から遡って三世代前の人である。ほぼ三世紀前半の人として間違いない。

『魏志倭人伝』の登場人物

幸いな事に各氏族とも神武世代の人物が誰か判明する。また崇神時代の人物も判明する。
『魏志倭人伝』に登場する人物と一致すると思われる人物が、ちょうど宇那比姫と同世代か一世代後に集中する。
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たとえば景初二年(238年)に魏に使いした難升米(なしょみ)は中臣氏の梨迹臣(なしとみ)であり、この時の次使、牛利(ぐり)は由碁理(ゆごり)である。
いづれも卑弥呼の一世代後の人物である。
卑弥呼が魏に遣使したのは晩年である。卑弥呼王権を代表して大陸へ赴いたのは、壮年の梨迹臣と青年の由碁理であったとすれば極めてよく理解できる。
また正始四年(243年)に魏に赴いたのは伊聲耆(いせり)すなわち梨迹臣の弟、伊世理(いぜり)である。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/himiko1/403-kennsi.htm

さらに『魏志倭人伝』は邪馬台国の官として四人の名前を記す。
筆頭に記される、伊支馬は倭氏の邇支倍(にしば)であろう。
http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/himiko1/401-yamatosi.htm

宇那比姫を卑弥呼と仮定する事によって、同時代か一世代後に『魏志倭人伝』の登場人物を探す事ができるのである。
このような音の類似と系譜上の世代位置の一致は、偶然では起こりえないと考える。
したがって卑弥呼は、尾張氏の宇那比姫で間違いないと考える。
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2009年08月10日

卑弥呼がなぜ丹波の系図に登場するのか

『勘注系図』に登場する卑弥呼 
 最初私は、丹波国造の系図である『勘注系図』に、宇那比姫すなわち卑弥呼を見た。
そのために卑弥呼は、丹波の出身ではないかと思った。しかしこれは間違いであった。

『勘注系図』を深く知るようになると、宇那比姫は丹波の系譜の中では傍系の人ということが解った。宇那比姫は尾張氏の人である。

なぜ丹波の系譜に尾張氏の人物が登場するかである。
それは、古い時代の丹波は尾張氏の支配地であるという理由からである。したがって尾張氏の当主が丹波の当主を兼ねている。
そのために『勘注系図』の当主として、一部尾張氏の当主が登場する。
下の系図の六世孫建田勢命、七世孫建諸隅命、八世孫日本得魂命は尾張氏の当主でありまた海部の当主でもある。

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『勘注系図』の卑弥呼は傍系の人という扱い
 また『勘注系図』という丹波の支配者の系図の中に、傍系の系譜として尾張氏の系譜が併記されるのである。
先に見た建多乎利命も傍系の系譜として、『勘注系図』に登場している。
私が卑弥呼とする宇那比姫も六世孫建田勢命と同じ世代に単独で記される。系図上でどのような関係にあるのか不明である。しかしこれは『先代旧事本紀』尾張氏系譜を見れば、宇那比姫が建田勢命を長男とする七人兄妹の一番末の妹であることが解る。

卑弥呼は尾張氏の生まれで、おそらく生まれたのは葛城高尾張であろう。丹波ではなく大和である。

http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/3-1keizuhoakari-otunane.htm
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丹波に府を置いた卑弥呼の兄弟

 最初に丹波に赴いたのは、建田背命である。『勘注系図』では建田勢命と表記する。建田勢命は男六人、女一人の七人兄妹の長男である。また卑弥呼はその末の妹である。
『勘注系図』はその注記の中で、建田勢命は最初、丹波の宰(みこともち)となって丹波に着任したとする。後に山背(やましろ)の久世水主村(くぜみぬしむら)に移る。現在の京都府城陽市久世である。そして更に大和に戻ったとする。

http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/2-06-1takedase.htm

建田勢命が丹波で府を置いた場所がある。現在の京都府京丹後市久美浜町海部(くみはまちょうかいべ)である。ここに建田勢命の館跡という伝承地がある。また近くの矢田神社は建田勢命とその子供、建諸隅命を祭神とする。

