2015年03月29日

とんでもない輩がいる

とんでもないやつがいる。
玉手山のあの古墳を掘り返した輩がいる。誰か特定できれば文化財保護法違反で告訴しようと思う。
まったくもって遺憾である。取り返しのつかない遺跡破壊になるので絶対にやめてほしい。
posted by 曲学の徒 at 15:27 | Comment(3) | TrackBack(0) | 径百余歩、卑弥呼の墓

2015年01月06日

欠史八代天皇は実在した

今日の研究者の多くは欠史八代の天皇は実在しないとする。だが私は間違いなく実在したと考える。そのことを論証する。
古代有力豪族系譜の中に、欠史八代の天皇が登場する。一例を挙げるなら物部氏系譜には、欠史八代のすべての天皇名を見る。そして物部氏の歴代の人物が、これらの天皇に仕えたり皇后になったとする。図は各氏族の系譜上に見る天皇名である。
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もしこれらの天皇が実在しないとすれば欠史八代の天皇に仕えたり、皇后になったとする古代有力氏族系譜もすべてが架空系譜となる。
これらの系譜が架空系譜でないとする理由がある。それは有力豪族の系譜同士が婚姻を通じてつながり、世代位置や世代数におおむね整合性がある。このような関係を持った架空系譜を創作することは不可能と考えるからである。しかも一つの系譜は他の系譜とつながり、その系譜はまた別の系譜とつながる。一定の期間をとれば、すべての古代有力系譜がつながってしまうのである。それぞれ独自に成立した系譜同士が、年代に矛盾をきたさないでつながるということは、これらの系譜が事実に基づく伝承であることの証である。
欠史八代とされる天皇たちもこの系譜関連と密接な関係にある。したがって欠史八代とされる天皇も実在したのである。
ただし『日本書紀』が伝えるこれらの天皇の年次や寿命が史実で無いことは明らかである。だが私は古代有力豪族系譜の中にこれらの天皇が登場することから、『日本書紀』の年次や寿命の記事を以って実在を否定するのは軽率すぎると考える。

実在の天皇なら宮や墓は存在したはず

欠史八代の天皇が実在したとすれば、これらの天皇が営んだ宮や彼らが葬られたとされる墓も実在したはずである。
問題は今日の研究者の多くが、その実在を信じないことである。したがって室秋津島宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したとしても、それを秋津嶋宮との関連で捉えられないことである。
六代孝安天皇は私が卑弥呼とする宇那比姫命の義理の弟である。宇那比姫命には6人の兄があるが弟は居ない。したがって『魏志倭人伝』が『男弟有りて佐(たすけ)て国を治む』とする男弟は孝安に他ならないと考える。秋津嶋宮こそ卑弥呼の王宮でもあったと考えるわけである。卑弥呼の活躍した年代は二世紀末から三世紀前半である。したがって秋津嶋宮の実在時期もこの時期でなければならない。
後に秋津遺跡と名付けられたこの地から、塀に囲まれた特異な建物遺構が出土した時その年代を尋ねた。すると布留式土器の時代であるとの事であった。すかさず庄内式土器の出土はと尋ねた。庄内式は出土していないという返答であった。その時点で私は私の予想は大きく外れたと思った。布留式の時代であれば三世紀末を大きくさかのぼることは無いからである。秋津嶋宮の実在した年代ではないと思ったからである。
だが室(むろ)という秋津嶋宮の伝承地から出土した建物遺構が、秋津嶋宮と無関係のはずはないという思いが有った。そこで秋津遺跡から出土した遺物を詳細に検討する中で、多孔銅鏃という二世紀代から三世紀前半とされる遺物を見つけたのである。
takoudouzoku.jpg秋津遺跡の年代が卑弥呼の時代までさかのぼると確信した瞬間である。

後に調査主体の橿考研による発掘概報を読んでみると、橿考研が方形区画施設と名付ける建物遺構の年代推定に矛盾があることが解った。
報告書によると、最後に建て替えられた塀と、布留中相または古層とされる竪穴建物を同時代として方形区画施設の年代を布留式土器の年代とする。

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しかしこの推定には大きな矛盾がある。もし最後に建て替えられた塀と竪穴建物が同時代なら、図に描かれる高床式建物は存在しないのである。遺構の斬り合い関係から、高床式建物は二度にわたって建て替えられた布留の時代の竪穴建物に置き換わっているとされるからである。最後に建て替えられた塀が高床式建物を取り囲むこのイメージ図は間違いという事になる。
だがおそらくイメージ図が正しい。竪穴建物は一般的な住居であろう。一方高床式建物は特殊な建物である。これだけ重厚な塀が取り囲む建物は、このイメージ図に描かれる高床式建物であろう。
だとすると最後に建て替えられたとする塀の年代は高床式の年代である。この高床式建物は二度にわたって建て替えられた、布留の時代の竪穴式建物に切り崩されるから、それより古い。さらに高床式建物を取り囲む塀は三度にわたって建て替えられているとする。建て替えのサイクルがどの程度であるか不明であるが、最初の塀が建てられたのは、布留の時代を相当さかのぼることが予想される。私はこの方形区画施設と称される建物遺構が三世紀前半まで古くなると確信する。

