2014年07月17日

『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある

物部氏系譜は天津彦根(あまつひこね)の系譜と婚姻関係にある。以前、物部氏系譜と名前だけ羅列された、天津彦根の系譜との対応関係を探ったが、うまく対応させることが出来なかった。
今回、中田憲信(なかだのりのぶ)著『諸系譜』の天津彦根命裔と伊勢津彦命裔との系譜を見ることによってこの問題が解決した。
結論は『先代旧事本紀』物部氏の系譜に誤りがあることが判明した。

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すなわち物部氏系譜では川枯姫(かわかれひめ)と出雲色多利姫(いずもしこたりひめ)を彦湯支命(ひこゆきのみこと)の妻とするが、天津彦根の系譜では川枯姫は、大禰命の妻。または出雲色多利姫も大禰命の妻である。
更に物部氏系譜では、新河小楯姫(にいかわおだてひめ)を出石心大臣命の妻とするが、天津彦根の系譜では、新河小楯姫は欝色雄許(うつしおこ)の妻で、出石心大臣命の妻は坂戸由良都媛(さかとのゆらつひめ)である。また出雲色多利姫の登場する伊勢津彦命の系譜でも、出雲色多利姫は大禰命の妻である。
この天津彦根の系譜は天児屋根命(あめのこやね・中臣氏系譜)の系譜と婚姻関係を持ち、この系譜との間に矛盾は無い。
したがって、これらの女性と物部氏の男性の関係は、天津彦根命の系譜(三上氏系譜)や伊勢津彦命の系譜が正しく、『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある。
天津彦根命の系譜によって物部氏系譜を修正すれば、最初に私が感じた天皇系譜との違和感もある程度解消される。『先代旧事本紀』物部氏系譜は、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命を三世孫として同一世代とするが、出雲醜大臣命と、出石心大臣命は大禰命の児でこの間は二世代なのである。

 また今まで物部氏系譜と中臣氏系譜だけが、他の氏族系譜と孤立して、天皇系譜を仲立ちにしなければうまくつながらなかった。
今回天津彦根命の系譜と、天児屋根命の系譜が、宇佐津臣(うさつおみ)と梨迹臣命(なしとみのみこと)の世代でつながることが確認でき、また出雲色多利姫によって、伊勢津彦命の系譜につながり伊勢津彦命の系譜が、沙麻奈媛命(さまなひめのみこと)を介して大神氏(おおみわし・大三輪氏)の系譜につながることが解った。このことにより、畿内やその周辺の有力豪族系譜が、婚姻を通じてすべてつながった。
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古代有力豪族の系譜がすべて婚姻を通じてつながった。

古代有力豪族の系譜がすべて婚姻を通じてつながった。
私は世代位置に整合性を持たせ、系譜同士のつながりを持った系譜を架空の系譜として創作することは不可能であると考える。そのことにより古代氏族系譜は、架空ではなく史実の反映であると主張する。しかもそれらの豪族系譜の中に欠史八代とされる、その実在を疑われる天皇名を見る。中でも物部氏系譜などには、欠史八代とされるすべての天皇名を見る。
したがって私は、実在を疑われるこれらの天皇たちも間違いなく実在したと考える。
だがこの私の主張には、一つの弱点があった。それは、それらの系譜すべてが『日本書紀』や『古事記』の天皇系譜を参照して作成されたとすれば、系譜同士の整合性を確保することも、欠史八代の天皇名を記すことも、不可能ではないという反論である。今までこの反論を完全に否定できない弱点があった。

ようやく記紀伝承を排して、古代有力氏族の系譜伝承のみで、これらの系譜をすべてつなげることが出来た。
もちろん婚姻でつながる人物の世代位置に整合性がある。次の図はその関係を図にしたものである。

尾張氏、葛城氏、和爾氏、紀伊氏、大伴氏、大倭氏、大神氏
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物部氏、三上氏、中臣氏、大神氏(大三輪氏)、伊勢津彦裔
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PDFファイル
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このようなつながりを持った系譜を、フイクションとして創作することは不可能である。その点でこれらの系譜伝承は一定の史実の反映であると考える。もちろん系譜伝承は長い間の伝承の過程で、意図されない誤りが起きる。その点で系譜伝承が100%信頼できるわけではない。だが、複数の系譜伝承を相互に比較検討することによって、その信頼性を検証することが可能である。
今回その劇的な例として、『先代旧事本紀』に載せられる、物部氏の系譜伝承の検証が出来た。
(紙幅の都合で上記二つの図を1枚の図にすることは困難であるが、大神氏(三輪氏)系譜を両者に掲載することによって、この二つの図もつながりがあることを理解していただきたい。)

