2010年08月04日

掖邪狗とは誰か

『魏志倭人伝』によると正始四年卑弥呼の遣使として魏に渡った掖邪狗と言う人物がいる。
またこの掖邪狗は、台与の遣使として再び魏に赴く。

掖邪狗とは誰かである。
「掖」は「いぇ」というような発音に近い。また「邪」は「ヤ」であろう。そして「狗」は彦である。
すると「イェヤヒコ」となるがどうもしっくりこない。
もし「掖」を「ワキ」と発音することが出来るなら「ワキヤヒコ」となる。これを「ワカヒコ」と考えれば「稚彦」である。
稚彦と呼ばれる人物がある。天足彦国押人命(あまたらしくにおしひとのみこと)と宇那比姫、すなわち卑弥呼の児で、名前を和邇日子押人命(わにひこおしひとのみこと)である。和邇日子押人命は稚押彦命(わかおしひこのみこと)とも呼ばれる。
掖邪狗が稚彦の音写なら稚押彦命である可能性が高い。

掖を「ワキ」と発音することが出来るか否か疑問は残るが、この人であれば卑弥呼すなわち宇那比姫の児である。倭国を代表して魏に使いした人物としても不思議は無い。
また世代的に、卑弥呼の晩年から台与の時代に大和王権の中枢で活躍し、台与擁立に至る戦いで、中心的役割を果した人物としてもおかしくない。そのように推測すると、とてつもない面白い遺跡がある。東大寺山をめぐる二重の空堀である。

和邇氏系譜によれば、この和邇日子押人命は和爾の里に居るとする。
現在の奈良県天理市和爾あたりである。

この近く東大寺山には、弥生後期の高地性遺跡がある。東西約400メートル、南北300メートルの範囲内に竪穴式住居があって、二重の空堀が巡る。奈良県では最大規模の高地性遺跡である。

『魏志倭人伝』は卑弥呼が没した後、男王が立ったが国中が服さず、戦乱に陥り千人を越える戦死者が出たと伝える。

どのような勢力同士による戦いか正確には解らないが、先の掖邪狗は卑弥呼の晩年から台与の時代に活躍した人物である。この戦乱の当事者の一人として関わっていた可能性は高い。

東大寺山二重空堀は台与擁立に至る戦いの遺構

東大寺山に築かれた、空堀はこの戦乱と関わることが予想される。

なぜなら和邇日子押人命は卑弥呼の児であり、擁立された台与は建諸隅命という従兄弟の児と言う関係にある。

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戦乱の当事者として深く関わっていたことは間違いない。
そしてこの和邇日子押人命が住んでいたのはこの東大寺山の裾、和爾の里である。
したがってこの東大寺山をめぐる二重の空堀はその戦乱の遺構では無いかと考える。



この遺構の年代が確定できれば立証できる

私は台与擁立に至った戦乱の年代を250年代の終わりと考える。なぜなら266年に西晋に朝貢した倭の女王は台与である。そして『梁書』と『通典』は『其後復立男王、並受中國爵命』と伝える。
この男王は台与すなわち竹野媛の夫、開化である。
十三歳で王位に就いた台与に、266年の時点では開化と言う夫があり、夫のある年齢に成っている。したがって王位に就いたのは266年より五〜六年は前であろう。戦乱の時期は250年代の末頃が推測される。

私はこの東大寺山の空堀や竪穴式住居が、この年代に一致すれば、この戦乱と関係する遺構であることが証明できると考える。

仮に掖邪狗が和邇日子押人命では無いとしても、和邇日子押人命が台与擁立の戦乱に関わったことは間違いなかろう。
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2010年09月18日

魏志倭人伝登場人物の同定

 私が『魏志倭人伝』の登場人物と対応させた系譜上の人物は次の通りである。

卑弥呼:宇那比姫(尾張氏)
台与:天豊姫(尾張氏)
難升米:梨迹臣(中臣氏)
都市牛利:由碁理(尾張氏)
伊聲耆:伊世理(中臣氏)
伊支馬:邇支倍(倭氏)
*彌馬升:三見宿禰(物部氏)
彌馬獲支:水口宿禰(物部氏)
*掖邪狗:稚押彦命(和邇氏)

