2010年02月18日

卑弥呼には夫も子もあった

卑弥呼には夫も子供もあった。
あなたはそんな話は信じないだろう。なぜなら『魏志倭人伝』は、卑弥呼について『年すでに長大、夫壻なし』とする。夫が無かったとするからである。
確かに240年、魏の使者が邪馬台国を訪れた時点では、夫はすでに無くなっていた。

だが卑弥呼に夫があったことを、裏付ける事実がある。
和邇氏(わにし)という古代有力豪族がある。和邇氏の系譜の中に、私が卑弥呼とする、宇那比姫が登場する。

和邇氏系譜は次のように記す。
『押媛命、母は建田背命の妹、宇那比媛命也』とするのである。押媛命とは五代孝昭の皇子、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)の子供で、六代孝安の妃となった人である。
この押媛命の母親を宇那比媛とする。宇那比媛を建田勢命の妹とするから、尾張氏の宇那比姫で間違いない。

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宇那比姫には天足彦国押人命という夫があったのである。この天足彦国押人命は和邇氏の始祖とされる人である。

詳しくは下記のページを見てください
http://kodai.sakura.ne.jp/yamato/601-wanisi.htm

卑弥呼の子孫の墓から出土した鉄刀

その和邇氏の墓から、卑弥呼がもらったと思われる刀が出土している。
奈良県天理市に東大寺山古墳という、全長140mの前方後円墳がある。
この東大寺山古墳の発掘調査が1960年の初め、天理大学の金関恕(かなせきひろし)氏らによって行われた。

その発掘調査で、おびただしい量の鉄剣、鉄刀、槍先、鏃(やじり)、甲(よろい)などが出土した。その中の鉄刀の一つに、銘文が象嵌されていた。銘文は刀の背に金で象嵌されている。腐食が激しく一部読めない部分があるが、研究者によって次のように判読されている。

「中平□□五月丙午造作文刀百練清□ 上應星宿下辟□□」

おおよその意味は、「優れた刀で天の意にかない災いを避ける」というような意味である。

注目されるのはその「中平」という年号である「中平」とは、後漢の年号で184年から189年の事である。
中平年という184年から189年といえば、卑弥呼が邪馬台国の女王として、王位に就いた初めの頃である。したがってこの刀が卑弥呼の遣使に、贈られた可能は極めて高い。

この刀を発掘調査した金関恕氏は、次のように推理する。鉄刀に刻まれた銘文の字体は、後漢の官営工房の字体とは異なる。後漢の官営工房の字体は、様式化が進み、整った隷書体である。
この刀に刻まれた字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって銘文が刻まれたのは、後漢の官営工房以外の地ではないかと推理する。

そして私は次のように推理する。中国では二世紀後半になると、後漢の権威に陰りが見られるようになる。そのような状況の中で、189年遼東太守となった公孫度(こうそんたく)は、この地域の実質的な支配者となる。
このような大陸の政治状況に対応して、卑弥呼が公孫氏に朝貢し、公孫氏から、この刀を受け取ったのではないかと想像する。
また後漢の刀は数多く存在するが、年次を持つものは極めて少ない。知られている限り2、3振りとされる。誰から受け取ったかは定かではないが、年次から卑弥呼の遣使に贈られた刀であることはほぼ間違いなかろう。

ここで注目されるのは、この刀が東大寺山古墳という、和邇氏の墓から出土したことである。そしてこの和邇氏は、私が卑弥呼とする宇那比姫の夫、天足彦国押人を祖とする。
したがって東大寺山古墳に葬られた人物は、天足彦国押人の子孫で、それは宇那比姫の子孫でもある。
宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼が受け取ったと推測される刀が出土したことは、宇那比姫が卑弥呼であることの傍証ともなる。
またこのことが卑弥呼には和邇氏の祖とされる、天足彦国押人命という夫が在ったことを証明する。
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2010年07月29日

卑弥呼から建振熊命に至る系譜

 和邇氏(わにし)は和爾、和珥、丸邇などとも表記される。
五代孝昭と尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)の児、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひと)を祖とする。

和邇氏系譜では、押媛命(忍鹿比売命)の母親を、私が卑弥呼とする宇那比姫とする。押媛命は天足彦国押人命の児とされるから、宇那比姫は天足彦国押人命の妻で、和邇氏の祖でもある。

建振熊命は363年の新羅侵攻の時、活躍した人物である。没したのはおおよそ四世紀の後半であろう。東大寺山古墳の推定築造年代と一致する。

卑弥呼が受け取った、中平銘鉄刀は200年近く伝世され、卑弥呼の子孫である和邇氏の墓に副葬されたのである。

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2011年12月26日

国立博物館に存在する卑弥呼の遺品

 東京国立博物館に卑弥呼の遺品と考えられる品がある。
中平の年号が刻まれた、後漢時代の鉄刀である。出土したのは奈良県天理市の東大寺山古墳からである。
おそらくこの刀は卑弥呼の朝貢に対する下賜品であろう。

中国大陸では後漢時代の鉄刀は何千と出土している。だが年次の刻まれた刀は2〜3振しか知られていない。
その1振りが日本列島から出土したことである。考えられるのは朝貢の際、相手から下賜された品という推測である。

