2013年03月16日

橿考研は方形区画施設の年代を誤っている

 秋津遺跡から出土した方形区画施設と称される堅固な塀がめぐる建物遺構の年代を、橿考研は多量に出土した布留式土器の年代から四世紀前半とする。
だがこの認識は誤りである。確かに数多く確認されている竪穴建物の年代は、布留式時代のものであろう。これは一般的な住居である。
一方、広大な塀が高床式の建物を取り囲む遺構の年代は、竪穴住居が存在していた時代との間に年代の差がある。

竪穴建物と高床式建物とは年代が異なる

その理由の一つは、図に示した方形区画施設6の内部に存在する建物の年代である。

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報告書の中で、塀は3、2、6の順序で、高床式建物を囲んで少なくとも3回建て替えられたとする。そしてその高床式建物を、2度に渡って建て替えられた竪穴式建物が切り崩す。したがって年代順は大型建物SB0029→竪穴建物SB0001b→竪穴建物SB0001aである。そしてこの竪穴式建物SB0001aの年代を布留古相または中相とする。
これだけ堅固な塀が取り囲んでいたのは、報告書が「高床式建物を囲んで」とするように、竪穴建物ではなく高床式建物なのである。
したがって、布留時代の竪穴式建物が切り崩す高床式建物の年代は、それより古く、しかもそれを取り囲む塀は、少なくとも3度は建て替えられている。
建て替えのサイクルをどのように見るかは難しいが、20年毎とすれば、最初の塀は布留時代の60年前ということになる。

更に図の竪穴住居1、2は方形区画施設1と3を切り崩す。

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重要な建物を取り壊して一般の住居が建てられるとは考え難い。竪穴住居がここに建てられるのは、方形区画施設が消滅して、相当時間が経過した後であろう。方形区画施設と竪穴建物の間には相当大きな時間差がある。


もう一つ重要な徴候がある。
小さな流路である溝が、方形区画施設の塀に沿って認められる。この溝跡の上に竪穴住居が出現する。

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住居を建てる場所として、水の流れるような湿潤な溝の上に住居を建てることは無い。
考えられるのは溝がその機能を失って、干上がり、埋まった後に、住居が建てられたと云うことである。
溝が存在していた時代と、竪穴住居が造られるようになる時代との間には、相当の年代差がある。

布留式以前の遺物が出土している

橿考研がこの方形区画施設の年代を三世紀前半に遡らないとするのは、庄内式の土器が出土しないからである。
だが庄内式土器が出土しないとしても、明らかに二世紀代から三世紀と思われ遺物が出土している。
それは多孔銅鏃である。

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多孔銅鏃一点のみであれば、たまたま古い時代の遺物が何らかの理由によって、まぎれ込んだとも考えられる。しかしながら、この遺物の編年に詳しい研究者に出土遺物の写真を見せたところ、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器片が存在するとする。

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ここは秋津島宮という王都である。

 秋津遺跡の竪穴建物の年代は布留の時代であっても、塀が取り囲む高床式建物の年代は二世紀末から三世紀前半の遺構である。
ここは六代孝安天皇室秋津島宮の伝承地である。秋津島宮の一部が出土しているのである。
東海系をはじめ瀬戸内海東部、西部、そして山陰あるいは中国地方から持ち込まれたと思われる土器の出土は、ここが王都で有った事を物語る。
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六代孝安天皇の実在を信じない人たちには、この遺構の重要性を理解できない。宮山古墳を造った一族の居館あるいは祭祀建物などとしか想像が及ばないのである。


2012年09月23日

方形区画施設の年代

下の図はたぶん橿考研によって描かれた、方形区画施設1.2.3.4.6のイメージ図であろう。

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方形区画施設と名づけられた、塀が囲む高床式の建物は一般的な住居ではない。これだけ大掛かりな塀に囲まれる建物は、かなり特殊な建物である。
一方、図の左下に描かれたような竪穴建物は、一般的な住居である。

橿考研はこのように方形区画施設は高床式の建物を囲んでいたと推測するのである。
にもかかわらず、三回に渡って建て替えられた最後の方形区画施設の年代を、SB0001aとされる竪穴建物と同時代とする。

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SB0001aはその切り合い関係から、大型建物SB0029→SB0001b→SB0001aの順序で建てられた事が解っている。
SB0001aと最後に建て替えられた方形区画施設6とを同時代とする限り、そこには大型建物SB0029は存在しないのである。
大型建物を囲んで方形区画施設が建て替えられたとする記述と矛盾する。

私は方形区画施設が図のように大型建物を取り囲んで建て替えられたという認識は正しいと考える。
問題は方形区画施設6とSB0001aとを同時代とする推測に問題があると考える。

同時代とする根拠は、方形区画施設6の柱穴から出土する炭化物を、火災で焼失したとされるSB0001aの炭化物とすることによる。
しかしその炭化物が本当にSB0001aの物かどうか確かな決め手は何も無い。同時代とする根拠は、このような脆弱な論拠の上に成り立つ推測なのである。
おそらく方形区画施設6とSB0001aを同時代とする推測が誤りなのである。