*印の人物については若干の不安も残るが、他についてはその同定に絶対の自信を持っている。

同定にあたつて漢字の読みは重要であるが、私は漢字の読み、すなわち音を基準に同定したわけではない。
基準としたのは年代である。
ここに登場するのは尾張氏、物部氏、倭氏、中臣氏、和邇氏である。
幸いなことにこれらの氏族の神武時代の人物と崇神時代の人物はほぼ明らかになる。

尾張氏は倭宿禰が神武時代、日本得魂命が崇神時代である。
物部氏は宇摩志麻治が神武時代、建膽心大禰命が崇神時代。
倭氏は椎根津彦が神武時代、市磯長尾市が崇神時代。
中臣氏は天種子が神武時代、神聞勝命が崇神時代に対応します。
和邇氏の祖は神武時代までは遡りませんが、尾張氏と婚姻関係にあり、彦國葺が崇神時代に対応します。

これらの系譜を並べ、神武時代と崇神時代の人物を対応させた。そして私が卑弥呼とする宇那比姫と同時代か一世代後の人物で、音の類似する人物を探ったのが、上記の同定である。但し台与とする天豊姫は二世代後である。

倭氏の邇支倍や、中臣氏の梨迹臣、それと伊世理は、音の類似からも間違いないと確信できる。

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まず宇那比姫を卑弥呼とすることである。
宇那比姫の子孫の墓、すなわち和邇氏の墓から卑弥呼が受け取ったと思われる中平年銘の鉄刀が出土している。いくつかの推論の上に成り立つ論証ではあるが宇那比姫が卑弥呼である事の物証と考える。

次に台与を天豊姫とすることである。
天豊姫は台与と音が似る事、宇那比姫の甥の児という同族の女性であり、卑弥呼の二世代後という年代的な妥当性もある。

また難升米を梨迹臣とする。
難升米は狗奴国と戦った人物である。梨迹臣は現在の滋賀県余呉の地で、その北の陸耳御笠と対峙した人物である。また中臣氏は九州から神武に従った大和王権の古くからの忠臣であり、王権の使いとして魏に赴くに適した人物である。
また2度目の遣使の一人伊聲耆は伊世理で、梨迹臣の腹違いの弟と推測される。

そして最初の遣使で、次使となる都市牛利は由碁理であろう。由碁理は後に丹波大縣主とされる人物である。
由碁理は卑弥呼の甥である。最初の遣使の時点では年が若く、梨迹臣が正使、由碁理が次使である。後に由碁理が支配者となる丹波の住人達は、古くから大陸と直接的な交渉を持っている。この人たちの力を借りて大陸に渡ったと考える。
丹後の峰山町と弥栄町の境に位置する、太田南5号墳から出土した青龍三年銘鏡は、この使節に加わった人物に与えられた鏡と推測する。
また由碁理の娘の天豊姫が台与である。この台与は後に開化の妃に成ったとされる竹野媛でもある。

次に邪馬台国の官として登場する伊支馬は、倭氏の邇支倍である。倭氏の祖とされる椎根津彦は大和王権成立の際、活躍する。その功績で倭国造に任命された氏族である。『魏志倭人伝』では邪馬台国の官として最初に記される。おそらく官位の序列順であろうから、倭氏は筆頭高官である。倭国造が邪馬台国の筆頭高官という図式は納得できる。

次の官は彌馬升である。私は物部氏の三見宿禰ではないかと考える。彌馬升の「升」は宿禰(すくね)を一文字で表したと推測する。したがって読みはミマノスクネである。一方三見宿禰の読みは普通ミツミノスクネとなるが、ミマノスクネと読むのではないかと考える。
4番目の官、彌馬獲支はミマクチと読んで物部氏の大水口宿禰とする。
物部氏は神武が奈良盆地入りする前に、この地に進出した氏族で、最初は神武と戦うが、同族と言うことで許され、大和王権の臣下となる。『先代旧事本紀』の物部氏系譜によれば、物部氏の人物が歴代の大和王権の高官となったとされる。このことから物部氏の人物が邪馬台国の高官で在ったことが裏付けられる。
大和王権の高官は倭氏と物部氏が占めていたと思われる。