この刀を発掘した金関 恕(かなせきひろし)氏は刻まれた文字の字体から次のような見解を述べる。
後漢の官営工房の字体は、様式化が進んだ隷書体(れいしょたい)となる。これに対し出土した刀の字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって後漢の官営工房の象嵌(ぞうがん)ではなかろうとする。後漢の都、洛陽以外の地で象嵌されたのではないかと推測する。

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この事から私は189年遼東王(りょうとうおう)を名乗った公孫度(こうそんたく)からの下賜品ではないかと考える。
公孫度は元は、後漢王朝の地方官に過ぎないが、後漢王朝の衰退に乗じて、遼東王を名乗り半独立国家を樹立したとされる。

 大和朝廷はこうした大陸の政治情勢に極めて敏感に反応する。
239年、卑弥呼が魏に使いを送るのも、魏が遼東の公孫氏を滅ぼし中国東北部の覇権を握った翌年である。また266年台与が西晋に使いを送ったのも、司馬炎が魏の支配地域を引き継ぎ、西晋を樹立した翌年である。
おそらく公孫度が、遼東王を名のった189年に、卑弥呼による公孫氏への朝貢が有ったと推測される。そしてその際下賜されたのが、東大寺山古墳出土のこの刀であろう。

なぜ卑弥呼の遺品が東大寺山古墳から出土した


 それではなぜその刀が東大寺山古墳から出土したのかである。
東大寺山古墳のある奈良県天理市櫟本(いちのもと)町あたりは、古代有力豪族、和邇氏(わにし)の住んでいた場所である。
東大寺山古墳は、この和邇氏の墓なのである。
和邇氏の祖は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)である。天足彦国押人命は、五代孝昭と尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)の長男である。
そして私が卑弥呼とする宇那比姫(うなびひめ)は、この天足彦国押人命の妻なのである。
したがって和邇氏の子孫は宇那比姫の子孫でもある。

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宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼の遺品が出土したのである。このことは宇那比姫が卑弥呼であるこを裏付ける。

また私はこの東大寺山古墳の被葬者は、建振熊命であろうと推測する。建振熊命は363年丹波、但馬、若狭の海人300人を率いて神功の新羅出兵に参戦、帰国後仲哀の遺児押熊王(おしくまのみこ)を滅ぼし神功、応神朝樹立の功労者として、丹波、但馬、若狭の国造に成ったとされる。
この人は東大寺山古墳築造の年代とされる、四世紀末頃亡くなったと考えるからである。


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2016年11月29日

東大寺山古墳の被葬者は武振熊命

かって東大寺山古墳を訪ねた事がある。ところうが墳頂に至る道が解らず、やみくもに墳頂を目指すも、密生する竹藪と金網のフェンスに阻まれ古墳に至ることが出来なかった。
今回は十分な情報を得て再度訪れた。天理教城法(しきのり)大教会の敷地内を通り墳頂に至る。事務所で古墳を訪ねる旨を伝え、駐車の了解を取ると、親切に東大寺山古墳の説明書を手渡された。この教会から墳丘までは150mくらいの整備された山道である。

私は東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀は、卑弥呼が公孫度(こうそんたく)から受け取った刀と推測する。
その刀がなぜ東大寺山古墳から出土したかである。私はこの古墳に葬られた人物は、卑弥呼の子孫と考える。
私が卑弥呼とする宇那比姫命は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の妻である。天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物である。したがって宇那比姫命も和邇氏の祖で、その子孫は卑弥呼の子孫なのである。

東大寺山古墳は和邇氏の墓である。それではこの古墳に葬られた人物は誰なのかである。
363年4月武内宿禰は、神功皇后を担ぎ新羅侵攻を企てる。だが渡海作戦を実施するにあたって十分な船がなかった。そこで和邇氏の武振熊命は、丹波、但馬、若狭から、航海に長けた海人300人と船を集め参戦する。そのことが『勘注系図』という海部氏の系図に記される。
その後、大和に帰還しようとするとする神功達と、これを阻止せんとする、駕籠坂王(かごさかのみこ)や忍熊王(おしくまのみこ)と戦いになる。最後は建振熊命が忍熊王を琵琶湖のほとりに追い詰め、神功側の勝利となる。
建振熊は神功応神朝成立の功労者なのである。これを期に和邇氏は神功応神朝の有力豪族となる。
東大寺山古墳のある天理市櫟本あたりは和邇氏が住んでいた場所である。ここに全長140mの東大寺山古墳、107mの赤土山古墳、120mの和爾下神社古墳が築造される。築造の順序は東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳で、四世紀末から五世紀初めとされる。何れも和邇氏の墓である。

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私は最初に造られた東大寺山古墳は、建振熊命の墓と考える。363年に活躍した建振熊は4世紀末頃没したと思われる。東大寺山古墳の築造年代と一致する。またその古墳には大量の武具が副葬されていた。葬られた人物が武人であったことを物語る。
武振熊命は新羅の役や忍熊王との戦いで活躍し、神功応神朝の成立に功績のあった人物である。4世紀代和邇氏隆盛の礎(いしづえ)を築いた人物である。したがって最初に築造された東大寺山古墳は、武振熊命の墓と考える。
和邇氏の墓から中平銘鉄刀が出土したことは、宇那比姫命が卑弥呼であるという私の説を裏付ける。
次の図は宇那比姫命から武振熊命に至る系図である。
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posted by 曲学の徒 at 16:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | 卑弥呼には夫も子もあった