その後建田勢命は山背(やましろ)に移る。したがって丹波で建田勢命の後を継いだのが
次男の建宇那比命の子供、笛連王と思われる。
なぜなら江戸時代に編纂された『丹哥府志』(たんごふし)に、次のような興味深い記述がある。

『神服連海部直(人皇七代孝霊天皇の御宇に熊野郡川上の庄に国府を造る)の子、笛連王(ふえのむらじのきみ)母を節媛(ふしひめ)といふ、人皇八代孝元天皇に仕へ奉り、丹波与謝郡比治(たんばよさのこうりひじ)の里、笛原に国府を造る、比治は今丹波郡比治山の麓、五箇の庄なり。

海部直の子供、笛連王の母親を節媛(ふしひめ)とする。
節媛とは二番めの兄弟である建宇那比の妻、節名草姫であろう。したがって最初建田勢命が久美浜に府を置き、建田勢命が山背に移った後、弟の建宇那比かその子供笛連王が、現在の京丹後市峰山町五箇に府を置いたと思われる。

http://kodai.sakura.ne.jp/keizudeyomitoku/108fu-dennsyouti.htm
そして建田勢命の子供、建諸隅命は現在の京丹後市丹後町竹野に府を置く。
『勘注系図』によれば建諸隅は、亦の名を竹野別(たかのわけ)と云う、それが竹野(たかの)という地名の由来とする。この建諸隅は、九代開化の妃になった竹野媛(たかのひめ)の父親、丹波の大県主由碁理(おおあがたぬしゆごり)でもある。
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赤坂今井墳丘墓の被葬者
 ここに、築造の時代とその場所から、笛連王の母親、節名草姫と関係しそうなお墓がある。
赤坂今井墳丘墓である。
赤坂今井墳丘墓は、峰山町から網野町に抜ける山の中にある。大きさは東西約36m、南北約39m、高さ4mで山側から張り出した尾根を削り、台形の墓とする。築造の年代は三世紀前半とされる。
墳頂には6基の埋葬施設があり、一番大きい中心の埋葬施設には長さ7mの巨大な木棺が埋葬されているとされる。保存技術上の点から未発掘のまま保存されていると聞く。

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6基の内、第4主体と名づけられた埋葬施設から、ガラス勾玉や管玉を豊富に使用した豪華な「頭飾り」が出土している。同時代としては類を見ない豪華な品である。
また墳丘の大きさも、同時代としては最大規模である。
http://www.city.kyotango.kyoto.jp/cms/shisei/singikai/kekka/bunkazaihogo/documents/0408.pdf

この地域の権力者の墓であることは云うまでもない。

興味深いのはその築造年代と場所である。
三世紀前半といえば卑弥呼の時代である。私は笛連王の母親の名前から、卑弥呼の二番めの兄、建宇那比命が丹波に居たと推測する。
その子供、笛連王が府を置いたとされる五箇の庄は、この赤坂今井墳丘墓のある峰山町である。
一般に大型の古墳が造られるのは平野部のはずれで、居住地から遠望できるような場所が多い。ところうがこの赤坂今井墳丘墓は、峰山町から網野町抜ける山中である。下の写真は墳丘の上から近辺を撮った写真である。

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だがこの場所は、建田勢命が府を置いたとされる久美浜町海部(くみはまちょうかいべ)や、その子供、建諸隅が府をおいた丹後町竹野からアクセスの良い場所である。何れからも参集しやすい場所なのである。
そこに、こんような山中に造られた理由があるように思う。
すなわち、この赤坂今井墳丘墓は、これら峰山町五箇庄、久美浜海部、丹後町竹野に府を置いた、海部一族の墓所と推測する。
もし第四主体の埋葬者が三世紀前半であれば、それに該当する人物として卑弥呼の二番めの兄、建宇那比命の妻節名草姫を想像する。
また最も大きい第一主体の被葬者は建宇那比命ではないかと考える。
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2010年05月12日

