2016年11月29日

東大寺山古墳の被葬者は武振熊命

かって東大寺山古墳を訪ねた事がある。ところうが墳頂に至る道が解らず、やみくもに墳頂を目指すも、密生する竹藪と金網のフェンスに阻まれ古墳に至ることが出来なかった。
今回は十分な情報を得て再度訪れた。天理教城法(しきのり)大教会の敷地内を通り墳頂に至る。事務所で古墳を訪ねる旨を伝え、駐車の了解を取ると、親切に東大寺山古墳の説明書を手渡された。この教会から墳丘までは150mくらいの整備された山道である。

私は東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀は、卑弥呼が公孫度(こうそんたく)から受け取った刀と推測する。
その刀がなぜ東大寺山古墳から出土したかである。私はこの古墳に葬られた人物は、卑弥呼の子孫と考える。
私が卑弥呼とする宇那比姫命は天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)の妻である。天足彦国押人命は、和邇氏の祖とされる人物である。したがって宇那比姫命も和邇氏の祖で、その子孫は卑弥呼の子孫なのである。

東大寺山古墳は和邇氏の墓である。それではこの古墳に葬られた人物は誰なのかである。
363年4月武内宿禰は、神功皇后を担ぎ新羅侵攻を企てる。だが渡海作戦を実施するにあたって十分な船がなかった。そこで和邇氏の武振熊命は、丹波、但馬、若狭から、航海に長けた海人300人と船を集め参戦する。そのことが『勘注系図』という海部氏の系図に記される。
その後、大和に帰還しようとするとする神功達と、これを阻止せんとする、駕籠坂王(かごさかのみこ)や忍熊王(おしくまのみこ)と戦いになる。最後は建振熊命が忍熊王を琵琶湖のほとりに追い詰め、神功側の勝利となる。
建振熊は神功応神朝成立の功労者なのである。これを期に和邇氏は神功応神朝の有力豪族となる。
東大寺山古墳のある天理市櫟本あたりは和邇氏が住んでいた場所である。ここに全長140mの東大寺山古墳、107mの赤土山古墳、120mの和爾下神社古墳が築造される。築造の順序は東大寺山古墳、赤土山古墳、和爾下神社古墳で、四世紀末から五世紀初めとされる。何れも和邇氏の墓である。

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私は最初に造られた東大寺山古墳は、建振熊命の墓と考える。363年に活躍した建振熊は4世紀末頃没したと思われる。東大寺山古墳の築造年代と一致する。またその古墳には大量の武具が副葬されていた。葬られた人物が武人であったことを物語る。
武振熊命は新羅の役や忍熊王との戦いで活躍し、神功応神朝の成立に功績のあった人物である。4世紀代和邇氏隆盛の礎(いしづえ)を築いた人物である。したがって最初に築造された東大寺山古墳は、武振熊命の墓と考える。
和邇氏の墓から中平銘鉄刀が出土したことは、宇那比姫命が卑弥呼であるという私の説を裏付ける。
次の図は宇那比姫命から武振熊命に至る系図である。
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posted by 曲学の徒 at 16:36 | Comment(4) | TrackBack(0) | 卑弥呼には夫も子もあった

2016年10月25日

稲部遺跡に見る鉄器流入ルート

10月22日滋賀県彦根市稲部(いなべ)遺跡現地説明会に行ってきた。
二世紀から四世紀代の遺跡とされる。
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注目されるのは三世紀前半の鍛冶工房群建物が出土していることである。
『魏志倭人伝』に登場する邪馬台国時代の鍛冶工房である。鉄を加工した際に出来た鉄屑などが6s出土したとされる。大規模な鉄器加工の拠点である。
邪馬台国時代の鉄流通経路の一端が見えてくる。
鉄素材は朝鮮半島から丹後へ、そして若狭の小浜を経由し、琵琶湖西岸の今津に至る。ここから船で琵琶湖東岸の稲部に運ばれたのである。ここで加工され、畿内あるいは東海地方へもたらされた可能性が推測できる。