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秋津嶋宮の関連施設の一つが出土しているのである。
私は秋津嶋宮の実在を信じるからこそ多孔銅鏃の存在に注目し、橿考研の方形区画施設の推定年代に疑問を持つのである。
一方調査主体の橿考研は、そこから多量に出土した布留式土器の年代と庄内式土器が出土しないことからこの遺構は三世紀後半をさかのぼることは無いとするのである。
孝安天皇という天皇の実在を信じるか否かによって見える風景が全く異なるのである。自分が持つ歴史観や先入観によって見え方が異なるのである。

ここでも見え方が異なる

私は同じような見え方の違いを他でも味わった。
孝安が卑弥呼の政治を補佐した男弟であるから、径百余歩とされる卑弥呼の墓も、この秋津嶋宮伝承地の近くにあると推測した。この秋津遺跡の東1q離れた玉手山に不思議な形の尾根を見たのである。
私は巨大円墳の可能性を感じ、現地踏査を試みた。古墳であることは確信した。
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当初そこを踏査した地元教育委員会は、そこは自然の尾根で古墳ではないと判断した。だが後にそこから遺物が出土したことにより、地元教育委員会もそこが古墳であることを認めた。
No1墳丘盛り土裾あたりから出土した土器片
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No2とする尾根の墳頂あたりから出土した土器片。
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巨大古墳など在るはずがないとする認識と、そのあたりに巨大古墳が存在するかもしれないという認識の差が、自然の尾根か古墳とするのかの見え方の差になったのである。
そこが古墳であることは意見の一致を見たが、尾根全体を墓域とする古墳であるか否かは見解が分かれる。
同じ風景を見ても見え方は全く異なるのである。
あなたには下の写真はどのように見えますか?
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Yahoo地図の航空写真
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2014年07月17日

『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある

物部氏系譜は天津彦根(あまつひこね)の系譜と婚姻関係にある。以前、物部氏系譜と名前だけ羅列された、天津彦根の系譜との対応関係を探ったが、うまく対応させることが出来なかった。
今回、中田憲信(なかだのりのぶ)著『諸系譜』の天津彦根命裔と伊勢津彦命裔との系譜を見ることによってこの問題が解決した。
結論は『先代旧事本紀』物部氏の系譜に誤りがあることが判明した。

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すなわち物部氏系譜では川枯姫(かわかれひめ)と出雲色多利姫(いずもしこたりひめ)を彦湯支命(ひこゆきのみこと)の妻とするが、天津彦根の系譜では川枯姫は、大禰命の妻。または出雲色多利姫も大禰命の妻である。
更に物部氏系譜では、新河小楯姫(にいかわおだてひめ)を出石心大臣命の妻とするが、天津彦根の系譜では、新河小楯姫は欝色雄許(うつしおこ)の妻で、出石心大臣命の妻は坂戸由良都媛(さかとのゆらつひめ)である。また出雲色多利姫の登場する伊勢津彦命の系譜でも、出雲色多利姫は大禰命の妻である。
この天津彦根の系譜は天児屋根命(あめのこやね・中臣氏系譜)の系譜と婚姻関係を持ち、この系譜との間に矛盾は無い。
したがって、これらの女性と物部氏の男性の関係は、天津彦根命の系譜(三上氏系譜)や伊勢津彦命の系譜が正しく、『先代旧事本紀』物部氏系譜に誤りがある。
天津彦根命の系譜によって物部氏系譜を修正すれば、最初に私が感じた天皇系譜との違和感もある程度解消される。『先代旧事本紀』物部氏系譜は、大禰命、出雲醜大臣命、出石心大臣命を三世孫として同一世代とするが、出雲醜大臣命と、出石心大臣命は大禰命の児でこの間は二世代なのである。

 また今まで物部氏系譜と中臣氏系譜だけが、他の氏族系譜と孤立して、天皇系譜を仲立ちにしなければうまくつながらなかった。
今回天津彦根命の系譜と、天児屋根命の系譜が、宇佐津臣(うさつおみ)と梨迹臣命(なしとみのみこと)の世代でつながることが確認でき、また出雲色多利姫によって、伊勢津彦命の系譜につながり伊勢津彦命の系譜が、沙麻奈媛命(さまなひめのみこと)を介して大神氏(おおみわし・大三輪氏)の系譜につながることが解った。このことにより、畿内やその周辺の有力豪族系譜が、婚姻を通じてすべてつながった。
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古代有力豪族の系譜がすべて婚姻を通じてつながった。