宇那比姫を卑弥呼とする五つの理由

第一は『勘注系図』に記される宇那比姫の別名が卑弥呼のイメージと重なることである。

『勘注系図』によればこの人は日女命(ひめみこと)と呼ばれる。
卑弥呼は日女命の音写である。
またこの人の名を、大倭姫(おおやまとひめ)と云う、大和王権の最高権力者の名前を持つ。
更に天造姫命ともする。天造姫命は国造(くにのみやつこ)より上位の名前であり、女王の名にふさわしい。
そして大海靈姫命(おおあまひるめひめのみこと)ともする。靈姫の名は、鬼道に通じていたとする卑弥呼のイメージに重なる。

http://kodai.sakura.ne.jp/konohitogahimiko/102-himiko-unabihime.htm

第二は、同族の系譜に台与に該当する女性が登場することである。

『魏志倭人伝』は台与を宗女とする。
宇那比姫の二世代後、同族の女性に台与に該当する天豊姫(あまとよひめ)という女性が居る。

http://kodai.sakura.ne.jp/konohitogahimiko/103-toyo.htm

第三は、宇那比姫の活躍した年代が、三世紀前半と思われることである。

私は古事記の天皇崩御干支から、崇神が没した年次は318年。そして初代神武の年代を後漢書が伝える、倭国王が後漢に朝貢した107年頃を想定している。
宇那比姫は、神武世代と同世代の天忍人(あめのおしひと)の四世代後、崇神の妃になった八坂振天伊呂邊(やさかふるあまいろへ)の四世代前の人である。ちょうど二世紀末から三世紀前半に活躍した卑弥呼の年代に重なる。

http://yamatai.sblo.jp/category/776682-1.html


第四は、魏志倭人伝に登場する人物を比定できることである。

宇那比姫を卑弥呼と仮定することによって、魏志倭人伝に登場する人物を確定できる。
それは単に音が似るだけではなく、世代的に整合性がある。またその氏族の立場を反映している。

すなわち邪馬台国の高官、伊支馬(いしば)は、倭氏の邇支倍(にしば)で、彌馬獲支(みまくち)は物部氏の水口(みなくち)であろう。

また239年遣使と成った難升米(なしょめ)は中臣氏の梨迹臣(なしとみ)。都市牛利(としぐり)は、後に丹波の大縣主となる尾張氏の由碁理(ゆごり)であろう。
また正始四年(243年)の遣使、伊聲耆(いせり)は梨迹臣の弟である、伊世理(いぜり)である。
邇支倍が宇那比姫と同世代、水口、梨迹臣、由碁理、伊世理が一世代後である。
そして台与が天豊姫で、後に開化の妃になった竹野媛である。この人は宇那比姫の二世代後である。
これだけの一致は偶然では起こりえない。

http://www.max.hi-ho.ne.jp/m-kat/himiko1/405-sedai.htm

第五は、宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼が受け取ったと考えられる刀が出土していることである。


宇那比姫の夫は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)である。天足彦国押人命は和邇氏(わにし)の始祖とされる。
この和邇氏の墓である、東大寺山古墳から中平銘の刀が出土している。この刀が卑弥呼に贈られた刀であれば、宇那比姫の子孫の墓から出土したことにより、宇那比姫が卑弥呼であることの傍証となる。
http://kodai.sakura.ne.jp/yamato/607-tetukenn.html


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2013年08月31日

卑弥呼の系図

私とて卑弥呼という人物が、ここまで明らかになるとは思いもしなかった。
系譜伝承のすごさを知ることになる。

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PDFファイルはこちら
himiko.pdf

私は系譜という文献の中に卑弥呼や台与を見た。しかしそれのみではその系譜伝承がどこまで正しいかを見極めるのは難しい。
そこで物的証拠を提示することによってその正しさを立証する事に努めた。

