2017年02月17日

警告

昨年何者かによって玉手山の古墳が荒らされている。
地図の×印の場所を掘っている。複数の者による度々の仕業である。
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文化財保護法違反の犯罪である。御所市派出所に届けた。今後スコップなどを持って玉手山に入ると警察に通報されます。
posted by 曲学の徒 at 16:49 | Comment(1) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2016年12月19日

椿井大塚古墳の被葬者は彦由牟隅

写真は木津川市の椿井大塚古墳後円部から前方部を撮ったものである。前方後円墳の断面を見られる特異な古墳である。奈良線が後円部の半分を切り裂く。
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私はこの古墳の被葬者は彦由産隅(ひこゆむすみ・比古由牟須美命)であると考える。
彦由産隅は竹野媛と開化の子供とされる。彦由産隅の子供が大筒木垂根である。
大筒木垂根は現在の京都府京田辺あたりの人で、京田辺市普賢寺御所内にある王居谷古墳が、大筒木垂根の墓とされる。
椿井大塚古墳は木津川を挟んで、王居谷古墳の対岸南東6Kmくらいの所にある。椿井大塚古墳は大筒木垂根がその父、彦由産隅の墓として築いたと私は考える。

椿井大塚古墳から、三角縁神獣鏡32面をはじめ、内行花文鏡2面、方格規矩鏡1面、画文帯神獣鏡1面など計36面以上の鏡と武具が出土した。
古墳時代の前期初頭で、これだけの鏡を副葬する人物は王権の相当高位の人物である。彦由産隅は私が台与とする、天豊姫と開化の子供である。この人物であればこれだけの鏡を副葬されたとして不思議はない。
出土した鏡は36面だけではなさそうである。出土は奈良線の拡張工事によるもので偶然の発見である。出土時に持ち去られた鏡が返却されたとされるが、すべて返却されていない可能性がある。

現在三面の青龍三年銘方格規矩四神鏡が知られている。中国の有名な考古学者王仲殊氏は、この鏡は卑弥呼が魏から下賜された銅鏡百面の一つであるとする。
私は鏡の事はまったく解らないが、たぶんそれで間違いないと思う。
三面の青龍三年銘鏡の内一面は、京都府京丹後市太田南5号墳出土である。二つ目は大阪府高槻市安満宮山古墳である。
三つ目は出土地不明で個人蔵である。私はこの出土地不明の一面は、椿井大塚古墳からの出土と推測する。

なぜなら椿井大塚古墳の被葬者、彦由産隅は由碁理の孫である。魏に使いした都市牛利、すなわち由碁理たちが持ち帰った、鏡の一部を持つているはずと考えるからである。

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この鏡は個人蔵である。持ち主は出土地について、ご存知なのではないかと思う。盗品であれば、その入手した事情を話すわけにはいかない。だがもし私の推測、椿井大塚古墳出土が当たっていれば、明らかにしてほしいものである。
卑弥呼が受け取ったとされる銅鏡がどの鏡であるか明らかになるからである。わたしはこの三面の鏡は間違いなく、丹波の大縣主由碁理すなわち、239年卑弥呼の使いとして魏に赴いた、牛利につながっていると考えるからである。
posted by 曲学の徒 at 16:05 | Comment(0) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷

2016年12月08日

丹波は大和朝廷の鉄資源入手窓口

今日大和朝廷成立に至る仮説として、多くの識者から支持を集める白石太一郎氏の仮説がある。だが私は、まったくありえない仮説として、この説に反論する。

下記に記したのが白石太一郎氏の著書「古墳の語る古代史」の一節である。

「古墳出現の前提となる広域の政治連合の形成は、朝鮮半島南部の弁辰(伽耶地域)の鉄資源や、さまざまな先進文物の入手ルートの支配権をめぐる争いと関係している。すなわち、このルートを一手に掌握していた奴(な)国、伊都(いと)国など玄界灘沿岸地域と争うために、これらの国よりさらに東方の豊前、吉備、讃岐、畿内などの瀬戸内海沿岸各地のが同盟関係を結んだ。畿内・瀬戸内連合による玄海灘地域の制圧の結果成立したのが、邪馬台国を中心にする、いわゆる邪馬台国連合にほかならない。」