私は次のように推測する。

方形区画施設はイメージ図が示すよう、大型建物を囲んで三回に渡って建て替えられたと考える。当然最後の方形区画施設6も、大型建物の為に建てられたのである。
すると次のような関係が推測される。

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そして焼失したSB0001aの布留古相あるいは中相の年代から遡れば、最初に造られた方形区画施設3の年代は相当古いのである。私は二世紀の末くらいまで古くなる事を予想している。




2012年04月02日

卑弥呼の墓

 一歩は1.44mで径百余歩とは直径140m前後の円墳であろう。この写真の尾根の上に築かれた墳丘は直径22mくらいのものである。だが樹木が無ければ、尾根全体が墳丘に見えるはずである。これはまさに径百余歩の円墳である。

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尾根全体が墓域

 この尾根の300mくらい南に、直径20mの円墳がある。一見すると直径5mか6mくらいにしか見えない。だが盛り土の裾は尾根の中腹まで広がる。尾根の裾を意識して墳丘が築かれる。墳丘を築いた時には尾根の樹木はすべて切り払われていたはずである。尾根と墳丘は一体と見えるはずである。尾根全体が墓域である。私が卑弥呼の墓とする古墳も同様な構造を持つ。



玉手山という場所が重要

 この古墳の存在する場所が重要である。ここは六代孝安天皇が葬られたとする玉手山である。孝安は私が卑弥呼とする宇那比姫の義理の弟である。したがって卑弥呼の政治を補佐した男弟を孝安とする。卑弥呼もまた玉手山に葬られたとしても不思議は無い。

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木棺直葬石室は存在しない

『魏志倭人伝』は棺有るも槨無しとする。私が地中レーダー探査を行った範囲ではそこに石室のような物は確認できなかった。
画像は私が卑弥呼の墓とする墳丘の中心付近のレーダー画像である。
中央のグレーの縞模様は松の切り株による。石室らしきものは存在しない。木棺直葬であろう。

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この古墳は前方後円墳の原型

 山塊から張り出した尾根上に墳丘を築く。尾根は墳丘に至る墓道となる。したがって山塊側から墳丘に向かって緩やかに下る。
前方後円墳の前方部はこの尾根の形状を模したものである。平野部に造られる前方後円墳は山塊側の尾根を断ち切った形状である。初期の前方部がバチ状を呈するのはこの尾根の形状を残しているのである。

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殉葬はあるのか。

 私は『魏志倭人伝』の記述は事実を伝えていると考える。したがって奴婢百人の殉葬が有ったと考える。
その場所がある。私が卑弥呼の墓とする尾根の付け根に相当する場所である。県の遺跡地図で16−B-513の番号が振られた15mの円墳とされる場所である。
一般的な円墳のような高さは無い。よほど注意して観察しなければ、単なる自然の起伏と見過ごすような形状である。
当初私はこのあたりを何度も通っている。しかしそこが古墳であるとは気づかなかった。県の遺跡地図を見て気になり、確認のために現地を踏査した。そしてここが奴婢百人が殉葬された場所と確信した。
さすがにこの場所に立ったとき、鬼気迫るものを感じざるを得なかった。

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箸墓は径百余歩ではない


 今日箸墓を卑弥呼の墓と主張する人は多い。しかし全長280mの大きさの古墳を、径百余歩と見誤ることはなかろう。しかも後円部と前方部には二つの高まりがあり、鍵穴型の平面形状は、決して径というような表現が当てはまる古墳ではない。
この私の箸墓卑弥呼説に対する反論に対し、箸墓を卑弥呼の墓と主張する人たちは、径百余歩とするのは後円部を指して言った大きさとする。しかし前方後円墳は平面プランを持って築造される。最初から前方部も築造が開始されるはずである。段築はそれを物語る。後円部のみが先に完成するなどと言うことはあり得ない。

これ以外径百余歩に該当する古墳は無い
 
 我が国で、今日知られている円墳で最大とされるのは、埼玉県行田市の丸墓山古墳である。直径105mとされる。
したがって径百余歩に該当しそうな古墳は、この玉手山の円墳を置いて他には存在しない。
私はこれを卑弥呼の墓と確信する一つの理由である。
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2012年03月15日

秋津島宮が出現している

秋津遺跡の調査主体である橿考研の現地説明資料では、この遺構は四世紀前半の遺構とする。
しかし私は竪穴住居群は四世紀前半であっても、方形区画建物群は二世紀末あるいは三世紀前半までさかのぼると考える。

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その理由である。

竪穴住居が方形区画建物を切り崩す

すべての遺構で竪穴住居が方形区画建物を切り崩す。二つの建物群が混在したわけではなく、方形区画建物が古いのである。

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しかも方形区画建物は同一場所で3回は立替られる。その間に竪穴住居がそこに建てられる余地は無い。

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そして竪穴住居も少なくとも2回は建て替えられる。仮に20年毎に建て替えられたとすれば、この建物群の存続期間は100年を下らないであろう。

