2009年08月16日

孝安天皇陵を追う

延喜式に記される孝安陵

孝安天皇は大和朝廷の六代目の天皇とされる。
『日本書紀』は二代から九代までの天皇については、ほとんど系譜に関する記述のみで、事蹟を記さない。したがって欠史八代と称される。
今日の学説の主流は、欠史八代の天皇は実在しないとする。
もちろん私は実在したと考えている。

現在宮内庁が孝安天皇陵とするののは、玉手山の一番北の尾根である。そこには円墳が存在するとされるが詳しい事は解らない。
私は孝安天皇が玉手山に葬られたという『記紀』伝承は信じる。しかし現在宮内庁が孝安陵とする場所が、本当に孝安陵であるかどうかについては疑問を持っている。

十世紀に編纂された延喜式という書物がある。律令の施行細目を記す、いわば法典のような書物である。
そこに歴代の天皇陵の広さや、墓守の戸数を記す。
孝安天皇陵の広さを東西六町、南北六町とする。おおよそ650m×650mくらいとなる。これは玉手山全域の広さである。
現在孝安陵とされる尾根の大きさは250m×100mくらのもので玉手山の中でもほぼ独立した尾根である。もしこれが孝安陵なら、玉手山全域を墓域とする必要はなさそうである。

現在孝安天皇社という社(やしろ)が、天皇陵の隣接地に建てられている。
拝所は孝安陵に向かって拝す。すなわち北に向かって拝む。ところうが昔は玉手山の中央部、すなわち南に向かって拝んでいたという話を地元の人から聞いた。

『日本書紀』でも『古事記』でも孝安は玉手丘に葬ったとするだけで、玉手山のどこであるかは不明である。
孝安陵は玉手山のどこに在っても不思議はないのである。
私は玉手山のどこか別の場所に、本当の孝安陵があるのではないかと考えている。

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2010年01月06日

天皇陵を掘る

玉手山の地形図である。

tamateyamaikeizu-doki.gif

私はNo2とする尾根で試掘を試みた。
赤い字で@ABとするあたりである。
@が最初と2度目に発掘を行った場所である。3度目4度目の試掘でAとBを掘った。
それぞれから土器片を採取したが何れも小さな破片で、正確な年代は確定しづらかった。
だが四度目の試掘で出土した土器片は、明らかに古墳前期あるいは弥生末まで古くなると思われる土器片である。

これらの土器片から私はこの尾根は間違いなく古墳であると考えている。
推測ではあるが、玉手山には中世に砦が築かれている。墳頂は砦などが築かれた際、削平されたのではないかと想像する。
尾根の先端に近い部分のみが残されてるのである。そこに埋葬施設があると思って、発掘を試みたがそこからは、朱らしき砂の塊が出土したに過ぎなかった。

西側は古墳を造る一等地

下記の図は玉手山の遺跡地図である。

173_tn_7fda3598a0.jpg

東側には無数の古墳が存在するが、西側で確認されている古墳は少ない。
今この玉手山の西約1kmのところで大型建物の遺構が出土している。
もしこの建物に住んだ一族が、墓を造るとすれば玉手山は格好の地である。
No1は私の発掘で古墳であることが確定した。No3は県の遺跡地図で20mの円墳と確認されている。
No2とする場所は一等地である。この尾根に古墳が造られなかったとは考えにくい。

当初地元教育委員会は、私の求めに応じてここを踏査した。その結果この尾根は、自然の地山で遺跡ではないと結論付けた。
しかしここからは次のような土器片が出土した。

doki-No2-01.jpg

doki-No2-2.jpg

doki-No2-5.jpg

もはやここが自然の地山などではないことは明らかである。

これらの尾根のすべてが古墳である。

 私が一連の遺物を玉手山の尾根から発掘したことにより、地元教育委員会は再度の現地踏査を行い、これらの尾根すべてに古墳が存在することを認めた。

問題はその大きさである。
私は尾根全体に人の手が加わっていると考える。したがってNo1は直径150mくらい。No2は楕円で長径160mくらいと推定する。
日本一の円墳と楕円墳である。

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2010年04月26日

宮内庁の管理する孝安陵は本当の孝安陵か?

 現在宮内庁が孝安陵として管理する場所がある。玉手山の一番北の尾根である。
これは本当に孝安陵なのだろうか?

私は六代孝安の実在も、孝安が玉手丘に葬られたという『記紀』伝承も信じて疑わない。
しかし現在宮内庁が管理する場所が、本当の孝安の墓かと言うことには、大きな疑問を持っている。

理由は次の二つである。
その一つは、延喜式に記される、孝安陵の墓域は東西六兆、南北六兆である。おおよそ650m×650mである。これはほぼ玉手山全域の広さである。

宮内庁が管理する一番北の尾根が孝安陵なら、この北の尾根のみを墓域とするだけで良い。東西六兆、南北六兆という、玉手山全域を墓域とする必要はないように思うからである。