近江と関係の深い物部氏

大和朝廷の有力豪族物部氏は、近江と深い関係がある。滋賀県野洲あたりの豪族三上氏と複数世代にわたり婚姻関係にある。

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この三上氏と稲部遺跡との関係は定かではないが、三上氏の奉斎する三上山は稲部遺跡の25q位南である。琵琶湖東岸の地帯は鉄素材流入と加工に深くかかわる地域である。
また稲部遺跡から、溶けた銅を流し込む湯口に固まった銅片が出土している。銅製品の加工も行われている。三上氏の拠点である野州市大岩山は24個の銅鐸が出土したことで知られている。おそらくこの銅鐸もこの地域で制作された物であろう。この地域では古くから金属加工が行われていたのである。
物部氏が、琵琶湖東岸の鍛冶工房から鉄器を入手するのは容易なことである。むしろ私は物部氏が鉄器の入手を通じて、三上氏と強く結びついていると考える。

丹波から近江への鉄の道

もう一つ三上氏と関わる氏族がある。私が卑弥呼や台与の出身氏族とする尾張氏である。
『勘注系図』は尾張氏の彦火明命三世孫倭宿禰の、またの名を天御蔭命とする。天御蔭命は三上氏が奉斎する御上神社の祭神でもある。
倭宿禰は天村雲命が丹波に居た時娶った伊加里姫命との間に生まれた子供である。天御蔭命によって、丹波とこの琵琶湖東岸の地がつながるのである。
更に尾張氏の八世孫倭得玉命は淡海国(おうみのくに)の谷上刀婢(たなかみとべ)を妻とする。谷上刀婢が三上氏の女性であるかは定かではないが、尾張氏は淡海国(近江)ともつながる。倭得玉は台与の兄妹で三世紀後半の人である。

丹波支配に当たった尾張氏

尾張氏は卑弥呼の兄、建田勢命が丹波支配に当たる。次いでその子供建諸隅命が丹波大縣主として丹波を支配する。丹波は大和朝廷にとって大陸との交易の重要拠点なのである。その事を物語る遺跡がある。
建田勢命が府を置いたとする場所は、京丹後市久美浜町海士(くみはまちょうあまべ)である。久美浜湾のほとりである。その久美浜湾の日本海側に函石浜遺跡がある。そこからは中国からもたらされた刀銭や貨泉など、古い時代の遺物が出土している。大陸と直接交易の在ったことを伺わせる。
丹後は大和朝廷にとって大陸との交易の窓口なのである。丹後にもたらされた鉄素材は若狭を経由して琵琶湖東岸に運ばれたのである。

邪馬台国は容易に鉄器を入手できた

邪馬台国九州説を唱える安本美典氏は、弥生の時代北部九州から鉄器が大量に出土すが、奈良県からは鉄器がほとんど出土しない。このことを根拠に邪馬台国畿内説を否定する。
だが大和朝廷の有力豪族である物部氏は、三上氏と結びつくことによって鉄器を容易に入手する立場にある。また尾張氏は鉄素材入手の拠点である丹波を支配している。
奈良県の弥生末遺跡から鉄器が、出土しない理由は不明であるが、卑弥呼時代ににおいて、大和朝廷は間違いなく鉄器を入手している。
安本氏の立論は稲部遺跡から出土した鉄屑によってもろくも崩れるのである。

倭国大乱は鉄入手ルートをめぐる戦いなどではない

もう一つバカバカしい仮説がある。倭国大乱を鉄入手ルートをめぐる近畿以西の国と、北部九州の国との戦いであるとする仮説である。
この説は鉄入手ルートとして瀬戸内海を想定する。だが邪馬台国すなわち大和朝廷の鉄入手窓口は丹波である。丹波は早くから大和朝廷の勢力圏にあり、瀬戸内海の政治状況が変化しても、入手ルートが途絶える危機に遭遇することなど無い。
『後漢書倭伝』は「桓霊間倭國大亂更相攻伐歴年無主」として「歴年無主」とする。主の無い国同士の戦いなど想像できない。
倭国大乱とは、王位が空白となった為に起きた、大和朝廷内の王位をめぐる内紛である。
posted by 曲学の徒 at 11:33 | Comment(1) | TrackBack(0) | 丹波と大和朝廷