二つの建物群には時間差がある

方形区画建物の塀に沿って流路が存在する。区画建物と一体で、同時代の流路である。
不思議なことに竪穴住居のいくつかがこの流路の上に建てられるのである。

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このあたりは広大な平野部である。あえて湿潤な流路の上に住居を建てなければならない理由などない。
考えられるのは、流路がその機能を失い、干上がって埋没した後に、竪穴住居が建てられたと考えられる。
方形区画建物群と竪穴住居群との間には時間差がある。
方形区画建物が存続した期間、それに流路が埋没するまでの時間そして竪穴住居が存続した期間の合計は150年以上になるであろう。

竪穴住居が作られなくなった時期が四世紀の中頃とすれば、最初の方形区画建物が作られるのは三世紀初めあるいは二世紀末なのである。

方形区画建物は三世紀前半

方形区画建物が三世紀前半と言うことを裏付けるのが、多孔銅鏃の出土である。多孔銅鏃は二世紀前半から三世紀中頃の遺物とされる。これ1点のみなら何らかの理由で、古いものがまぎれ込んだという推測も成り立つかもしれない。しかしこの多孔銅鏃と同時代の東海系土器も出土しているのである。

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私は方形区画建物群の年代は三世紀前半までさかのぼると考える。

秋津島宮の一部または周辺の建物

ここは六代孝安秋津島宮の伝承地である。私は「男弟有て佐けて国を治む」とするこの男弟を孝安とする。したがって孝安の実年代は卑弥呼の在位年代に重なる。その実年代は三世紀前半である。
今この秋津島宮の伝承地あたりから、三世紀前半の特異な建物遺構が出土している。
私は秋津島宮、あるいは近辺の同時代の遺構と考えている。

2011年12月26日

国立博物館に存在する卑弥呼の遺品

 東京国立博物館に卑弥呼の遺品と考えられる品がある。
中平の年号が刻まれた、後漢時代の鉄刀である。出土したのは奈良県天理市の東大寺山古墳からである。
おそらくこの刀は卑弥呼の朝貢に対する下賜品であろう。

中国大陸では後漢時代の鉄刀は何千と出土している。だが年次の刻まれた刀は2〜3振しか知られていない。
その1振りが日本列島から出土したことである。考えられるのは朝貢の際、相手から下賜された品という推測である。

この刀を発掘した金関 恕(かなせきひろし)氏は刻まれた文字の字体から次のような見解を述べる。
後漢の官営工房の字体は、様式化が進んだ隷書体(れいしょたい)となる。これに対し出土した刀の字体は稚拙ではないが、様式化が進んでいない。したがって後漢の官営工房の象嵌(ぞうがん)ではなかろうとする。後漢の都、洛陽以外の地で象嵌されたのではないかと推測する。

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この事から私は189年遼東王(りょうとうおう)を名乗った公孫度(こうそんたく)からの下賜品ではないかと考える。
公孫度は元は、後漢王朝の地方官に過ぎないが、後漢王朝の衰退に乗じて、遼東王を名乗り半独立国家を樹立したとされる。

 大和朝廷はこうした大陸の政治情勢に極めて敏感に反応する。
239年、卑弥呼が魏に使いを送るのも、魏が遼東の公孫氏を滅ぼし中国東北部の覇権を握った翌年である。また266年台与が西晋に使いを送ったのも、司馬炎が魏の支配地域を引き継ぎ、西晋を樹立した翌年である。
おそらく公孫度が、遼東王を名のった189年に、卑弥呼による公孫氏への朝貢が有ったと推測される。そしてその際下賜されたのが、東大寺山古墳出土のこの刀であろう。

なぜ卑弥呼の遺品が東大寺山古墳から出土した


 それではなぜその刀が東大寺山古墳から出土したのかである。
東大寺山古墳のある奈良県天理市櫟本(いちのもと)町あたりは、古代有力豪族、和邇氏(わにし)の住んでいた場所である。
東大寺山古墳は、この和邇氏の墓なのである。
和邇氏の祖は、天足彦国押人命(あまたらしひこくにおしひとのみこと)である。天足彦国押人命は、五代孝昭と尾張氏の世襲足媛(よそたらしひめ)の長男である。
そして私が卑弥呼とする宇那比姫(うなびひめ)は、この天足彦国押人命の妻なのである。
したがって和邇氏の子孫は宇那比姫の子孫でもある。

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宇那比姫の子孫の墓から、卑弥呼の遺品が出土したのである。このことは宇那比姫が卑弥呼であるこを裏付ける。

また私はこの東大寺山古墳の被葬者は、建振熊命であろうと推測する。建振熊命は363年丹波、但馬、若狭の海人300人を率いて神功の新羅出兵に参戦、帰国後仲哀の遺児押熊王(おしくまのみこ)を滅ぼし神功、応神朝樹立の功労者として、丹波、但馬、若狭の国造に成ったとされる。
この人は東大寺山古墳築造の年代とされる、四世紀末頃亡くなったと考えるからである。


posted by 曲学の徒 at 11:26 | Comment(7) | TrackBack(0) | 卑弥呼には夫も子もあった