私の反論である。


第一点は大和朝廷の政治的支配は、大和朝廷成立の当初から九州の一部に及んでいたことである。それは倭国大乱より前である。

第二点は畿内大和朝廷の鉄資源入手ルートは、瀬戸内海経由ではない。入手の窓口は丹波である。

鉄資源入手の経由ルートは朝鮮半島から対馬、壱岐を経由し北九州に至る。そして山陰の日本海側を経由して丹波に至るのである。北部九州を経由したことは間違いないが、北部九州の一部は大和朝廷成立の当初からすでに、大和朝廷の政治的影響下にある。

『先代旧事本紀』の国造本紀は、神武の時代対馬に建彌己己命(たけみここのみこと)を津島県直(つしまあがたのあたえ)として任命する。
大和朝廷成立直後に対馬に県主(あがたぬし)が置かれるのである。半島へのルート確保の意図がうかがえる。神武時代の任命として国造本紀に登場するのは、九州では対馬と宇佐のみである。ただし対馬は国造ではなく県主である。国造本紀の中で県主が登場するのはここ対馬のみである。
対馬市厳原(いずはら)町には建彌己己命を祀る銀山上(ぎんざんじょう)神社がある。

また『魏志倭人伝』は伊都国に一大卒を置き、周辺諸国を検察していたとする。諸国はこれを畏れ、それは刺史の如くであったとする。刺史とは中国王朝が派遣する監察官である。魏の時代には郡太守に勝る権限を持ったとされる。
また「世有王、皆統屬女王國」とする。皆とする訳であるから、伊都国の王は代々女王国に統屬していたのである。
「統屬」という言葉は、支配と被支配の関係である。連合などという対等の関係などではない。この記述は二四〇年の見聞に基づくものであろうから、それ以前から伊都国王は何代にも渡って、邪馬台国すなわち後の大和朝廷に統屬しているのである。大和朝廷の政治的影響は北部九州に及んでいるのである。

大和朝廷の鉄資源入手の窓口

大和朝廷鉄資源入手の窓口は丹波である。丹波は早くから大陸と交易を行っている。丹後半島の西側に久美浜湾が広がる。久美浜湾は自然の良い港となる場所である。ここ久美浜湾の日本海側に函石浜遺跡という、縄文から室町時代まで断続的に続く遺跡がある。この遺跡からは貨泉や銅鏃、鉄鏃などの大陸からの輸入品が採取されている。中でも貨泉は紀元八〜二三の新王朝時代の物であり、ここは古くからの港湾機能を有した遺跡と考えられている。
一方興味深いのは『日本書紀』の垂仁紀に田道間守(たじまもり)が香果(かぐのみ)を求めて常世(とこ)の国へ出かけた事を記す。函石浜のある地元では、田道間守が帰国にあたってこの函石浜の港に上陸したという伝承を残す。もしこの伝承が史実を伝えるものであれば、ここは大和朝廷にとって大陸への窓口なのである。

それではなぜこの丹波が、大陸との交易の窓口となったのかである。
私は二つの理由があると考える。
一つは、貨泉という一世紀代の大陸系遺物に見るように、この地の人たちは早くから大陸に至る航海技術を有していたことである。
二つ目は、丹波は交易の対価となる水晶加工品の産地であったことによる。鉄資源入手には、何らかの交換の品物が必要である。大陸の人が欲しがる日本列島産の産物は、そう多くはなかろう。数少ない交易品の一つとして水晶の小玉が用いられた。衣服に縫い付けて飾りとしたとされる。弥生中期の峰山町奈具岡(なぐおか)遺跡には水晶を加工した玉造工房と、鉄器を加工した遺構や鉄器が出土している。丹波では鉄素材入手のための、交易品となる水晶加工製品の生産が行われていたのである。また入手した鉄素材の加工も行われていた。


