2015年09月06日

炭素年代測定値は古墳時代前期に収まらない

 秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代測定値が、橿原考古学研究所の報告書に記載されている。(奈良県遺跡調査概報 2013年度第二分冊)その炭素年代測定値のデータは次のようなものである。
akitu-Radiocarbon.gif
報告書では「北半球で用いられる較正曲線IntaCal09に対し、日本産樹木年輪試料の測定値が系統的に異なる」として「現時点では、炭素年代値記載のみに止めた」たとする。したがって暦年(実年代)の推定については記載しない。
確かに日本列島で出土した遺物の炭素年代測定値を、北半球の標準となるIntCalで較正すると、暦年代が実際より古い年代となる可能性がある。
しかしながらこの差を考慮したとしても、秋津遺跡から出土した遺物の暦年代は相当古い。それらのいくつかは古墳時代前期には収まらないと考える。
次の表と図は秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代を、IntCal13を用いて暦年代に較正したものである。較正には次のサイトで提供される分析ソフトを用いた。https://c14.arch.ox.ac.uk/embed.php?File=oxcal.html
%の68.2=1σ 95.4=2σの範囲
IntaCal13-Fig1.gif
グラフは2σの範囲
Akitu-IntaCal13(1).gif
Akitu-IntCal13.gif


日本列島の遺物を、北半球の標準となるIntCalで較正すると、実際の年代より古い値を示すとされる。それは、太平洋に面した日本列島では、南半球の大気に影響を受けることによるとされる。
この説によれば日本列島で出土した遺物は、IntCalで較正した暦年代より新しく、南半球の較正曲線SHCalで較正した暦年代より古い可能性がある。その場合、南半球の較正暦年より新しくはならないと考えられる。
そこでSHCalでの較正を行った数値も示す。
ShCal-Fig-1.gif
Akitu-SHCal13.gif

秋津遺跡からの出土遺物暦年代は、先に推定したIntaCal13とこのSHCalの間に収まると考えられる。
次の図は、方形区画施設2についてIntCal13とSHCal13で較正した図である。二つの図から方形区画施設2の年代を考察してみる。
【IntCal13】
IntaCal13-Fig4.gif
【SHCal13】
SHCal-Fig-4.gif

IntCal13では新しく見ても西暦250年頃よりは新しくならない。SHCal13では300年代という可能性も有るが、可能性の高いのは3世紀の前半である。SHCal13の3世紀前半より新しくはならないと考える。

さらに炭素年代測定値は無いが、方形区画施設3は方形区画施設2より古いのである。古墳時代前期の可能性など無い。この方形区画施設2および3が卑弥呼の在位年代の物であっても何ら矛盾はない。

また、方形区画施設の中の、高床式建物SB0040とSB0030bはさらに古い年代を示す。
試みにIntCal13とSHCal13で較正したグラフを示す。
SB0040.gif
SB0030b.gif

IntCal13で校正すると卑弥呼の時代とするには古すぎる年代となる。だがSHCal13で較正した年代より新しくはならないとすれば、まさに卑弥呼の在位年代の建物である。この建物の年代を古墳時代前期とするためには、SB0040やSB0030bは百年以上経った巨木の、中心部測定値とでもする必要が有る。無理な想定であろう。
特異な建物である方形区画施設を、古墳時代前期などという推論は、炭素年代測定値が否定する。そのために橿考研は、これらの炭素年代値の暦年較正をスルーするのである。










2015年08月20日

今、卑弥呼の王宮が明かされる。(中西遺跡新聞発表から)

 8月19日橿原考古学研究所は、秋津遺跡の南側に隣接する中西遺跡で、二六棟の竪穴住居跡を確認したと発表した。
秋津遺跡の建物遺構と同一の方位によって建てられており、両者は一体の遺跡である。計画的に配置された集落としてはこの時代最大規模である。
調査担当者の今尾文昭調査課長は「集落の規模や構造から葛城地域の首長では収まらず、初期の大和政権が運営していた祭祀用の集落ではないか」と分析している。

橿原考古学研究所は、この遺跡の重要性を全く理解していない。
ここは祭祀用の遺跡ではない。秋津嶋宮という大和朝廷の王宮の場所である。それは卑弥呼の王宮でもある。今、卑弥呼の王宮とその周辺の遺構が出土したのである。祭祀の目的で大和朝廷がこのような大規模な建物群を建造することなど考えられない。また一豪族の建物群でなく、大和朝廷(大和政権)が運営した遺構であるとは、調査担当者も認めるところである。

問題は橿原考古学研究所が考える、この遺構の年代である。橿原考古学研究所は、この遺構の年代を古墳時代前期とするが、古墳時代前期に収まるはずがない。
そのことを実証する科学的データがある。橿考研は秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代測定を行っている。その測定値のいくつかは、古墳時代前期に収まらない。特に方形区画施設の塀や、その内部に存在する高床式建物の年代は、もっと古い年代を示している。
この事については何れ詳しく述べるつもりだ。とりあえず19日の新聞記事を見たので書き込む。

