2015年11月22日

御所市は大和朝廷発生の地

 御所市は初期大和朝廷の王都の地である。
二代綏靖(すいぜい)の葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)、五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)、六代孝安の室秋津島宮(むろあきつしまのみや)は何れも現在の御所市内である。
また橿原市あたりまで範囲を広げれば三代安寧(あんねい)の片塩浮穴宮(かたしおうきあなのみや)、四代懿徳(いとく)の軽曲峡宮(かるまがりおのみや)なども近くである。奈良盆地南部は初期大和朝廷の発生の地で王都なのである。
以降七代孝霊や九代開化あたりから宮は奈良盆地の北部へ移るが、初期の大和朝廷の宮は奈良盆地の南部に営まれたのである。

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私は初代神武の橿原宮(かしはらのみや)も現在の御所市の内に在ったと考える。現在橿原市の橿原神宮あたりを橿原宮の跡地とするが、ここは明治になってから、このあたりが橿原宮の跡地であろうとして定めたものである。その根拠となったのは『日本書紀』が伝える「畝傍山の東南の橿原の地」という記述である。
しかし私は初代神武の橿原宮はこの畝傍山の麓ではないと考える。

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江戸時代本居宣長が畝傍山(うねびやま)近辺に橿原宮の跡地を尋ねた。だが畝傍山近辺に「かしはら」という場所は無く、西南一里ばかりのところに「かしはら」という処のある事を聞いたととする。そのことを『菅笠日記』に記す。西南一里の「かしはら」とは現在の御所市柏原のことである。
現在の橿原市という地名は昭和31年、近隣市町村が合併し名付けられた名前である。江戸時代に畝傍山近辺に「かしはら」という地名は存在しなかった。1736年に成立した『大和志』では、御所市の柏原を橿原宮伝承地とする。
私が『大和志』などが伝える御所市の柏原を橿原宮の場所とするその根拠は次のようなものである。

神武は即位後、掖上のホホマの丘で国見をする。ホホマの丘が何処か確定は出来ないが、掖上とするわけであるから御所市の内である。その伝承地として御所市の国見山、あるいは御所市本馬町の本間の丘ともされる。この本間の丘南麓には、創建の経緯は不明であるが神武を祭神とする神武天皇社が祭られる。また神武が日向で娶ったとされる吾平津姫(あいらつひめ)が住んだという伝承の場所に、ホンダワラ社又はホホマ神社という祠があり、吾平津姫を祭神とする。更に吾平津姫は本間の丘に葬られたとされる。このあたり神武とかかわる伝承を多く持つ。

もし橿原宮が畝傍山の山麓ならわざわざ掖上まで出向く必要などまったくない。畝傍山は奈良盆地の平野部に位置する独立峰である。ここに登れば360度を見渡せる。国見をするには最高の場所である。宮が畝傍山の麓なら国見は畝傍山に登れば良い。掖上まで出向く必要などさらさらない。
私は神武の橿原宮は畝傍山の山麓ではなく御所市に在ったと考える。
『日本書紀』の『畝傍山の東南、橿原の地』という表現は、必ずしも畝傍山の山麓とは限らない。良く知られている畝傍山という場所を起点として橿原の場所を示したにすぎないのではなかろうか。
だが御所市の柏原を橿原宮跡とするには一つの難点もある。現在の御所市柏原は畝傍山の南東ではなく南西である。『日本書紀』の方位の記述に誤りがあるとでもする必要が有る。
しかし私は神武が国見をしたという山の場所から、御所市柏原が橿原宮の在った場所と考える。御所市は大和朝廷発生の地なのである。

posted by 曲学の徒 at 15:10 | Comment(1) | TrackBack(0) | 葛城の歴史

2015年11月06日

秋津嶋宮の南北範囲が解ってきた

秋津遺跡の発掘調査は今も続いている。現在インターチェンジのループ部分の調査が行われている。自然流路を利用した濠のような溝が出土している。akitu-mizo02.jpg 

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これで秋津嶋宮のほぼ南北が確定した。溝はさほど深くはないがその断面は逆三角形を呈し、人為的に掘られたものであろう。王宮の南側を区切る堀あるいは濠の様なものであろう。写真2本の青色点線で示したのが新しく発掘によって確認された溝である。以前確認された北側の流路とに挟まれた範囲が王宮の場所である。東西の範囲は今一つ不明である。

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発掘担当者もこれだけ大規模な遺構が葛城の一豪族のものでないことを認める。大和朝廷と関係する遺構とする。そしてこの遺構を大和朝廷の祭祀遺跡とする。だがここは祭祀遺跡などではあり得ない。秋津嶋宮という王宮である。
もし橿考研が推測するようにこの遺構が、古墳時代前期とするなら、十代崇神や、十一代垂仁、十二代景行あたりの時代である。『記紀』をはじめその他の文献を見ても、崇神や垂仁、景行の時代に、ここ御所市近辺でこのような大規模の祭祀を行ったという記述はどこにも見当たらない。御所市というこの地が『記紀』伝承の中に出てくるのは、二代綏靖の葛城高丘宮(かつらぎたかおかのみや)、五代孝昭の掖上池心宮(わきがみいけごころのみや)、そして六代孝安の室秋津嶋宮(むろあきつしまのみや)である。崇神などよりもっと古い時代なのである。このあたりは初期大和朝廷の宮が営まれた場所である。その一つ秋津嶋宮が出土しているのである。
また祭祀建物に、これだけ大規模の濠は必要なかろう。濠の出土は、ここが祭祀遺跡などとする仮説を否定する。

東西の範囲が確定しないので、その規模は不明であるが魏志倭人伝によれば、奴婢千人が仕える王宮である。私は、更に東西に広がるのではないかと推測する。赤の点線で囲んだ辺りである。

2015年09月06日

炭素年代測定値は古墳時代前期に収まらない

 秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代測定値が、橿原考古学研究所の報告書に記載されている。(奈良県遺跡調査概報 2013年度第二分冊)その炭素年代測定値のデータは次のようなものである。
akitu-Radiocarbon.gif
報告書では「北半球で用いられる較正曲線IntaCal09に対し、日本産樹木年輪試料の測定値が系統的に異なる」として「現時点では、炭素年代値記載のみに止めた」たとする。したがって暦年(実年代)の推定については記載しない。
確かに日本列島で出土した遺物の炭素年代測定値を、北半球の標準となるIntCalで較正すると、暦年代が実際より古い年代となる可能性がある。
しかしながらこの差を考慮したとしても、秋津遺跡から出土した遺物の暦年代は相当古い。それらのいくつかは古墳時代前期には収まらないと考える。
次の表と図は秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代を、IntCal13を用いて暦年代に較正したものである。較正には次のサイトで提供される分析ソフトを用いた。https://c14.arch.ox.ac.uk/embed.php?File=oxcal.html
%の68.2=1σ 95.4=2σの範囲
IntaCal13-Fig1.gif
グラフは2σの範囲
Akitu-IntaCal13(1).gif
Akitu-IntCal13.gif


日本列島の遺物を、北半球の標準となるIntCalで較正すると、実際の年代より古い値を示すとされる。それは、太平洋に面した日本列島では、南半球の大気に影響を受けることによるとされる。
この説によれば日本列島で出土した遺物は、IntCalで較正した暦年代より新しく、南半球の較正曲線SHCalで較正した暦年代より古い可能性がある。その場合、南半球の較正暦年より新しくはならないと考えられる。
そこでSHCalでの較正を行った数値も示す。
ShCal-Fig-1.gif
Akitu-SHCal13.gif

秋津遺跡からの出土遺物暦年代は、先に推定したIntaCal13とこのSHCalの間に収まると考えられる。
次の図は、方形区画施設2についてIntCal13とSHCal13で較正した図である。二つの図から方形区画施設2の年代を考察してみる。
【IntCal13】
IntaCal13-Fig4.gif
【SHCal13】
SHCal-Fig-4.gif

IntCal13では新しく見ても西暦250年頃よりは新しくならない。SHCal13では300年代という可能性も有るが、可能性の高いのは3世紀の前半である。SHCal13の3世紀前半より新しくはならないと考える。

さらに炭素年代測定値は無いが、方形区画施設3は方形区画施設2より古いのである。古墳時代前期の可能性など無い。この方形区画施設2および3が卑弥呼の在位年代の物であっても何ら矛盾はない。

また、方形区画施設の中の、高床式建物SB0040とSB0030bはさらに古い年代を示す。
試みにIntCal13とSHCal13で較正したグラフを示す。
SB0040.gif
SB0030b.gif

IntCal13で校正すると卑弥呼の時代とするには古すぎる年代となる。だがSHCal13で較正した年代より新しくはならないとすれば、まさに卑弥呼の在位年代の建物である。この建物の年代を古墳時代前期とするためには、SB0040やSB0030bは百年以上経った巨木の、中心部測定値とでもする必要が有る。無理な想定であろう。
特異な建物である方形区画施設を、古墳時代前期などという推論は、炭素年代測定値が否定する。そのために橿考研は、これらの炭素年代値の暦年較正をスルーするのである。










2015年08月20日

今、卑弥呼の王宮が明かされる。(中西遺跡新聞発表から)

 8月19日橿原考古学研究所は、秋津遺跡の南側に隣接する中西遺跡で、二六棟の竪穴住居跡を確認したと発表した。
秋津遺跡の建物遺構と同一の方位によって建てられており、両者は一体の遺跡である。計画的に配置された集落としてはこの時代最大規模である。
調査担当者の今尾文昭調査課長は「集落の規模や構造から葛城地域の首長では収まらず、初期の大和政権が運営していた祭祀用の集落ではないか」と分析している。

橿原考古学研究所は、この遺跡の重要性を全く理解していない。
ここは祭祀用の遺跡ではない。秋津嶋宮という大和朝廷の王宮の場所である。それは卑弥呼の王宮でもある。今、卑弥呼の王宮とその周辺の遺構が出土したのである。祭祀の目的で大和朝廷がこのような大規模な建物群を建造することなど考えられない。また一豪族の建物群でなく、大和朝廷(大和政権)が運営した遺構であるとは、調査担当者も認めるところである。

問題は橿原考古学研究所が考える、この遺構の年代である。橿原考古学研究所は、この遺構の年代を古墳時代前期とするが、古墳時代前期に収まるはずがない。
そのことを実証する科学的データがある。橿考研は秋津遺跡から出土した遺物の炭素年代測定を行っている。その測定値のいくつかは、古墳時代前期に収まらない。特に方形区画施設の塀や、その内部に存在する高床式建物の年代は、もっと古い年代を示している。
この事については何れ詳しく述べるつもりだ。とりあえず19日の新聞記事を見たので書き込む。

2015年03月29日

とんでもない輩がいる

とんでもないやつがいる。
玉手山のあの古墳を掘り返した輩がいる。誰か特定できれば文化財保護法違反で告訴しようと思う。
まったくもって遺憾である。取り返しのつかない遺跡破壊になるので絶対にやめてほしい。
posted by 曲学の徒 at 15:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