大和朝廷はこの丹波を直接支配している

私が卑弥呼とする宇那比姫命の兄、建田勢命が丹波支配に赴いている。そのことを記す系図がある。『勘注系図』である。『勘注系図』は次のように記す。

「大日本根子彦太瓊【おおやまとねこひこふとに・孝霊】天皇御宇、於丹波國丹波郷、爲宰以奉仕、然后移坐于山背國久世郡水主村、故亦云山背直等祖也、后更復移坐于大和國」

建田勢命が孝霊の時代丹波の宰(みこともち)と為って丹波に赴いたとする。
建田勢命は宇那比姫命すなわち卑弥呼の兄である。王権の最有力者が何のために、丹波支配を行ったかである。それは丹波が大陸への窓口であり、鉄資源などを入手する重要な拠点であったからである。
更に建田勢命の子供建諸隅命(たけもろずみ)も丹波支配に当たる。建諸隅命は亦の名を由碁理(ゆごり)と称す。『古事記』開化天皇条に、「この天皇、旦波の大県主、名は由碁理が女、竹野比売を娶りて生みたまへる御子、比古由牟須美命(ひこゆむすみのみこと)」とある。由碁理は竹野媛の父親で、竹野媛のまたの名を天豊姫と言い『魏志倭人伝』の台与である。卑弥呼の後に女王になった台与の父親は建諸隅命で、この人物が丹波大縣主として丹波支配に当たっている。建田勢命、建諸隅命という王権の中枢の人物が直接丹波を支配したのである。それは大和朝廷にとって、丹波は鉄資源入手のため大陸につながる重要な拠点なのである。

建田勢命が館を構えたとする伝承地がある。

私は2005年頃、初めて丹波を訪れた。その時たまたま出会った地元の方に、建田勢命の館跡を訪ねると、親切に現地近くへ案内してくださった。そのときは館跡とされる場所を見下ろす林道上に案内された。林道から見下ろす崖下あたりが伝承地と教えられた。しかし竹やぶや獣除けフェンスに阻まれ現地に降りることは出来なかった。
2015年9月再度ここを訪れた。今回は林道の下側からアプローチした。山塊から流れ出た小さな谷がやや開けた扇状地を形成する。その山際の竹藪の中に土段状の場所を見た。一見すると方形墓のようにも見えるが山側はそのまま山の斜面へと続くので方形墓ではない。
ここが建田勢命の館跡であろうと推測した。
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現地を訪れる前はなぜこんな場所にという疑念があった。現地を見て疑念は晴れた。ここは小さな谷が東から流れ出るやや開けた場所である。その北側斜面を背にした南向きの場所である。このあたりでは数少ない南向きの立地となる。しかも前を小さな小川が流れ、水の便が良い。しかも古い時代には、久美浜湾に注ぐ川上谷川の河口が、この近くまで及んでいたとされる。このあたりは波静かな湾の最深部で、船の出入りには都合の良い場所である。
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丹波支配の拠点は建諸隅命の時代になると現在の京丹後市竹野町に移る。ここもまた、かっては竹野川河口に広がる入り江か潟湖が有ったとされる。

建田勢命の館跡とされる場所から300mほど南の矢田神社は、建田勢命とその子供建諸隅命を祀る。
神社伝承によれば、垂仁の時代川上麻須が創建したとされる。『勘注系図』によれば川上麻須は建諸隅命の子ともされる。
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posted by 曲学の徒 at 14:38 | Comment(1) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷

2016年12月02日

台与擁立に至る戦いの遺構

今回東大寺山を訪れるにあたって古墳の見学以外にもう一つ目的があった。
奈良県最大の環壕を見る事であった。
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東大寺山古墳の墳頂から竹藪を東方向に分け入った。シャープの研究所裏手あたりで環壕の一部を確認した。深さは2mくらい。幅4mくらいはあろうか。張り出した尾根を取り巻くように掘られている。
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また山腹の斜面を垂直に掘り崩し、容易には登れないようにした崖状の地形も確認できる。戦いを想起させるには十分な遺構である。
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この環壕を高地性集落と呼ぶことがあるが、集落という言葉のイメージとは程遠い。日常生活が営まれた場所ではない。戦闘の為の砦、陣地、見張り台、山城とでも呼ぶ遺構である。年代は弥生後期とされる。、
私は卑弥呼の後に擁立された台与擁立に至る戦いの遺構と考える。
『魏志倭人伝』は卑弥呼の没後男王が立ったが、「国中不服」とする。そのため戦乱となり、双方で千人あまりが殺されたとする。
そして再び卑弥呼の同族の女、年十三歳の台与を立てて国は定まったとする。