2015年03月29日

とんでもない輩がいる

とんでもないやつがいる。
玉手山のあの古墳を掘り返した輩がいる。誰か特定できれば文化財保護法違反で告訴しようと思う。
まったくもって遺憾である。取り返しのつかない遺跡破壊になるので絶対にやめてほしい。
posted by 曲学の徒 at 15:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2015年01月06日

欠史八代天皇は実在した

今日の研究者の多くは欠史八代の天皇は実在しないとする。だが私は間違いなく実在したと考える。そのことを論証する。
古代有力豪族系譜の中に、欠史八代の天皇が登場する。一例を挙げるなら物部氏系譜には、欠史八代のすべての天皇名を見る。そして物部氏の歴代の人物が、これらの天皇に仕えたり皇后になったとする。図は各氏族の系譜上に見る天皇名である。
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もしこれらの天皇が実在しないとすれば欠史八代の天皇に仕えたり、皇后になったとする古代有力氏族系譜もすべてが架空系譜となる。
これらの系譜が架空系譜でないとする理由がある。それは有力豪族の系譜同士が婚姻を通じてつながり、世代位置や世代数におおむね整合性がある。このような関係を持った架空系譜を創作することは不可能と考えるからである。しかも一つの系譜は他の系譜とつながり、その系譜はまた別の系譜とつながる。一定の期間をとれば、すべての古代有力系譜がつながってしまうのである。それぞれ独自に成立した系譜同士が、年代に矛盾をきたさないでつながるということは、これらの系譜が事実に基づく伝承であることの証である。
欠史八代とされる天皇たちもこの系譜関連と密接な関係にある。したがって欠史八代とされる天皇も実在したのである。
ただし『日本書紀』が伝えるこれらの天皇の年次や寿命が史実で無いことは明らかである。だが私は古代有力豪族系譜の中にこれらの天皇が登場することから、『日本書紀』の年次や寿命の記事を以って実在を否定するのは軽率すぎると考える。

実在の天皇なら宮や墓は存在したはず

欠史八代の天皇が実在したとすれば、これらの天皇が営んだ宮や彼らが葬られたとされる墓も実在したはずである。
問題は今日の研究者の多くが、その実在を信じないことである。したがって室秋津島宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したとしても、それを秋津嶋宮との関連で捉えられないことである。
六代孝安天皇は私が卑弥呼とする宇那比姫命の義理の弟である。宇那比姫命には6人の兄があるが弟は居ない。したがって『魏志倭人伝』が『男弟有りて佐(たすけ)て国を治む』とする男弟は孝安に他ならないと考える。秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮でもあったと考えるわけである。卑弥呼の活躍した年代は二世紀末から三世紀前半である。したがって秋津嶋宮の実在時期もこの時期でなければならない。
後に秋津遺跡と名付けられたこの地から、塀に囲まれた特異な建物遺構が出土した時その年代を尋ねた。すると布留式土器の時代であるとの事であった。すかさず庄内式土器の出土はと尋ねた。庄内式は出土していないという返答であった。その時点で私は私の予想は大きく外れたと思った。布留式の時代であれば三世紀末を大きくさかのぼることは無いからである。秋津嶋宮の実在した年代ではないと思ったからである。
だが室(むろ)という秋津嶋宮の伝承地から出土した建物遺構が、秋津嶋宮と無関係のはずはないという思いが有った。そこで秋津遺跡から出土した遺物を詳細に検討する中で、多孔銅鏃という二世紀代から三世紀前半とされる遺物を見つけたのである。
takoudouzoku.jpg秋津遺跡の年代が卑弥呼の時代までさかのぼると確信した瞬間である。

後に調査主体の橿考研による発掘概報を読んでみると、橿考研が方形区画施設と名付ける建物遺構の年代推定に矛盾があることが解った。
報告書によると、最後に建て替えられた塀と、布留中相または古層とされる竪穴建物を同時代として方形区画施設の年代を布留式土器の年代とする。

akitu-nennda.jpg

しかしこの推定には大きな矛盾がある。もし最後に建て替えられた塀と竪穴建物が同時代なら、図に描かれる高床式建物は存在しないのである。遺構の斬り合い関係から、高床式建物は二度にわたって建て替えられた布留の時代の竪穴建物に置き換わっているとされるからである。最後に建て替えられた塀が高床式建物を取り囲むこのイメージ図は間違いという事になる。
だがおそらくイメージ図が正しい。竪穴建物は一般的な住居であろう。一方高床式建物は特殊な建物である。これだけ重厚な塀が取り囲む建物は、このイメージ図に描かれる高床式建物であろう。
だとすると最後に建て替えられたとする塀の年代は高床式の年代である。この高床式建物は二度にわたって建て替えられた、布留の時代の竪穴式建物に切り崩されるから、それより古い。さらに高床式建物を取り囲む塀は三度にわたって建て替えられているとする。建て替えのサイクルがどの程度であるか不明であるが、最初の塀が建てられたのは、布留の時代を相当さかのぼることが予想される。私はこの方形区画施設と称される建物遺構が三世紀前半まで古くなると確信する。

