2010年11月04日

前方後円墳の成り立ち

前方後円墳という形は世界に類を見ない特異な形状である。
それはどのように成り立ったかである。
次のような一つの仮説がある。

周りの土を掘り取って中央部に盛り上げ円墳を築くのである。掘り取られた部分は周濠となる。
この周濠の一部は墳丘に至る通路として残す。この部分が前方部と成ったという仮説である。

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前方部の短い帆立貝式と称される古墳ではこの仮説は成り立つ。

しかし前方後円墳成立の仮説としては決定的な矛盾を持つ。
その第一は前方部の先端が後円部の取り付き部より高く、通路としての機能を果たさない事である。

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第二は前方部の長さが周濠の幅よりはるかに長く、周濠が大きく前方部を取り巻くことである。墳丘に至る渡り提のような通路であれば、これだけ長く巨大化する必然性はない。

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したがって最初に示した仮説は、突出部の短い帆立貝式墳丘について当てはまっても、定型化する前方後円墳には当てはまらない。

次に提示するのが私の仮説である。

前方後円墳の形はこのように成り立った。

山塊から張り出した尾根上に土を盛って墳丘を築く。また尾根の先端は掘削し円弧状に整える。
尾根を山塊側で掘り切る。いわゆる丘尾切断と称される築造方法である。

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したがって前方部となる尾根の背は円丘部に向かって降る。定型化した前方後円墳の前方部は、この尾根の形状の残存と考える。
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玉手山に前方後円墳の原形を見る。

下の図は私が玉手で古墳とする、No1、No2、N03の模式図である。
何れもよく似た形状を示す。

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この段階では山塊と尾根が切り離されていないが、後に箸墓古墳のように平地に築造されると、円丘部分に尾根を模した前方部が取り付けられるのである。
定型化する前方後円墳では、前方部は山側から降る尾根の形状を模して、先端を高く円丘の取り付き部に向かって緩やかに降るのである。

私はこの墳丘に至る尾根こそが、後の前方後円墳の前方部分と考えている。定型化する前方後円墳の前方部分は、後円部に向かって低くなる。これは山側から山裾に向かって低くなる尾根の自然地形から派生した形である。

最初、私はいくつかの前方後円墳を踏査して、前方部は、後円部に至る通路と考えた。しかし通路なら、(A)の様に下から後円部に向かって、登るのが普通であろう。だが実際の前方後円墳は(B)の様に上から下に降る。
前方部を通路と考えた場合、この点が解決できない問題点であった。だが玉手山でNo1、No2、No3の尾根を見て、その疑問が解けた。(C)の様に山頂から張り出した尾根を切断すれば、通路は墳丘に向かって降るのである。
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私はこの玉手山の古墳こそ前方後円墳の原形と考える。
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2014年04月19日

崇神が箸墓を造った理由

 崇神が全長280mという巨大な倭途途日百襲媛の墓を造った訳は、崇神は自分がこの王権の正当な継承者であることを、国内に知らしめるためである。
文字の普及がない時代、もちろんテレビや新聞などのメデアも存在しなかった時代、誰がこの国の権力者であるかを、広く告知するには、目に見える巨大構築物を造ることが有効なのである。
崇神は、自分が正当な王権の継承者であることを、倭途途日百襲媛の墓を造ることによって国民に知らしめたのである。

 次の図は倭途途日百襲媛に至る系譜である。倭途途日百襲媛という女性が大和朝廷の王権の血筋を色濃く引く女性であることが理解できる。

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 『日本書紀』によると崇神が王位に就いた初期の頃は王権は不安定な状況であった。国民が流亡したり、武埴安の反乱が起きるなど決して安定した王権ではなかったのである。
しかも王権の継承者としては、必ずしも崇神が筆頭という訳でもない。
『日本書紀』は少し奇妙な記述をなす。開化記の中で次のように述べる。「六年伊香色謎(いかがしこめ)を皇后に立てた。后は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇を生んだ。これよりさき、天皇は、丹波の竹野媛を入れて妃とし、彦湯産隅命(ひこゆむすみ)を生んだ」とする。普通に考えれば先に娶った女性が正妃すなわち皇后で、あとに娶った女性が妃のはずである。ところうが『日本書紀』は、先に娶った竹野媛を妃、後に娶る伊香色謎を皇后とする。
竹野媛は単なる妃ではない。天豊姫(あまとよひめ)と言い『魏志倭人伝』が台与とする女王である。その女王の子供は彦湯産隅命(ひこゆむすみ)で、王権の継承者としては筆頭となる存在である。『日本書紀』には崇神を正当な王権の継承者とするための潤色がうかがえる。

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崇神は彦湯産隅命をさしおいて、王権の座に就くわけである。そこに至るには、物部氏の意向が強かった事が推測される。崇神が王位に就く前の時代、物部氏は孝元の皇后、欝色謎命を皇后に立てる。次に開化の皇后に伊香色謎を送り込んでいる。物部氏が王権の中で強力な立場を築いたことが推測される。崇神はその物部氏の女性伊香色謎の子供である。物部氏の意向を反映して崇神王朝が誕生するのである。
このように系譜から見えてくる状況を推測すると、崇神が大和朝廷の正当な王権の継承者であることを誇示するために、王権の血筋を色濃く受け継ぐ、倭途途日百襲媛の巨大な墓を築造したのである。またその墓の形は長期王権の座に君臨した、卑弥呼すなわち宇那比姫命の墓をモデルにしたのである。

 また倭途途日百襲媛は竹野媛すなわち台与の従妹でもある。台与が西晋に朝貢したのは266年である。この時代は、まだ開化の時代である。箸墓が築造されるのは崇神の時代である。したがって、私は箸墓築造の年代を280年前後と推定する。
posted by 曲学の徒 at 10:51 | Comment(3) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち