2016年07月08日

直径150mの尾根

2008年以来玉手山で古墳の調査を続けてきた。
私が日本最大級の円墳とする二つの古墳の概要が解ってきた。
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図は玉手山の西斜面に張り出した、尾根を南上空から眺めたイメージ図である。
説明のために尾根に番号を付ける。北から1、2、3とする。
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1の尾根は、航空写真ではほぼ円形に見える。また南西の地上からは直径150mの円墳に見える。
尾根上に盛り土を成して墳丘を築く。墳丘の大きさは尾根方向で25m。尾根方向の盛り土の範囲は明瞭に識別できる。
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尾根と直行する方向では、盛り土の範囲を明瞭に確認できない。北側、南側共に斜面表層の山砂が一部崩落する。盛り土という軟弱な地層ゆえの崩落と考えられる。南斜面の崩落個所は、墳丘の中心から30mほどの所である。この崩落個所あたりも盛り土の範囲と推測する。北斜面でも大規模な表層の崩落がある。盛り土の範囲は尾根方向で25mほどであるが、尾根と直行する方向では40〜50mに及ぶと推測する。
平地側にテラス状の平坦地がある。尾根の背の山砂を墳丘に盛り上げたと思われる。

尾根そのものは自然の尾根である。しかし、私は尾根裾は人の手によって整形されていると考える。
図に示した「ア」の地点で、鉄杭を使った地層調査を行った。
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尾根の斜面では鉄杭が私の体重で容易にめり込む。だが尾根裾の外側では、深さ20pくらいで地山の固い地層に突き当たる。鉄杭は容易にはめり込まない。尾根の斜面は、花崗岩の風化によって出来た柔らかな山砂に覆われる。自然の地層である。だがその尾根の外側、有機物の堆積する表層の下は、固くしまった地層で柔らかな山砂の堆積がほとんどない。山砂が取り除かれている。このことから私は尾根裾は人為的に整形されていると考える。したがって尾根全体を墓域とする直径150mほどの円墳である。

この古墳の築造時期についてである。墳丘の発掘調査で出土したのは鉄鏃の塊であった。5世紀末頃の遺物である。私の期待した時代の物では無かった。しかしこれはこの古墳の築造時代の物ではないと考える。出土したのは墳丘の中心から3mほど離れた場所である。中心を掘らなかったのは、地中レーダー探査を行った際、中心付近ではレーダーの反応がなかったからである。
後に墳丘の裾で土器片を採取している。小さな土器片で年代を確定するまでには至らないが、3世紀中ごろとしてもおかしくないと考える。
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bQからは庄内式と思われる土器片が出土した。3世紀前半の土器である。1も同時代の古墳と考える。私はこの古墳こそ『魏志倭人伝』が伝える径百余歩の卑弥呼の墓とする。
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秋津遺跡の重要性

 1989年(平成元年)2月、佐賀県吉野ケ里遺跡が、大々的に新聞報道されることによって、話題を呼びこの年の来場者は180万人に達した。
この時、重要な役割を果たしたのは、著名な考古学者佐原真氏である。
氏は極めて上手な話法を用いた。楼観、城柵、宮室の3点セットが出土したという話法である。
あたかも邪馬台国と関連する遺構であるかの言い回しである。もちろん氏は邪馬台国九州論者ではない。吉野ケ里が邪馬台国でないと考えていた上での言い回しである。
単に弥生の環濠集落と言うだけなら、これほどまでに多くの関心を集めることは無かった。邪馬台国との関連を持ち出すことによって注目を集め、その重要性を強調したのである。氏のたくみなリードにより吉野ケ里遺跡の保存が実現し、後に国営公園としてし整備されるに至った。

私は、秋津遺跡の重要性は吉野ケ里遺跡の比ではないと考えている。ブレークすれば年間180万人を超える来場者が押し寄せると予想している。
残念ながら私は著名人ではない。現時点で私の発言をマスコミが取り上げることはない。
だがもし調査主体の橿考研が、この遺構の重要性に気づき、マスコミを通じて報道したなら、一挙に国民的関心を集めることになろう。橿考研は日本最多の考古学者を擁する研究機関である。その影響力は大きい。
私は橿考研がこの遺構の重要性をアピールする日を心待ちにしている。しかし桜井市の纏向遺跡こそ、初期大和王権の王都の場所と信じて疑わない人たちに、秋津遺跡の重要性を認識できるのであろうか。