そしてもう一つは、この玉手山に、これより大きな墳丘が存在するからである。


 幕末の1862から1866年にかけて、江戸幕府により、天皇陵の大幅な改修が行われた。「文久の修陵」と云われる事業である。

この修陵にあたって、『御陵画帳』という改修前と改修後の絵図面が残されている。

この絵図を見ると陵によっては大幅なつくり変えが行われている。
たとえば初代とされる神武陵などは、そこにあった小さな円墳に大幅な手を加え、壮大な陵墓に仕立てている。
神武陵ほど極端でなくとも、御陵とされた場所は、多かれ少なかれ、元の形が改変されていることに注意する必要がある。
修陵前の絵図面と、この修陵に携わった谷森善臣(たにもりよしおみ)の記録から元の状況を見てみよう。

A改修前(出典:文久山陵図 出版:新人物往来社)
kouannryou-a.jpg

B改修後(出典:文久山陵図 出版:新人物往来社)
kouannryou-b.jpg

絵図面Aが改修前の状況である。玉手山の山塊から北に張り出した尾根の先端に小さな盛り土の墳丘が認められる。
谷森善臣によると「玉手丘陵、孝安天皇の御陵なり、大和国葛上郡玉手村のうち玉手山の北隅にあり、字を宮山とよぶ、南傍に天満宮の祠あり、この御陵の高さ壱丈許めくり拾三丈ありて松樹生えたり」とする。

壱丈許めくり拾三丈とするから、高さ約3m周囲40mくらい、すなわち直径12〜13mの円墳であろう。

もともとこの尾根は、玉手山の山塊と続いているようである。修陵の際、山側との間を掘り、尾根を切断して、墳丘のある尾根を大きな御陵に仕立てている。また墳丘の下部に石積みを行って、墳丘を改修している。
改修前の墳丘は直径12〜13mで決して大きくはない。私が径百余歩の円墳とする、隣の尾根上に存在する墳丘は、直径18mか19mはある。さらにその南の尾根上の高まりは長径25mくらいの楕円状を呈す。何れもこの孝安陵の墳丘より大きいのである。

改修前の絵図面には天満宮が描かれている。この天満宮は改修により完全に取り払らわれたようである。
天満宮の祭神は一般的には、菅原道真である。現在この祭神は、この尾根の南100mくらいにある金比羅神社に合祀されている。孝安天皇陵と天満宮の関係は不明である。

それでは本当の孝安陵はどれか?

下の航空写真に写る、No1、No2、No3、No4、のすべての尾根に墳丘の存在する事を地元教育委員会は確認した。

tamateyama-5.jpg

尾根上の盛り土部分の大きさは、No1が直径19m高さ2m程度の円形。
No2は長径24m高さ2m程度の楕円である。
No3は県の遺跡地図では直径20mの円墳とする。当初私は直径7〜8mくらいの円墳と思ったが、再度踏査した結果直径20m位の円墳であることを確認した。
No4は明確に盛り土の範囲を確定しがたい。したがってその大きさはも確定できない。

問題はどこまでを古墳とするかである。盛り土の範囲のみを古墳とするのであれば、それらはそれほど大きな古墳ではない。
それでもNo1やNo2は宮内庁が孝安陵とする墳丘よりは大きい。

私は尾根の裾が整った弧を描く事から尾根全体に手が加わっていると考える。したがってNo1は150mくらいの円墳であり、No2は長径160m、短径90mくらいの楕円墳と見る。
No3も県の遺跡地図では20mの円墳とするが尾根全体を古墳とすれば、尾根の幅は45mくらいある。
ここは巨大円墳が立ち並ぶ墓域なのである。
私はNo1を径百余歩の卑弥呼の墓とする。孝安は卑弥呼の政治を補佐した男弟である。ほぼ近い年代に没したと推測される。したがって隣の160mの楕円墳が孝安の墓ではないかと推測する。

No2の尾根で、四回に渡る試掘を行った。だが明確に埋葬施設と思われる遺構は確認できていない。しかし20点近い土器片と、朱と思われる酸化第二鉄に染まった砂の塊の出土により、ここが古墳であることはほぼ確定した。
ただし墳頂は削平されているのではないかと思われる。わずかに尾根の先端側に墳頂の一部が残ると考える。最初この尾根の先端の一番高い所を掘ったが、埋葬施設らしきものは確認できなかった。

確実な遺構等を確認しえていないので明確にはならないが、出土した土器片には、三世紀半ば頃と思われる物が存在する。この古墳の築造年代が三世紀半ば頃の可能性はある。

私はこれこそ孝安陵ではないかと考えている。もしかすると私は天皇陵を掘ったのかもしれない。

地元教育委員会は、このあたり一帯に古墳が存在する事を認識した。これにより県の文化財保護課は、私に対して、今後玉手山での発掘を行わないよう通達してきた。したがって以降発掘は出来なくなった。