私はこの台与擁立に至る戦いの一方の旗頭は、和邇氏の和邇日子押人(稚押人)と推測する。

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なぜなら和邇日子押人は私が卑弥呼とする宇那比姫命の子供であり、台与は宇那比姫命の甥の子供である。親戚関係にある。和邇日子押人は間違いなく台与擁立に関っている。
一方卑弥呼の後に立った男王とは、孝元と考える。なぜなら台与は天豊姫で由碁理の娘である。記紀によれば由碁理の娘竹野媛は開化の妃とされる。台与は竹野媛であり、台与の時代の天皇は九代開化である。したがって台与が擁立される前の天皇は八代孝元で、卑弥呼没後に立った男王と考える。
孝元の皇后は物部氏の欝色謎命(うつしこめのみこと)、物部氏系譜によれば欝色謎命の兄、欝色雄命(うつしこおのみこと)は孝元の大臣である。
男王すなわち孝元の後ろ盾は物部氏なのである。したがって男王側の勢力は物部氏である。

一方この男王を不服とした勢力は、台与を擁立した勢力である。和邇日子押人は台与の親戚筋の人物で、台与擁立に関ったと推測する。反物部氏側の人物である。

和邇日子押人が住んだとされる場所が和邇氏の系譜に記される。静岡県磐田市の国玉神社宮司家、大久保氏系譜は和邇氏の系譜を伝える。その系譜によれば、和邇日子押人は和邇の里に居るとする。和邇の里とは現在の天理市櫟本あたりで、東大寺山はその裏山である。和邇日子押人たちはここを砦として物部氏と対峙したのである。
推測に推測を重ねる仮説であるが、この環壕が250年代後半のものであれば、台与擁立に至る戦いの遺構で間違いないと考える。


posted by 曲学の徒 at 13:03 | Comment(4) | TrackBack(0) | 魏志倭人伝の登場人物

2016年11月29日

東大寺山古墳の被葬者は武振熊命

かって東大寺山古墳を訪ねた事がある。ところうが墳頂に至る道が解らず、やみくもに墳頂を目指すも、密生する竹藪と金網のフェンスに阻まれ古墳に至ることが出来なかった。
今回は十分な情報を得て再度訪れた。天理教城法(しきのり)大教会の敷地内を通り墳頂に至る。事務所で古墳を訪ねる旨を伝え、駐車の了解を取ると、親切に東大寺山古墳の説明書を手渡された。この教会から墳丘までは150mくらいの整備された山道である。

私は東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀は、卑弥呼が公孫度(こうそんたく)から受け取った刀と推測する。
その刀がなぜ東大寺山古墳から出土したかである。私はこの古墳に葬られた人物は、卑弥呼の子孫と考える。
私が卑弥呼とする宇那比姫命は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の妻である。天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物である。したがって宇那比姫命も和邇氏の祖で、その子孫は卑弥呼の子孫なのである。

東大寺山古墳は和邇氏の墓である。それではこの古墳に葬られた人物は誰なのかである。
363年4月武内宿禰は、神功皇后を担ぎ新羅侵攻を企てる。だが渡海作戦を実施するにあたって十分な船がなかった。そこで和邇氏の武振熊命は、丹波、但馬、若狭から、航海に長けた海人300人と船を集め参戦する。そのことが『勘注系図』という海部氏の系図に記される。
その後、大和に帰還しようとするとする神功達と、これを阻止せんとする、駕籠坂王(かごさかのみこ)や忍熊王(おしくまのみこ)と戦いになる。最後は建振熊命が忍熊王を琵琶湖のほとりに追い詰め、神功側の勝利となる。
建振熊は神功応神朝成立の功労者なのである。これを期に和邇氏は神功応神朝の有力豪族となる。
東大寺山古墳のある天理市櫟本あたりは和邇氏が住んでいた場所である。ここに全長140mの東大寺山古墳、107mの赤土山古墳、120mの和爾下神社古墳が築造される。築造の順序は東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳で、四世紀末から五世紀初めとされる。何れも和邇氏の墓である。

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私は最初に造られた東大寺山古墳は、建振熊命の墓と考える。363年に活躍した建振熊は4世紀末頃没したと思われる。東大寺山古墳の築造年代と一致する。またその古墳には大量の武具が副葬されていた。葬られた人物が武人であったことを物語る。
武振熊命は新羅の役や忍熊王との戦いで活躍し、神功応神朝の成立に功績のあった人物である。4世紀代和邇氏隆盛の礎(いしづえ)を築いた人物である。したがって最初に築造された東大寺山古墳は、武振熊命の墓と考える。
和邇氏の墓から中平銘鉄刀が出土したことは、宇那比姫命が卑弥呼であるという私の説を裏付ける。
次の図は宇那比姫命から武振熊命に至る系図である。
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posted by 曲学の徒 at 16:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | 卑弥呼には夫も子もあった