2016年07月08日

日本最大の円墳と楕円墳

私は玉手山の二つの古墳は同時代としては日本最大級の古墳とする。詳しくはこちら
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これまで、前方後円墳が造られるようになる以前の古墳としては、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓が、国内最大規模とされてきた。楯築墳丘墓は円丘部分が直径43m、両側に張り出した突出部を入れた全長は、現在確認される範囲で72mとされる。
私が2とする古墳は、盛り土の範囲だけでも長径80mくらいに及ぶ。尾根全体を墓域とすれば、楯築墳丘墓などよ、りはるかに大きな古墳である。
尾根全体を古墳とするなら、日本最大の円墳とされる埼玉県行田市の丸墓山古墳(直径105m)より巨大である。
1とする古墳は、盛り土の大きさでは2に及ばない。だが尾根全体の大きさではほぼ2に匹敵する。私は、この二つは日本列島最大規模の円墳、あるいは楕円墳とする。
その事を実証する手立てがある。
精密な地形測量を行い地形図を作成すれば、盛り土の範囲や尾根裾に改変があるか否か判別できると考える。
レーザー航空測量による地形図の作成である。
以前橿原考古学研究所は、この方法によつて、箸墓古墳、西殿塚古墳、新沢千塚古墳群などの測量を行い立体地形図を作成している。図は千塚古墳群の赤色立体地図である(橿原考古学研究所提供)

http://www.kashikoken.jp/from-site/2011/niizawa_rittaichizu.pdf
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この地形図では地形の微妙な凹凸なども読み取れる。この測量のメリットは、地表が樹木などに覆われていても、膨大なレーザーパルスの一部は、木々の枝葉間を通り抜け、地表に到達する。これにより木々に覆われた場所でも地形の測量が可能な事である。
かって私は、このレーザー航空測量の実施を模索した。だが、ヘリやセスナを使うこの航空測量は費用が相応にかかり断念した。
しかし近年ドローンという無人航空機による、レーザー測量が試みられている。この方法であれば費用は相当安く抑えられるという。レーザー航空測量実現の可能性が見えてきた。
レーザー測量によって精密な地形図が作成できれば、この玉手山の古墳が国内最大の円墳である事を立証できると確信している。
ぜひレーザー測量の実施を実現したい。

posted by 曲学の徒 at 14:45 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

真の孝安陵か?

次に2の古墳である。この古墳は長径160m短径90m位の楕円の尾根上に造られる。最近ようやく盛り土の範囲を確認できた。盛り土はおおよそ長径80m、短径45m位に及ぶ。同時代としては国内最大規模である。この墳丘でも北側斜面には表層の崩落がある。盛り土という軟弱な地層ゆえの崩落であろう。
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次の航空写真に見る中央の楕円形が、おおよその盛り土の範囲である。この楕円形は、生えている樹木の違いによるのか、盛り土と自然土壌の違いによる生育環境の違いによるのか判然としないが、この楕円の外周あたりに、微妙な傾斜の変化が見て取れる。

ここまでが盛り土の範囲であろう。盛り土の範囲だけでも、これまで国内最大とされてきた岡山県倉敷市の楯築墳丘墓より大きい。
ただし墳頂は何らかの理由により大きく削平されていると見る。西側に墳丘の一部を残すが、墳頂は平坦地となる。
また2500分の1の地形図から尾根の先端は掘り崩されていると見る。尾根全体を古墳とすれば長径160mにも及ぶ巨大古墳である。
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この古墳の築造年代は3世紀中ごろであろう。墳丘の盛り土の中から次のような土器片が出土している。図に示すような壺の底である。3世紀前半とされる、底が尖った庄内式土器である。
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『記紀』によれば玉手山は、六代孝安天皇が葬られたとされる場所である。この『記紀』伝承は事実を伝えると考える。
だが今日宮内庁が孝安天皇陵とする古墳は、本当の孝安陵ではないと考える。
なぜなら、そこに存在する墳丘は直径13m前後の小さな古墳である。幕末尊王思想の高まりの中で天皇陵が修復された。図は文久の修陵に当たり改修前に描かれた、孝安陵とする古墳の図である。尾根の先端に存在する小さな墳丘を孝安陵とする。
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玉手山にはこれより大きな墳丘がいくつか存在する。2の墳丘は長径80mくらいと、これよりはるかに巨大である。そこから出土した土器片から、孝安没年頃の築造として不思議はない。