古墳の築造年代等を明らかにする為に、もう少し試掘を試みる予定であったが、中止せざるを得ない状況である。


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2011年11月03日

尾根全体が墓域

下の航空写真は、私が径百余歩とする尾根の隣の尾根である。

tamade-3D.jpg

視差のある写真を2枚並べて、立体視する裸眼立体視という方法がある。
右目で右の画像、左目で左の画像を注視する。モニターからの距離は25cmくらい。焦点は合わせなくぼーっと見つめる。それぞれの画像の中心あたり、樹木の無い地面がむき出しになったあたりを見つめる。
左右の画像が真ん中に寄ってくるような感覚を覚え、左右の画像が重なったように見えれば成功である。平行法という裸眼立体視法である。詳しくはネットで「裸眼立体視」で検索してみてくれ。

視線を画像下部の建物屋根に移すと、建物の屋根が飛び出しているように見えるはずです。この画像は大きな視差がある為、高さ方向が極端に強調された立体となる。

今まで、盛り土の範囲確認するため、何度か踏査を行った。だが今一つ明確にできなかった。
ところうがこの立体視法を用いれば、盛り土の範囲が明瞭に確認できる。
おおよそ長軸方向で50m、短軸方向25mくらいの楕円である。明らかに尾根全体を墓域とする、盛り土である。

こちらは樹木がまばらで地表の様子が良くわかる。
No2.jpg

慣れたら下の画像でも試してください。
右側の尾根は、中心に直径5〜6mの盛り土を為す。全体では直径20mの円墳である。
これもまた尾根全体を墓域とする。

3d-tamade.jpg

次は私が径百余歩とする円墳である。あまり良い画像ではないので少し解りづらいが、この円墳は中心部に、約直径22mほどの盛り土を為す。だが更に盛り土の範囲は広がるのではないかとも思われる節がある。

keihyaku.jpg

下の写真で、白線の円が直径約22m。左側の写真を良く見ると、黄色線で描いた円のあたりに、傾斜変更点がありそうな気もする。ここまで盛り土の範囲は広がるのではないかとも考える。再度藪を刈り払い傾斜変更点を確認する必要がある。

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2016年07月08日

真の孝安陵か?

次に2の古墳である。この古墳は長径160m短径90m位の楕円の尾根上に造られる。最近ようやく盛り土の範囲を確認できた。盛り土はおおよそ長径80m、短径45m位に及ぶ。同時代としては国内最大規模である。この墳丘でも北側斜面には表層の崩落がある。盛り土という軟弱な地層ゆえの崩落であろう。
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次の航空写真に見る中央の楕円形が、おおよその盛り土の範囲である。この楕円形は、生えている樹木の違いによるのか、盛り土と自然土壌の違いによる生育環境の違いによるのか判然としないが、この楕円の外周あたりに、微妙な傾斜の変化が見て取れる。

ここまでが盛り土の範囲であろう。盛り土の範囲だけでも、これまで国内最大とされてきた岡山県倉敷市の楯築墳丘墓より大きい。
ただし墳頂は何らかの理由により大きく削平されていると見る。西側に墳丘の一部を残すが、墳頂は平坦地となる。
また2500分の1の地形図から尾根の先端は掘り崩されていると見る。尾根全体を古墳とすれば長径160mにも及ぶ巨大古墳である。
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この古墳の築造年代は3世紀中ごろであろう。墳丘の盛り土の中から次のような土器片が出土している。図に示すような壺の底である。3世紀前半とされる、底が尖った庄内式土器である。
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『記紀』によれば玉手山は、六代孝安天皇が葬られたとされる場所である。この『記紀』伝承は事実を伝えると考える。
だが今日宮内庁が孝安天皇陵とする古墳は、本当の孝安陵ではないと考える。
なぜなら、そこに存在する墳丘は直径13m前後の小さな古墳である。幕末尊王思想の高まりの中で天皇陵が修復された。図は文久の修陵に当たり改修前に描かれた、孝安陵とする古墳の図である。尾根の先端に存在する小さな墳丘を孝安陵とする。
kouannryou-a.jpg

玉手山にはこれより大きな墳丘がいくつか存在する。2の墳丘は長径80mくらいと、これよりはるかに巨大である。そこから出土した土器片から、孝安没年頃の築造として不思議はない。

1の尾根は、孝安の宮とされる室秋津島宮の方向から見た時、整った土饅頭型に見える。
2、と3は秋津病院の建物でさえぎられるが、建物が無ければこれらも整った土饅頭型に見えるはずである。これら玉手山の西側に張り出した尾根上の古墳は、何れも秋津嶋宮の方角から見ることを前提に築造されている。現在宮内庁が孝安陵とする円墳は東側に張り出した尾根上に存在し、秋津嶋宮からは見ることが出来ない。その点でもこの古墳は孝安陵ではない。私は1が径百余歩とされる卑弥呼の墓で、2が本物の孝安陵と推測する。

3の古墳は一目見て古墳と解る。解りやすい古墳である。山側から見ると直径7〜8mの円墳にしか見えない。だが墳丘の裾は尾根の中腹まで及び直径20mの円墳である。
墳丘が築かれるにあたっては、尾根の樹木は全て伐り払われていたであろう。樹木が無ければ墳丘と尾根は一体に見える。尾根幅は45mほどで尾根全体が墓域なら相当大きな古墳である。
築造の時期は不明であるが、私は1、2に続く時期の築造であろうと推測する。

posted by 曲学の徒 at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 孝安天皇陵