『魏志』倭人伝は卑弥呼について「年すでに長大、夫婿無し」とする。夫が無かったとする。
当初、私も卑弥呼は生涯独身の女性で夫は無かったと思っていた。
だが和邇氏系譜により、私が卑弥呼とする宇那比姫には子孫のある事が判明した。
その子孫の墓である東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀を提示することにより、卑弥呼には夫があり、その子孫が在ったことを立証できたと考える。

詳しくはこちら

http://yamatai.sblo.jp/category/872520-1.html

また『魏志』倭人伝は「男弟有りて佐(たす)けて国を治む」とする。卑弥呼の政治を補佐する弟が有ったとする。系譜伝承から弟とは六代孝安天皇であることを突き止めた。
孝安の宮は秋津島宮である。それにより卑弥呼の王宮は秋津島宮であることが解った。
現在京奈和自動車道建設の事前調査で、秋津遺跡と名付けられた遺構から、大型の高床式建物を塀で囲む特異な建物群が出土している。ここは「室(むろ)」という秋津島宮伝承地である。調査主体の橿原考古学研究所は、この遺構の年代を三世紀末から四世紀半ばの遺構とする。
だが私はそこから出土した多孔銅鏃によって、この遺構が二世紀末から三世紀半ばに及ぶことを立論した。またそこからは、東海を初め、瀬戸内海西部、瀬戸内海東部から持ち込まれた土器が出土する。この事を以てここは王都の場所であることを主張する。
秋津島宮こそ卑弥呼の王宮なのである。

詳しくはこちら

http://yamatai.sblo.jp/category/776681-1.html

そしてこの秋津島宮の北東1.5kmのところ玉手山に、径百余歩の尾根と一体になる古墳を発見した。
玉手山は孝安が葬られたという山である。卑弥呼もまたこの山に眠るとしても不思議は無い。
私は、宇那比姫が卑弥呼であることの決め手となる、径百余歩の卑弥呼の墓を提示するのである。

詳しくはこちら

http://yamatai.sblo.jp/category/776680-1.html
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2014年04月19日

箸墓のモデルは卑弥呼の墓

 箸墓は定型化した最初の前方後円墳とされる。
前方後円墳の平面形は鍵穴のようなを形をする。円形に盛られた墳丘に方形または台形状の出っ張りが付く。埋葬の中心施設は、円丘部であることは明らかである。
問題は出っ張り部の役割である。当初私はこの出っ張りは墳丘に至る墓道と考えた。しかし常識的に考えて、平地に造られる墓道であれば平地から墳丘に向かって上るのが普通である。ところうがすべての前方後円墳で、出っ張り部の先端から墳丘に向かって下るのである。しかも出っ張り部の先端は急斜面でここを上るのは極めて難しい。墳丘に至る墓道とするには何とも不可解な形状なのである。

私が卑弥呼の墓とする玉手山の尾根をたどることによってこの謎が解けた。
玉手山の古墳は山塊から南西に延びた尾根の上に墳丘を盛り上げる。山塊側から墳丘に向かって尾根は緩やかに下る。前方後円墳の前方部はこの尾根を模したものである。箸墓は平地に造られることによって、山塊側の尾根を切断した形なのである。

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箸墓はこの玉手山の卑弥呼の墓をモデルにして築造されたのである。そのため前方部は先端に向かってバチ形に開く。これは尾根が山塊側に向かって広がることによる。
箸墓が築造されたのは270年代の終わり頃であろう。この時代であれば径百余歩の卑弥呼の墓がどのようなものであるかよく知られていたはずである。したがって箸墓の後円部はほぼその大きさに築造されたのである。箸墓は卑弥呼の墓を模したものであり、以降この形が大和朝廷の墓として造り続けられれて行くのである。

 箸墓で吉備(現在の岡山県)で作られたと推測される、円筒埴輪(特殊器台)が確認されている。
倭途途日百襲媛の弟に、彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)という人物がある。彦五十狭芹彦は吉備に赴き、この地方の支配に当たった人物である。彦五十狭芹彦は姉の墓の築造に際し、吉備の円筒埴輪を運び、箸墓を荘重に飾ったとすれば、円筒埴輪が出土する理由を説明できる。