2016年06月05日

炭素年代測定による方形区画施設の年代

方形区画施設の年代は卑弥呼の在位年代の物である。そのことを炭素年代測定値が裏付ける。
次の図は日本産樹木年輪の示す炭素14年代とIntCal09とを比較したものである。
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出典:国立歴史民族博物館研究報告 第163集 2011年3月
「古墳出現期の炭素14年代測定」
日本産樹木年輪の示す炭素14年代とIntCal09との比較

ヨーロッパ産の樹木を用いて作成された北半球標準の較正曲線IntaCalと年代の解る国産樹木の炭素年代測定値では、1世紀代から3世紀頃に於いて日本産樹木の炭素年代値は、古い値を示すことが解る。
この図に南半球標準較正曲線を書き加えたのが次の図である。
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以前私はこのブログで、日本列島出土試料の推定年代は、南半球標準のShCalで較正した年代より新しくはならないとした。しかし、これは訂正する必要がある。ShCalで較正した年代より大幅に新しくなることは無いが、必ずしもShCalよりは新しくはならないとは言えない。
だがこの遺構が、古墳時代前期に収まらないとする見解に変わりはない。

橿考研が、古墳時代前期とする遺物の炭素年代値は、次のようなものである。
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この中で古い炭素年代値を示した掘立柱建物について、日本産樹木のグラフを元に、おおよその年代を推定してみる。
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炭素年代値1910±20のSB0040、および1900±20のSB0030bは、1世紀から3世紀前半の年代を示す。可能性の高いのは2世紀代である。
どう見ても西暦250年よりは新しくはならない。
また1850±20のSB0085についても300年代という可能性はあるが、可能性の高いのは3世紀前半である。
これらは測定された資料の年代で、それがそのまま建物の存続時期を表すわけではない。だがこれらの年代を古墳時代前期とすることには無理がある。
これらの掘立柱建物は、方形区画施設内部の建物である。方形区画施設の年代に通じると考える。
これは秋津嶋宮の一部であり、それは卑弥呼の在位期間の建物であると、私は考える。すなわち2世紀末頃から、3世紀中ごろに存在したのである。炭素年代測定値はそのことを裏付ける。






2015年12月25日

卑弥呼の王宮を守れ

大変なことになっている。橿考研は秋津遺跡の重要性に気付いていない。卑弥呼の王宮の一部が出土しているにもかかわらずそのことを理解していない。
秋津遺跡は縄文末、弥生中期、古墳時代前期と続く重層する遺跡である。橿考研は古墳時代前期とする遺構の年代を、三世紀中ごろから四世紀中ごろとする。もちろん、その年代の竪穴住居も多数存在する。だが方形区画施設やその中に存在した高床式建物の年代は、卑弥呼の時代の物である。二世紀末から三世紀中ごろに存在したのである。
そのことは、炭素年代測定値が示す。方形区画施設の内部は清浄に保たれ、内部から直接その年代を推定する遺物は見つかっていない。だが炭素年代測定値の示す、その内部の高床式建物の年代は、古墳時代前期に収まるようなものではない。また方形区画区施設の内部の高床式建物を、布留時代の竪穴住居が切り崩す。その高床式建物を取り囲んでいた塀は三回にわたって建て替えられている。最初の塀の年代は布留式時代をはるかにさかのぼる。更に二世紀代から三世紀前半の遺物とされる、多孔銅鏃も出土している。

ここは秋津嶋宮の伝承地である。六代孝安の秋津嶋宮の一部が出土しているのである。すべての遺構が保存できるわけではない。単に歴代天皇の宮が出土したというだけなら、調査の上自動車道の橋脚の下に消滅したとしてもやむを得ない。だが卑弥呼の王宮であれば話は別である。何としてでも保存されなければならない。すでに橋脚の下に消滅した部分は、もはやいかんともしがたい。だが遺構は更に東西方向に広がる可能性がある。その部分だけでも残すべきである。

私はこの近辺の発掘調査が開始される前に、この秋津嶋宮の出土を予見した。だが発掘調査によって大型建物群が出土したとしても、一豪族居館跡として片づけられることを危惧した。それを秋津嶋宮との関連で考える人など無かろうと思った。ましてや卑弥呼の王宮などと言い出す者は無い。そこで、ここが卑弥呼の王宮であることを理解してもらう為には、玉手山に卑弥呼の墓が在る事を立証することが一番と考えた。
稚拙な発掘が遺跡破壊に成りかねないことは承知の上で、発掘を敢行した。2008年の頃である。当初簡単に立証できると思った。あれからすでに8年が経つ。古墳であることは立証できたが、いまだに、ここが日本最大の円墳である事を、立証できていない。古墳と確定して以来、一切の発掘行為は出来ないがこれまで、藪を刈りはらうなどして地形の観察を繰り返してきた。ようやく一部盛り土の裾を確認するに至った。尾根全体を墓域とする、巨大古墳であることが解ってきた。