古代有力豪族の系譜がすべて婚姻を通じてつながった。
私は世代位置に整合性を持たせ、系譜同士のつながりを持った系譜を架空の系譜として創作することは不可能であると考える。そのことにより古代氏族系譜は、架空ではなく史実の反映であると主張する。しかもそれらの豪族系譜の中に欠史八代とされる、その実在を疑われる天皇名を見る。中でも物部氏系譜などには、欠史八代とされるすべての天皇名を見る。
したがって私は、実在を疑われるこれらの天皇たちも間違いなく実在したと考える。
だがこの私の主張には、一つの弱点があった。それは、それらの系譜すべてが『日本書紀』や『古事記』の天皇系譜を参照して作成されたとすれば、系譜同士の整合性を確保することも、欠史八代の天皇名を記すことも、不可能ではないという反論である。今までこの反論を完全に否定できない弱点があった。

ようやく記紀伝承を排して、古代有力氏族の系譜伝承のみで、これらの系譜をすべてつなげることが出来た。
もちろん婚姻でつながる人物の世代位置に整合性がある。次の図はその関係を図にしたものである。

尾張氏、葛城氏、和爾氏、紀伊氏、大伴氏、大倭氏、大神氏
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物部氏、三上氏、中臣氏、大神氏(大三輪氏)、伊勢津彦裔
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PDFファイル
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このようなつながりを持った系譜を、フイクションとして創作することは不可能である。その点でこれらの系譜伝承は一定の史実の反映であると考える。もちろん系譜伝承は長い間の伝承の過程で、意図されない誤りが起きる。その点で系譜伝承が100%信頼できるわけではない。だが、複数の系譜伝承を相互に比較検討することによって、その信頼性を検証することが可能である。
今回その劇的な例として、『先代旧事本紀』に載せられる、物部氏の系譜伝承の検証が出来た。
(紙幅の都合で上記二つの図を1枚の図にすることは困難であるが、大神氏(三輪氏)系譜を両者に掲載することによって、この二つの図もつながりがあることを理解していただきたい。)

2014年04月19日

箸墓は卑弥呼の墓ではない

 箸墓は卑弥呼の墓ではない。また台与の墓でもない。
倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)の墓である。
多くのマスコミは箸墓について語るとき「卑弥呼の墓ともされる」という修飾語をつける。あたかも卑弥呼の墓であるがごとく語る。
また一部の研究者の中には箸墓の築造年代を三世紀半ばとし、あたかも卑弥呼が没したとされる248年か249年ころの築造と主張する。
箸墓は『日本書紀』が伝えるように倭途途日百襲媛の墓である。倭途途日百襲媛は卑弥呼ではない。
ここでは最初に倭途途日百襲媛と卑弥呼の関係を述べる。
次に前方後円墳という形の成り立ちについて、最後は箸墓が造られた理由について述べる。

 倭途途日百襲媛の父親は七代孝霊天皇である。問題は母親の出自である。『古事記』はその名前を意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(おおやまとくにあれひめ)とし、またの名を蠅伊呂泥(ハエイロネ)とする。また『日本書紀』は倭国香媛(やまとのくにかひめ)として、またの名をハエイロネとする。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛とハエイロネを同一人物とするのである。
だがハエイロネと意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛とは別人である。ともに七代孝霊天皇の妃になった人物であるが、前者は三代安寧天皇の曾孫である。『古事記』や楽家系譜はその系譜を伝える。一方意富夜麻登玖邇阿禮比賣命(『勘注系図』では大倭久邇阿禮姫命と表記)またの名倭国香媛と称される人物は、尾張氏の人物である。『勘注系図』では、私が卑弥呼とする宇那比姫命の姪である。

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『勘注系図』にはハエイロネという人物の名は見られない。一方楽家系譜に意富夜麻登玖邇阿禮比賣命や倭国香媛という名は登場しない。記紀が同一人物とする記載に誤りがある。

 倭途途日百襲媛の母親、意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名倭国香媛は尾張氏の女性であることを伺わせる神社伝承がある。
香川県東かがわ市に水主神社(みぬしじんじゃ)という神社がある。その神社伝承によれば、倭途途日百襲姫命は七歳の時、戦乱に陥った大和の黒田盧戸宮(くろだいおとのみや)を出て、八歳の時この地に至り、二十歳頃までこの地で暮らしたとされる。
この水主神社と同じ名前の神社がある。京都府城陽市久世の水主神社である。祭神十座は、彦火明命から始まる、すべて尾張氏の人物である。水主神社という神社は東かがわ市水主と城陽市久世の水主神社以外他に見当たらない。この二つの神社には深い関係があることが察せられる。意富夜麻登玖邇阿禮比賣命またの名、倭国香媛は尾張氏の女性でハエイロネとは別人である。
したがって倭途途日百襲媛の父親は卑弥呼の孫、孝霊で、母親は卑弥呼の姪である。卑弥呼の血筋を色濃く引き継ぐ女性である。
王権の血筋を色濃く受け継ぐ女性であるからこそ、一介の皇女にすぎない倭途途日百襲媛の巨大な墓が築造されたのである。
posted by 曲学の徒 at 11:03 | Comment(0) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