 また『日本書紀』には箸墓築造の歌が記される。その中に奈良県と大阪府の境に位置する、大坂山の石を運ぶ記述がある。石室を作るために、纏向の近辺では調達できない平たい石を運んだのである。発掘してみなければ確実なことは解らないが、箸墓には大坂山の扁平な石で作った石室が存在すると考える。
この点からも箸墓は卑弥呼の墓ではない。『魏志倭人伝』は墓の構造について「棺ありて槨なし」とする。石室のような、棺を収める構造物は存在しないとする。この記述が卑弥呼の墓についてかは断定しかねるが、石室を持つ箸墓を卑弥呼の墓とするにはこの記述と矛盾する。私が卑弥呼の墓とする玉手山の古墳では、地中レーダー探査を行ったが石室の存在は無かった。
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箸墓は卑弥呼の墓ではない

 箸墓は卑弥呼の墓ではない。また台与の墓でもない。
倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)の墓である。
多くのマスコミは箸墓について語るとき「卑弥呼の墓ともされる」という修飾語をつける。あたかも卑弥呼の墓であるがごとく語る。
また一部の研究者の中には箸墓の築造年代を三世紀半ばとし、あたかも卑弥呼が没したとされる248年か249年ころの築造と主張する。
箸墓は『日本書紀』が伝えるように倭途途日百襲媛の墓である。倭途途日百襲媛は卑弥呼ではない。
ここでは最初に倭途途日百襲媛と卑弥呼の関係を述べる。
次に前方後円墳という形の成り立ちについて、最後は箸墓が造られた理由について述べる。

 倭途途日百襲媛の父親は七代孝霊天皇である。問題は母親の出自である。『古事記』はその名前を意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめ)とし、またの名を蠅伊呂泥(ハエイロネ)とする。また『日本書紀』は倭国香媛(やまとのくにかひめ)として、またの名をハエイロネとする。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛とハエイロネを同一人物とするのである。
だがハエイロネと意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛とは別人である。ともに七代孝霊天皇の妃になった人物であるが、前者は三代安寧天皇の曾孫である。『古事記』や楽家系譜はその系譜を伝える。一方意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(『勘注系図』では大倭久邇阿禮姫命と表記)またの名倭国香媛と称される人物は、尾張氏の人物である。『勘注系図』では、私が卑弥呼とする宇那比姫命の姪である。

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『勘注系図』にはハエイロネという人物の名は見られない。一方楽家系譜に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛という名は登場しない。記紀が同一人物とする記載に誤りがある。

 倭途途日百襲媛の母親、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名倭国香媛は尾張氏の女性であることを伺わせる神社伝承がある。
香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)という神社がある。その神社伝承によれば、倭途途日百襲姫命は七歳の時、戦乱に陥った大和の黒田盧戸宮(くろだいおとのみや)を出て、八歳の時この地に至り、二十歳頃までこの地で暮らしたとされる。
この水主神社と同じ名前の神社がある。京都府城陽市久世の水主神社である。祭神十座は、彦火明命から始まる、すべて尾張氏の人物である。水主神社という神社は東かがわ市水主と城陽市久世の水主神社以外他に見当たらない。この二つの神社には深い関係があることが察せられる。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛は尾張氏の女性でハエイロネとは別人である。
したがって倭途途日百襲媛の父親は卑弥呼の孫、孝霊で、母親は卑弥呼の姪である。卑弥呼の血筋を色濃く引き継ぐ女性である。
王権の血筋を色濃く受け継ぐ女性であるからこそ、一介の皇女にすぎない倭途途日百襲媛の巨大な墓が築造されたのである。
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2017年05月07日