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秋津嶋宮の関連施設の一つが出土しているのである。
私は秋津嶋宮の実在を信じるからこそ多孔銅鏃の存在に注目し、橿考研の方形区画施設の推定年代に疑問を持つのである。
一方調査主体の橿考研は、そこから多量に出土した布留式土器の年代と庄内式土器が出土しないことからこの遺構は三世紀後半をさかのぼることは無いとするのである。
孝安天皇という天皇の実在を信じるか否かによって見える風景が全く異なるのである。自分が持つ歴史観や先入観によって見え方が異なるのである。

ここでも見え方が異なる

私は同じような見え方の違いを他でも味わった。
孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟であるから、径百余歩とされる卑弥呼の墓も、この秋津嶋宮伝承地の近くにあると推測した。この秋津遺跡の東1q離れた玉手山に不思議な形の尾根を見たのである。
私は巨大円墳の可能性を感じ、現地踏査を試みた。古墳であることは確信した。
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当初そこを踏査した地元教育委員会は、そこは自然の尾根で古墳ではないと判断した。だが後にそこから遺物が出土したことにより、地元教育委員会もそこが古墳であることを認めた。
No1墳丘盛り土裾あたりから出土した土器片
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No2とする尾根の墳頂あたりから出土した土器片。
doki-No2-5.jpgdoki-No2-01.jpg

巨大古墳など在るはずがないとする認識と、そのあたりに巨大古墳が存在するかもしれないという認識の差が、自然の尾根か古墳とするのかの見え方の差になったのである。
そこが古墳であることは意見の一致を見たが、尾根全体を墓域とする古墳であるか否かは見解が分かれる。
同じ風景を見ても見え方は全く異なるのである。
あなたには下の写真はどのように見えますか?
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Yahoo地図の航空写真
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2014年07月17日

『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある

物部氏系譜は天津彦根(あまつひこね)の系譜と婚姻関係にある。以前、物部氏系譜と名前だけ羅列された、天津彦根の系譜との対応関係を探ったが、うまく対応させることが出来なかった。
今回、中田憲信(なかだのりのぶ)著『諸系譜』の天津彦根命裔と伊勢津彦命裔との系譜を見ることによってこの問題が解決した。
結論は『先代旧事本紀』物部氏の系譜に誤りがあることが判明した。

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すなわち物部氏系譜では川枯姫(かわかれひめ)と出雲色多利姫(いずもしこたりひめ)を彦湯支命(ひこゆきのみこと)の妻とするが、天津彦根の系譜では川枯姫は、大禰命の妻。または出雲色多利姫も大禰命の妻である。
更に物部氏系譜では、新河小楯姫(にいかわおだてひめ)を出石心大臣命の妻とするが、天津彦根の系譜では、新河小楯姫は欝色雄許(うつしおこ)の妻で、出石心大臣命の妻は坂戸由良都媛(さかとのゆらつひめ)である。また出雲色多利姫の登場する伊勢津彦命の系譜でも、出雲色多利姫は大禰命の妻である。
この天津彦根の系譜は天児屋根命(あめのこやね・中臣氏系譜)の系譜と婚姻関係を持ち、この系譜との間に矛盾は無い。
したがって、これらの女性と物部氏の男性の関係は、天津彦根命の系譜(三上氏系譜)や伊勢津彦命の系譜が正しく、『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある。
天津彦根命の系譜によって物部氏系譜を修正すれば、最初に私が感じた天皇系譜との違和感もある程度解消される。『先代旧事本紀』物部氏系譜は、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命を三世孫として同一世代とするが、出雲醜大臣命と、出石心大臣命は大禰命の児でこの間は二世代なのである。

 また今まで物部氏系譜と中臣氏系譜だけが、他の氏族系譜と孤立して、天皇系譜を仲立ちにしなければうまくつながらなかった。
今回天津彦根命の系譜と、天児屋根命の系譜が、宇佐津臣(うさつおみ)と梨迹臣命(なしとみのみこと)の世代でつながることが確認でき、また出雲色多利姫によって、伊勢津彦命の系譜につながり伊勢津彦命の系譜が、沙麻奈媛命(さまなひめのみこと)を介して大神氏(おおみわし・大三輪氏)の系譜につながることが解った。このことにより、畿内やその周辺の有力豪族系譜が、婚姻を通じてすべてつながった。
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