2010年11月18日

邪馬台国の場所探しはなぜ混乱したか

 邪馬台国が何処か、長きに渡って議論されてきたが、現在に至るも決着を見ない。
なぜかくも混乱したかである。

理由は魏志倭人伝に記された地理像の不正確さにある。
魏志倭人伝に記された行程をそのままたどれば、邪馬台国は九州島のはるか南の海の中となる。あり得ない場所である。
このことは、この地理像がどれだけ不正確かを物語る。

最後の行程、陸行1月以外はすべて船

魏志倭人伝によると邪馬台国へは、狗邪韓國から、対馬と壱岐を経由して末盧国に至り次いで伊都国に至る。
朝鮮半島から対馬、壱岐を経由し壱岐の対岸にある松浦半島に上陸するのである。
問題は末盧国から伊都国への行程を陸行とすることである。
一般的に壱岐から九州島を目指せば、松浦半島の北端呼子あたりに上陸する事になる。
ここから伊都国すなわ現在の前原市あたりに、船で向かうのに何の問題もない。
その後、長い航海が続くことを考えれば、この区間を船を降りて陸行する理由は何もない。
この区間も水行、すなわち船である。その証拠がある。

魏志倭人伝は諸韓国や郡の使いが、伊都国にやってきた時「皆臨津」とする。「津」すなわち港にやってきている。当然船で来るのである。
また魏志倭人伝は経由国の官の名前を記す。ところうが末盧国についてのみ、その官を記さない。
それは末盧国の官が居る場所に寄っていないのである。末盧国の北端呼子あたりから、そのまま伊都国を目指している。

倭国を訪れた人が描いた地理像ではない

それでは魏志倭人伝は、なぜこのような誤りを犯しているのであろうか。
魏志倭人伝の情報源は、240年頃倭国を訪れた魏の使者による報告書あるいは紀行紀であろう。
その報告書または紀行紀を読んだ後代の人が、その地理像を描いているのである。
そのために相当見当違いの誤りを犯している。
たとえば末盧国の情景描写の中で「草木茂盛、行不見前人」とする。草木が覆い茂り、前を行く人が見えないとする。
これは寄港場所の情景描写であって行程の状況ではない。これを行程の様子と理解し「陸行」とした可能性がある。
実際に倭国を訪れた使節団の誰かが描いた行程や地理像なら、水行と陸行を誤って記す事はない。

更に次のような誤解を含む。
魏志倭人伝は邪馬台国へ至る区間の距離や日数を記す。千里、五百里、百里などきわめて切りの良い数字である。
末盧国と伊都国の間を五百里、伊都国と奴国の間を百里とする。末盧国
伊都国、奴国をどこに想定したとしても、海上からそれぞれを見通せる範囲である。現地に立てばおおよその距離は明瞭に認識できる。船ならそれぞれ一日あれば移動できる距離でもある。
末盧国と伊都国の距離を伊都国と奴国の5倍と認識するのは、いかにも信頼性の低い数字である。
また同様に日数にしても二十日、十日、一月と極めて切りの良い数字を並べる。もし実際にこの区間を旅した人物であれば、日数は正確に数える事が出きる。
これはもはやこの区間を旅した人の認識ではない。


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報告書の日付から推定した距離や日数

それではどのようにして距離や区間日数を推定したかである。考えられるのは報告書あるいは紀行紀の日付の記述から、距離や日数を推定したのである。
ところうがこれは大きな誤差を生む。なぜなら実際に移動した日数と、滞在した日数が解らなければ、区間距離の推定に大きな誤差を生じる。

具体的な例を挙げよう。
推古十六年、小野妹子(おののいもこ)が大唐(隋)から帰って来た。この時、大唐の使者裴世清(はいせいせい)が小野妹子と一緒にやって来る。筑紫に着いたのを夏四月とする。そして六月十五日客達は難波の港に泊まった。その後秋八月三日に都に入り、海石榴市(つばいち)で迎えられる。
さらに朝廷に参内するのはその月の十二日である。
もし日本の地理をまったく知らない人物が、この日付の記述から地理像を描いたとすれば、筑紫から難波まで約1ヶ月、難波から大和の都まで1ヵ月半と認識したとしても不思議はない。
実祭には難波から都まで二日もあれば十分である。朝廷側の迎えの準備が整うまで、難波に留め置かれたのである。

魏志倭人伝は投馬国と邪馬台国の間を、水行十日陸行一月とする。
九州説でも畿内説でもこの陸行一月の解釈に苦慮する。1ヶ月もかければ相当の距離を移動できる。
九州なら福岡から鹿児島まででも可能である。
ましてや大和の玄関口である難波の港からなら、奈良県の何処でも三、四日もあれば確実に到達できる。

したがって邪馬台国畿内説に立てば、この1ヶ月は、先の裴世清の日程で見たように、難波に留め置かれた期間を含むのである。
しかしそのような事情を知らない人物が、この日付の記事から地理像を描けば、難波から都までを1ヵ月と誤解する事もありえる。
魏志倭人伝の最後の行程、陸行1ヶ月は、このような誤解に基づく距離の推測である。

不正確な地理像では、邪馬台国の場所は確定できない

このように魏志倭人伝に描かれ邪馬台国への行程記事は、倭国を訪れた事のない人物が、報告書あるいは紀行紀を基に地理像を描いたのである。そのため極めて不正確な地理像となっている。
この不正確な地理像をたよりに、邪馬台国の場所を確定しようとしても、所詮無理な試みなのである。
これが邪馬台国の場所探しが混乱した理由である。
もうそろそろ、このような不正確な地理像に基づく立論の馬鹿らしさに、気付いても良さそうなものである。

私はまったく異なる観点から、邪馬台国の王都の場所を突き止めた。
それは系図の研究からである。系図の研究から卑弥呼を補佐した男弟が、六代孝安天皇であることを知った。
記紀によれば孝安の宮は秋津島宮であり、秋津島宮の伝承地は、現在の奈良県御所市室である。
邪馬台国の王都はここと考えている。
そしてそのことを立証するのが、秋津島宮伝承地から、北東1.5kmの玉手山に、卑弥呼の墓とおぼしき、径百余歩の円墳を見ることである。
またここ玉手山は、孝安が葬られたとする伝承の場所でもある。