卑弥呼の系譜

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この人が卑弥呼

丹波の支配者系図を伝える、海部氏の『勘注系図』という系図がある。その系図の六世孫に宇那比姫命(うなびひめのみこと)とい名を記す。宇那比姫命のまたの名として、天造日女命(あまつくるひめみこと)、大倭姫(おおやまとひめ)、竹野姫(たかのひめ)、大海靈姫命(おおあまのひるめひめのみこと)、日女命(ひめみこと)とする。何れも一人の女性の別名である。

先ず注目されるのは大倭姫(おおやまとひめ)である。
『日本書紀』や『古事記』で、倭(やまと)の名がつくのは、天皇の妃か子供くらいである。中でも大倭(おおやまと)と「大」が付くのは、古い時代の天皇と七代孝霊の妃、意富夜麻登玖邇阿禮比賣(おおやまとくにあれひめ)くらいのものである。
この女性は天皇と同格の、大倭(おおやまと)の名前を持つ。
「やまと」という言葉は現在の奈良県あたりを意味する地域名と、そこに政治の中心が在った時代、支配地域全体を指す国名でもある。国名として明示的に指す場合は「やまと」に「大」を付けて「おおやまと」と呼ぶ。漢字表記は「大倭」である。大倭姫は大和朝廷の最高権力者を意味する女王の名でもある。
さらにこの人は天造日女命(あまつくるひめみこと)という、尊大な名前を持つ。
律令制が敷かれる前の時代、大和朝廷により任命された、地域支配の長を国造(くにのみやつこ)と言う。この「造」には支配者の意味がある。「天」は天下であるから、天下を支配した姫君という意味である。
そしてまた、大海靈姫(おおあまひるめひめ)という巫(みこ)姫の名を持つ。『魏志倭人伝』は卑弥呼が「鬼道(きどう)」に長けていたことを伝える。この人もまた靈姫(ひるめひめ)という宗教的色彩を帯びた名前を持つ。
最後は日女命(ひめみこと)である。読みは「ひめみこと」であろうが、異国の人がこの音を『卑弥呼』と書き表しても不思議はない。
日女(ひめ)とは後の「姫」「媛(ひめ)」などと同じ、高貴な女性を指す普通名詞である。この日女に「命(みこと)」という尊称がついたのが日女命である。
大倭姫、天造日女命、大海靈姫命、日女命とくれば、この人はまさに『魏志倭人伝』が伝える邪馬台国の女王、卑弥呼である。

台与も登場する

『勘注系図』は宇那比姫の二世代後に、天豊姫命(あまとよひめのみこと)という女性を記す。この女性もまた大倭姫命の別名を持つ。
『魏志倭人伝』は卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が従わなかったとする。そのため千人ほどが死ぬ戦乱となる。そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与が擁立され、ようやく国が定まったとする。
天豊姫の「天(あま)」は、この一族に付けられる姓のようなものであるから、名前は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与の音と同じである。
天豊姫と宇那比姫は共に尾張氏の女性で同族の人である。『魏志倭人伝』が伝える「宗女」なのである。
天豊姫命の父親は、建諸隅(たけもろずみ)である。『勘注系図』は建諸隅の亦の名を由碁理(ゆごり)とする。由碁理という名前は『古事記』にも登場する。九代開化(かいか)の妃になった竹野姫(たかのひめ)の父親である。彼を丹波大縣主(たんばのおおあがたぬし)とするから、『勘注系図』という丹波の系図に登場することに不思議は無い。建諸隅命は由碁理(ゆごり)とみて間違いない。
だとすると天豊姫命は『日本書紀』や『古事記』が開化の妃とする、竹野媛である。
『勘注系図』は建諸隅命の注記に次のように記す。
建諸隅命は開化の時代、丹波の與余社郡(よさのこおり)に竹野姫(たかのひめ)の屯倉(みやけ)を置いて奉仕したとする。屯倉とは天皇家の私有地のことである。この事からもここに登場する竹野姫は、天皇家の人で『記紀』が開化の妃とする竹野媛であることが解る。