2014年04月19日

箸墓は卑弥呼の墓ではない

 箸墓は卑弥呼の墓ではない。また台与の墓でもない。
倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)の墓である。
多くのマスコミは箸墓について語るとき「卑弥呼の墓ともされる」という修飾語をつける。あたかも卑弥呼の墓であるがごとく語る。
また一部の研究者の中には箸墓の築造年代を三世紀半ばとし、あたかも卑弥呼が没したとされる248年か249年ころの築造と主張する。
箸墓は『日本書紀』が伝えるように倭途途日百襲媛の墓である。倭途途日百襲媛は卑弥呼ではない。
ここでは最初に倭途途日百襲媛と卑弥呼の関係を述べる。
次に前方後円墳という形の成り立ちについて、最後は箸墓が造られた理由について述べる。

 倭途途日百襲媛の父親は七代孝霊天皇である。問題は母親の出自である。『古事記』はその名前を意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめ)とし、またの名を蠅伊呂泥(ハエイロネ)とする。また『日本書紀』は倭国香媛(やまとのくにかひめ)として、またの名をハエイロネとする。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛とハエイロネを同一人物とするのである。
だがハエイロネと意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛とは別人である。ともに七代孝霊天皇の妃になった人物であるが、前者は三代安寧天皇の曾孫である。『古事記』や楽家系譜はその系譜を伝える。一方意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(『勘注系図』では大倭久邇阿禮姫命と表記)またの名倭国香媛と称される人物は、尾張氏の人物である。『勘注系図』では、私が卑弥呼とする宇那比姫命の姪である。

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『勘注系図』にはハエイロネという人物の名は見られない。一方楽家系譜に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛という名は登場しない。記紀が同一人物とする記載に誤りがある。

 倭途途日百襲媛の母親、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名倭国香媛は尾張氏の女性であることを伺わせる神社伝承がある。
香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)という神社がある。その神社伝承によれば、倭途途日百襲姫命は七歳の時、戦乱に陥った大和の黒田盧戸宮(くろだいおとのみや)を出て、八歳の時この地に至り、二十歳頃までこの地で暮らしたとされる。
この水主神社と同じ名前の神社がある。京都府城陽市久世の水主神社である。祭神十座は、彦火明命から始まる、すべて尾張氏の人物である。水主神社という神社は東かがわ市水主と城陽市久世の水主神社以外他に見当たらない。この二つの神社には深い関係があることが察せられる。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛は尾張氏の女性でハエイロネとは別人である。
したがって倭途途日百襲媛の父親は卑弥呼の孫、孝霊で、母親は卑弥呼の姪である。卑弥呼の血筋を色濃く引き継ぐ女性である。
王権の血筋を色濃く受け継ぐ女性であるからこそ、一介の皇女にすぎない倭途途日百襲媛の巨大な墓が築造されたのである。
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箸墓のモデルは卑弥呼の墓

 箸墓は定型化した最初の前方後円墳とされる。
前方後円墳の平面形は鍵穴のようなを形をする。円形に盛られた墳丘に方形または台形状の出っ張りが付く。埋葬の中心施設は、円丘部であることは明らかである。
問題は出っ張り部の役割である。当初私はこの出っ張りは墳丘に至る墓道と考えた。しかし常識的に考えて、平地に造られる墓道であれば平地から墳丘に向かって上るのが普通である。ところうがすべての前方後円墳で、出っ張り部の先端から墳丘に向かって下るのである。しかも出っ張り部の先端は急斜面でここを上るのは極めて難しい。墳丘に至る墓道とするには何とも不可解な形状なのである。

私が卑弥呼の墓とする玉手山の尾根をたどることによってこの謎が解けた。
玉手山の古墳は山塊から南西に延びた尾根の上に墳丘を盛り上げる。山塊側から墳丘に向かって尾根は緩やかに下る。前方後円墳の前方部はこの尾根を模したものである。箸墓は平地に造られることによって、山塊側の尾根を切断した形なのである。

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箸墓はこの玉手山の卑弥呼の墓をモデルにして築造されたのである。そのため前方部は先端に向かってバチ形に開く。これは尾根が山塊側に向かって広がることによる。
箸墓が築造されたのは270年代の終わり頃であろう。この時代であれば径百余歩の卑弥呼の墓がどのようなものであるかよく知られていたはずである。したがって箸墓の後円部はほぼその大きさに築造されたのである。箸墓は卑弥呼の墓を模したものであり、以降この形が大和朝廷の墓として造り続けられれて行くのである。

