2009年07月17日

台与は天豊姫で、九代開化の妃、竹野媛

『魏志倭人伝』は卑弥呼が死んだ後、男王が立ったが国中が従わなかったとする。そのため千人ほどが死ぬ戦乱となったとする。そこでふたたび卑弥呼と同族の女性、十三歳の台与(とよ)が擁立され、ようやく国が定まったとする。

『勘注系図』では、私が卑弥呼とする宇那比姫の二世代後に、卑弥呼と同じ、大倭姫という大和王権の女王の名を持つ女性が登場する。
この人の亦の名を天豊姫命という。
天豊姫の天は、この一族に付けられる姓のようなものであるから、名前は豊(とよ)である。これは『魏志倭人伝』の台与に通じる。

天豊姫命の父親は、七世孫建諸隅命である。建諸隅命は宇那比姫の甥である。したがって建諸隅命の児、天豊姫は宇那比姫と同族である。『魏志倭人伝』が伝える「宗女」なのである。

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また『勘注系図』は建諸隅命の亦の名を由碁理とする。
由碁理という名前は『古事記』にも登場する。
九代開化の妃になった竹野姫の父親である。彼を丹波の大縣主とするから、丹波の支配者の系図に登場する、建諸隅命と同一人物とみて間違いなかろう。

だとすると天豊姫命は開化の妃になった、竹野媛である。すなわち台与は後に開化の妃になったのである。

さらに中国史書は面白い記述をなす。
西暦266年、西晋に朝貢した倭国の女王が在ったとする。年次からみて、この女王は台与であろうと推測される。
この時、この女王と並んで中国の官位を受けた男王がある。朝貢の女王が台与であり、天豊姫なら開化の妃である竹野媛でもある。
したがってこの男王は開化に他ならない。

欠史八代として、その実在が否定される天皇の在位年代が明らかになるのである。開化は266年、王位に在った人物なのである。
詳しくは下記を見ていただきたい。
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/6-9kaika.htm
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2009年09月10日

台与も葛城の生まれ

 私は誤っていた。台与の生まれた場所は丹波と思っていた。だが台与は丹波ではなく葛城の生まれである。

台与は天豊姫でまたの名を竹野姫とも云う。
竹野姫は丹波の大縣主由碁理の娘で、九代開化の妃である。由碁理は丹波の大縣主であるから、丹波の支配者で、当然丹波に住みその子供も丹波で生まれたと思っていた。だが由碁理すなわち建諸隅は必ずしも丹波に居たわけではない。

 建諸隅は丹波の大縣主ではあるが、尾張氏の当主でもある。丹波は尾張氏の支配地にすぎない。
そのために『勘注系図』という丹波の国造系譜にも当主として登場するが、建諸隅の本拠地は葛城高尾張である。
彼が丹波支配の拠点としたのは現在の京都府京丹後市丹後町竹野である。
私は竹野姫の名前はこの竹野(たかの)によると思っていた。ところうが『勘注系図』をよく読むと、由碁理のまたの名を竹野別(たかのわけ)といい、地名はこの名前に由来するとする。
竹野姫の名前が竹野別という父親の名前に由来するとすれば、丹後の竹野という地名にこだわる必要は無い。

 竹野姫の母親は葛木氏の大諸見足尼(おおもろみのすくね)の娘、諸見己姫(もろみこひめ)である。生まれは父親建諸隅の本拠地葛城高尾張である。
卑弥呼すなわち宇那比姫と同じである。
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