卑弥呼の出自は葛城高尾張

『勘注系図』では、宇那比姫を系図の端の方に六世孫として単独で記すのみで、系図の中でどのようにつながるのか不明である。だが『先代旧事本紀』尾張氏系譜を見ると、宇那比姫命の父親は建斗米、母親は紀伊氏の中名草姫であることが解る。更に宇那比姫命は建田背命を長男とする七人兄妹の一番末の娘である。
尾張氏は元は葛木高尾張と称された、現在の奈良県御所市近辺に居た一族である。愛知県の尾張氏もこの一族の後裔である。
宇那比姫は建斗米という尾張氏の当主の娘である。宇那比姫すなわち卑弥呼は、葛木高尾張の人である。その尾張氏の娘が『勘注系図』という丹波の系譜に登場するのは、丹波の人にとっても宇那比姫は特別な人であったからである。
またこの尾張氏は、葛城国造の葛城氏と何世代に渡って婚姻関係にあり強い縁戚関係にある。

卑弥呼の夫

『勘注系図』と『先代旧事本紀』尾張氏系譜の他に、もう一つ宇那比姫が登場する系譜がある。
静岡県磐田市國玉神社の大久保家につたわる系譜である。
大久保家は和邇氏に始まり、古い時代の和邇氏系譜を伝える。そこに次のような記述を見る。
『押媛命(おしひめのみこと)(一に忍鹿比売命(おしかひめのみこと)、母は建田背命(たけだせのみこと)の妹、宇那比媛命也)』とする。
押媛命とは天足彦国押人(あまたらしひこくにおしひと)の娘とされる。母親を宇那比媛命とするから宇那比媛命は天足彦国押人命の妻ということになる。宇那比媛命を建田背命の妹とするから尾張氏の宇那比姫命で間違いない。

卑弥呼の王宮は室秋津島宮

この系譜によってとてつもない事実が明らかになる。天足彦国押人には倭足彦国押人(やまとたらしひこくにおしひと)、すなわち六代孝安天皇という弟がある。孝安天皇は宇那比姫命の義理の弟となる。
『魏志倭人伝』は卑弥呼には「男弟有りて佐(たすけ)て国を治」とする。宇那比姫命には六人の兄弟があるがすべて兄で弟は居ない。弟に該当するのは義理の弟、孝安である。『魏志倭人伝』が伝える男弟とは孝安に他ならない。
孝安の宮は室秋津島宮(むろのあきつしまのみや)とされる。秋津嶋宮は卑弥呼の王宮なのである。室とは奈良県御所市の南郊外である。京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、室(むろ)の場所から特異な建物遺構が出土した。私はこの遺構こそ卑弥呼の王宮の一部と考えている。


箸墓の被葬者

この卑弥呼系譜から興味深い事実が読み取れる。箸墓古墳の被葬者とされる倭途途日百襲媛(やまとととひひもしひめ)の系譜である。『勘注系図』は建諸隅命の妹に、大倭久邇阿禮姫命(おおやまとくにあれひめのみこと)という名を記す。倭途途日百襲媛の母親と思われる人物である。『古事記』の意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめのみこと)と同一人物と考える。
『日本書紀』では倭国香媛(やまとのくにかひめ)とされる人物で、またの名を蠅伊呂泥(はえいろね・はえ某姉)とする。七代孝霊の妃となって倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)を生んだとされる。
『記紀』は蝿伊呂泥(はえいろね)と意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、あるいは倭国香媛(やまとのくにかひめ)は同一人物とする。
しかし蝿伊呂泥が登場する楽家系図に、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命という人物や、倭国香媛という名前は出てこない。また『勘注系図』には大倭久邇阿禮姫命と国香姫命の名を見るが、蝿伊呂泥や蝿伊呂杼は無い。共に孝霊の妃または皇后となった女性であるが別人と考えている。
http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/4-4-ooyamatokuniarehime.htm
倭途途日百襲媛は、台与すなわち開化の妃とされる竹野媛と、従妹の関係にある。したがって箸墓は卑弥呼の墓でも台与の墓でもない。
posted by 曲学の徒 at 14:06 | Comment(1) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