最後は個人名ではないが卑弥呼の政治を補佐した男弟である。
卑弥呼すなわち宇那比姫の夫は天足彦国押人命である。天足彦国押人命の弟は、日本足彦国押人命、すなわち六代孝安天皇である。
和邇氏の系譜によると天足彦国押人命の子押媛命の母親を宇那比姫とする。したがって宇那比姫は天足彦国押人命の妻で、孝安は宇那比姫の義理の弟となる。このことから私は卑弥呼を補佐した男弟は他ならぬ孝安とする。

このように登場人物の世代位置の考察に、神社伝承、系譜伝承、『記紀』伝承を加え、その上で音の類似を重ねて同定している。同定の信頼度は極めて高いと考える。絶対の自信を持つゆえんである。

これだけ『魏志倭人伝』の登場人物が、宇那比姫の同時代か一世代後に出現するという事実は、宇那比姫を卑弥呼とする私の仮説の証明となる。

そしてこの『魏志倭人伝』の登場人物名解明は、邪馬台国の権力構造を明らかにし、倭国大乱の様相を浮かび上がらせる。
posted by 曲学の徒 at 13:24 | Comment(0) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝の登場人物

2016年12月02日

台与擁立に至る戦いの遺構

今回東大寺山を訪れるにあたって古墳の見学以外にもう一つ目的があった。
奈良県最大の環壕を見る事であった。
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東大寺山古墳の墳頂から竹藪を東方向に分け入った。シャープの研究所裏手あたりで環壕の一部を確認した。深さは2mくらい。幅4mくらいはあろうか。張り出した尾根を取り巻くように掘られている。
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また山腹の斜面を垂直に掘り崩し、容易には登れないようにした崖状の地形も確認できる。戦いを想起させるには十分な遺構である。
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この環壕を高地性集落と呼ぶことがあるが、集落という言葉のイメージとは程遠い。日常生活が営まれた場所ではない。戦闘の為の砦、陣地、見張り台、山城とでも呼ぶ遺構である。年代は弥生後期とされる。、
私は卑弥呼の後に擁立された台与擁立に至る戦いの遺構と考える。
『魏志倭人伝』は卑弥呼の没後男王が立ったが、「国中不服」とする。そのため戦乱となり、双方で千人あまりが殺されたとする。
そして再び卑弥呼の同族の女、年十三歳の台与を立てて国は定まったとする。

私はこの台与擁立に至る戦いの一方の旗頭は、和邇氏の和邇日子押人(稚押人)と推測する。

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なぜなら和邇日子押人は私が卑弥呼とする宇那比姫命の子供であり、台与は宇那比姫命の甥の子供である。親戚関係にある。和邇日子押人は間違いなく台与擁立に関っている。
一方卑弥呼の後に立った男王とは、孝元と考える。なぜなら台与は天豊姫で由碁理の娘である。記紀によれば由碁理の娘竹野媛は開化の妃とされる。台与は竹野媛であり、台与の時代の天皇は九代開化である。したがって台与が擁立される前の天皇は八代孝元で、卑弥呼没後に立った男王と考える。
孝元の皇后は物部氏の欝色謎命(うつしこめのみこと)、物部氏系譜によれば欝色謎命の兄、欝色雄命(うつしこおのみこと)は孝元の大臣である。
男王すなわち孝元の後ろ盾は物部氏なのである。したがって男王側の勢力は物部氏である。

一方この男王を不服とした勢力は、台与を擁立した勢力である。和邇日子押人は台与の親戚筋の人物で、台与擁立に関ったと推測する。反物部氏側の人物である。

和邇日子押人が住んだとされる場所が和邇氏の系譜に記される。静岡県磐田市の国玉神社宮司家、大久保氏系譜は和邇氏の系譜を伝える。その系譜によれば、和邇日子押人は和邇の里に居るとする。和邇の里とは現在の天理市櫟本あたりで、東大寺山はその裏山である。和邇日子押人たちはここを砦として物部氏と対峙したのである。
推測に推測を重ねる仮説であるが、この環壕が250年代後半のものであれば、台与擁立に至る戦いの遺構で間違いないと考える。


posted by 曲学の徒 at 13:03 | Comment(4) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝の登場人物