1の尾根は、孝安の宮とされる室秋津島宮の方向から見た時、整った土饅頭型に見える。
2、と3は秋津病院の建物でさえぎられるが、建物が無ければこれらも整った土饅頭型に見えるはずである。これら玉手山の西側に張り出した尾根上の古墳は、何れも秋津嶋宮の方角から見ることを前提に築造されている。現在宮内庁が孝安陵とする円墳は東側に張り出した尾根上に存在し、秋津嶋宮からは見ることが出来ない。その点でもこの古墳は孝安陵ではない。私は1が径百余歩とされる卑弥呼の墓で、2が本物の孝安陵と推測する。

3の古墳は一目見て古墳と解る。解りやすい古墳である。山側から見ると直径7〜8mの円墳にしか見えない。だが墳丘の裾は尾根の中腹まで及び直径20mの円墳である。
墳丘が築かれるにあたっては、尾根の樹木は全て伐り払われていたであろう。樹木が無ければ墳丘と尾根は一体に見える。尾根幅は45mほどで尾根全体が墓域なら相当大きな古墳である。
築造の時期は不明であるが、私は1、2に続く時期の築造であろうと推測する。

posted by 曲学の徒 at 13:19 | Comment(0) | TrackBack(0) | 孝安天皇陵

直径150mの尾根

2008年以来玉手山で古墳の調査を続けてきた。
私が日本最大級の円墳とする二つの古墳の概要が解ってきた。
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図は玉手山の西斜面に張り出した、尾根を南上空から眺めたイメージ図である。
説明のために尾根に番号を付ける。北から1、2、3とする。
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1の尾根は、航空写真ではほぼ円形に見える。また南西の地上からは直径150mの円墳に見える。
尾根上に盛り土を成して墳丘を築く。墳丘の大きさは尾根方向で25m。尾根方向の盛り土の範囲は明瞭に識別できる。
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尾根と直行する方向では、盛り土の範囲を明瞭に確認できない。北側、南側共に斜面表層の山砂が一部崩落する。盛り土という軟弱な地層ゆえの崩落と考えられる。南斜面の崩落個所は、墳丘の中心から30mほどの所である。この崩落個所あたりも盛り土の範囲と推測する。北斜面でも大規模な表層の崩落がある。盛り土の範囲は尾根方向で25mほどであるが、尾根と直行する方向では40〜50mに及ぶと推測する。
平地側にテラス状の平坦地がある。尾根の背の山砂を墳丘に盛り上げたと思われる。

尾根そのものは自然の尾根である。しかし、私は尾根裾は人の手によって整形されていると考える。
図に示した「ア」の地点で、鉄杭を使った地層調査を行った。
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尾根の斜面では鉄杭が私の体重で容易にめり込む。だが尾根裾の外側では、深さ20pくらいで地山の固い地層に突き当たる。鉄杭は容易にはめり込まない。尾根の斜面は、花崗岩の風化によって出来た柔らかな山砂に覆われる。自然の地層である。だがその尾根の外側、有機物の堆積する表層の下は、固くしまった地層で柔らかな山砂の堆積がほとんどない。山砂が取り除かれている。このことから私は尾根裾は人為的に整形されていると考える。したがって尾根全体を墓域とする直径150mほどの円墳である。

この古墳の築造時期についてである。墳丘の発掘調査で出土したのは鉄鏃の塊であった。5世紀末頃の遺物である。私の期待した時代の物では無かった。しかしこれはこの古墳の築造時代の物ではないと考える。出土したのは墳丘の中心から3mほど離れた場所である。中心を掘らなかったのは、地中レーダー探査を行った際、中心付近ではレーダーの反応がなかったからである。
後に墳丘の裾で土器片を採取している。小さな土器片で年代を確定するまでには至らないが、3世紀中ごろとしてもおかしくないと考える。
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bQからは庄内式と思われる土器片が出土した。3世紀前半の土器である。1も同時代の古墳と考える。私はこの古墳こそ『魏志倭人伝』が伝える径百余歩の卑弥呼の墓とする。
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posted by 曲学の徒 at 11:39 | Comment(0) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