年の瀬に至り、この一文をしたためる。2008年当時危惧したことが現実のものとなっている。この遺構の重要性を認識できていない。私はこの遺構の重要性を世間に訴えるために、来年には何としてでも、この玉手山の古墳が卑弥呼の墓であることを立証しようと思う。そのための新しい試みを企画している。
そのことが、秋津遺跡の重要性に気づいてもらうための、私のできる方法であると思うからである。
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2015年11月22日

御所市は大和朝廷発生の地

 御所市は初期大和朝廷の王都の地である。
二代綏靖(すいぜい)の葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)、五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)、六代孝安の室秋津島宮(むろあきつしまのみや)は何れも現在の御所市内である。
また橿原市あたりまで範囲を広げれば三代安寧(あんねい)の片塩浮穴宮(かたしおうきあなのみや)、四代懿徳(いとく)の軽曲峡宮(かるまがりおのみや)なども近くである。奈良盆地南部は初期大和朝廷の発生の地で王都なのである。
以降七代孝霊や九代開化あたりから宮は奈良盆地の北部へ移るが、初期の大和朝廷の宮は奈良盆地の南部に営まれたのである。

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私は初代神武の橿原宮(かしはらのみや)も現在の御所市の内に在ったと考える。現在橿原市の橿原神宮あたりを橿原宮の跡地とするが、ここは明治になってから、このあたりが橿原宮の跡地であろうとして定めたものである。その根拠となったのは『日本書紀』が伝える「畝傍山の東南の橿原の地」という記述である。
しかし私は初代神武の橿原宮はこの畝傍山の麓ではないと考える。

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江戸時代本居宣長が畝傍山(うねびやま)近辺に橿原宮の跡地を尋ねた。だが畝傍山近辺に「かしはら」という場所は無く、西南一里ばかりのところに「かしはら」という処のある事を聞いたととする。そのことを『菅笠日記』に記す。西南一里の「かしはら」とは現在の御所市柏原のことである。
現在の橿原市という地名は昭和31年、近隣市町村が合併し名付けられた名前である。江戸時代に畝傍山近辺に「かしはら」という地名は存在しなかった。1736年に成立した『大和志』では、御所市の柏原を橿原宮伝承地とする。
私が『大和志』などが伝える御所市の柏原を橿原宮の場所とするその根拠は次のようなものである。

神武は即位後、掖上のホホマの丘で国見をする。ホホマの丘が何処か確定は出来ないが、掖上とするわけであるから御所市の内である。その伝承地として御所市の国見山、あるいは御所市本馬町の本間の丘ともされる。この本間の丘南麓には、創建の経緯は不明であるが神武を祭神とする神武天皇社が祭られる。また神武が日向で娶ったとされる吾平津姫(あいらつひめ)が住んだという伝承の場所に、ホンダワラ社又はホホマ神社という祠があり、吾平津姫を祭神とする。更に吾平津姫は本間の丘に葬られたとされる。このあたり神武とかかわる伝承を多く持つ。

もし橿原宮が畝傍山の山麓ならわざわざ掖上まで出向く必要などまったくない。畝傍山は奈良盆地の平野部に位置する独立峰である。ここに登れば360度を見渡せる。国見をするには最高の場所である。宮が畝傍山の麓なら国見は畝傍山に登れば良い。掖上まで出向く必要などさらさらない。
私は神武の橿原宮は畝傍山の山麓ではなく御所市に在ったと考える。
『日本書紀』の『畝傍山の東南、橿原の地』という表現は、必ずしも畝傍山の山麓とは限らない。良く知られている畝傍山という場所を起点として橿原の場所を示したにすぎないのではなかろうか。
だが御所市の柏原を橿原宮跡とするには一つの難点もある。現在の御所市柏原は畝傍山の南東ではなく南西である。『日本書紀』の方位の記述に誤りがあるとでもする必要が有る。
しかし私は神武が国見をしたという山の場所から、御所市柏原が橿原宮の在った場所と考える。御所市は大和朝廷発生の地なのである。

posted by 曲学の徒 at 15:10 | Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史