 箸墓で吉備(現在の岡山県)で作られたと推測される、円筒埴輪(特殊器台)が確認されている。
倭途途日百襲媛の弟に、彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)という人物がある。彦五十狭芹彦は吉備に赴き、この地方の支配に当たった人物である。彦五十狭芹彦は姉の墓の築造に際し、吉備の円筒埴輪を運び、箸墓を荘重に飾ったとすれば、円筒埴輪が出土する理由を説明できる。

 また『日本書紀』には箸墓築造の歌が記される。その中に奈良県と大阪府の境に位置する、大坂山の石を運ぶ記述がある。石室を作るために、纏向の近辺では調達できない平たい石を運んだのである。発掘してみなければ確実なことは解らないが、箸墓には大坂山の扁平な石で作った石室が存在すると考える。
この点からも箸墓は卑弥呼の墓ではない。『魏志倭人伝』は墓の構造について「棺ありて槨なし」とする。石室のような、棺を収める構造物は存在しないとする。この記述が卑弥呼の墓についてかは断定しかねるが、石室を持つ箸墓を卑弥呼の墓とするにはこの記述と矛盾する。私が卑弥呼の墓とする玉手山の古墳では、地中レーダー探査を行ったが石室の存在は無かった。
posted by 曲学の徒 at 10:57 | Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

崇神が箸墓を造った理由

 崇神が全長280mという巨大な倭途途日百襲媛の墓を造った訳は、崇神は自分がこの王権の正当な継承者であることを、国内に知らしめるためである。
文字の普及がない時代、もちろんテレビや新聞などのメデアも存在しなかった時代、誰がこの国の権力者であるかを、広く告知するには、目に見える巨大構築物を造ることが有効なのである。
崇神は、自分が正当な王権の継承者であることを、倭途途日百襲媛の墓を造ることによって国民に知らしめたのである。

 次の図は倭途途日百襲媛に至る系譜である。倭途途日百襲媛という女性が大和朝廷の王権の血筋を色濃く引く女性であることが理解できる。

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 『日本書紀』によると崇神が王位に就いた初期の頃は王権は不安定な状況であった。国民が流亡したり、武埴安の反乱が起きるなど決して安定した王権ではなかったのである。
しかも王権の継承者としては、必ずしも崇神が筆頭という訳でもない。
『日本書紀』は少し奇妙な記述をなす。開化記の中で次のように述べる。「六年伊香色謎(いかがしこめ)を皇后に立てた。后は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇を生んだ。これよりさき、天皇は、丹波の竹野媛を入れて妃とし、彦湯産隅命(ひこゆむすみ)を生んだ」とする。普通に考えれば先に娶った女性が正妃すなわち皇后で、あとに娶った女性が妃のはずである。ところうが『日本書紀』は、先に娶った竹野媛を妃、後に娶る伊香色謎を皇后とする。
竹野媛は単なる妃ではない。天豊姫(あまとよひめ)と言い『魏志倭人伝』が台与とする女王である。その女王の子供は彦湯産隅命(ひこゆむすみ)で、王権の継承者としては筆頭となる存在である。『日本書紀』には崇神を正当な王権の継承者とするための潤色がうかがえる。

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崇神は彦湯産隅命をさしおいて、王権の座に就くわけである。そこに至るには、物部氏の意向が強かった事が推測される。崇神が王位に就く前の時代、物部氏は孝元の皇后、欝色謎命を皇后に立てる。次に開化の皇后に伊香色謎を送り込んでいる。物部氏が王権の中で強力な立場を築いたことが推測される。崇神はその物部氏の女性伊香色謎の子供である。物部氏の意向を反映して崇神王朝が誕生するのである。
このように系譜から見えてくる状況を推測すると、崇神が大和朝廷の正当な王権の継承者であることを誇示するために、王権の血筋を色濃く受け継ぐ、倭途途日百襲媛の巨大な墓を築造したのである。またその墓の形は長期王権の座に君臨した、卑弥呼すなわち宇那比姫命の墓をモデルにしたのである。

 また倭途途日百襲媛は竹野媛すなわち台与の従妹でもある。台与が西晋に朝貢したのは266年である。この時代は、まだ開化の時代である。箸墓が築造されるのは崇神の時代である。したがって、私は箸墓築造の年代を280年前後と推定する。
posted by 曲学の徒 at 10:51 | Comment(3) | TrackBack(0) | 前方後円墳の成り立ち