2014年04月19日

箸墓のモデルは卑弥呼の墓

 箸墓は定型化した最初の前方後円墳とされる。
前方後円墳の平面形は鍵穴のようなを形をする。円形に盛られた墳丘に方形または台形状の出っ張りが付く。埋葬の中心施設は、円丘部であることは明らかである。
問題は出っ張り部の役割である。当初私はこの出っ張りは墳丘に至る墓道と考えた。しかし常識的に考えて、平地に造られる墓道であれば平地から墳丘に向かって上るのが普通である。ところうがすべての前方後円墳で、出っ張り部の先端から墳丘に向かって下るのである。しかも出っ張り部の先端は急斜面でここを上るのは極めて難しい。墳丘に至る墓道とするには何とも不可解な形状なのである。

私が卑弥呼の墓とする玉手山の尾根をたどることによってこの謎が解けた。
玉手山の古墳は山塊から南西に延びた尾根の上に墳丘を盛り上げる。山塊側から墳丘に向かって尾根は緩やかに下る。前方後円墳の前方部はこの尾根を模したものである。箸墓は平地に造られることによって、山塊側の尾根を切断した形なのである。

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箸墓はこの玉手山の卑弥呼の墓をモデルにして築造されたのである。そのため前方部は先端に向かってバチ形に開く。これは尾根が山塊側に向かって広がることによる。
箸墓が築造されたのは270年代の終わり頃であろう。この時代であれば径百余歩の卑弥呼の墓がどのようなものであるかよく知られていたはずである。したがって箸墓の後円部はほぼその大きさに築造されたのである。箸墓は卑弥呼の墓を模したものであり、以降この形が大和朝廷の墓として造り続けられれて行くのである。

 箸墓で吉備(現在の岡山県)で作られたと推測される、円筒埴輪(特殊器台)が確認されている。
倭途途日百襲媛の弟に、彦五十狭芹彦(ひこいさせりひこ)という人物がある。彦五十狭芹彦は吉備に赴き、この地方の支配に当たった人物である。彦五十狭芹彦は姉の墓の築造に際し、吉備の円筒埴輪を制作する人を派遣し、箸墓を荘重に飾ったとすれば、円筒埴輪が出土する理由を説明できる。

 また『日本書紀』には箸墓築造の歌が記される。その中に奈良県と大阪府の境に位置する、大坂山の石を運ぶ記述がある。石室を作るために、纏向の近辺では調達できない平たい石を運んだのである。発掘してみなければ確実なことは解らないが、箸墓には大坂山の扁平な石で作った石室が存在すると考える。
この点からも箸墓は卑弥呼の墓ではない。『魏志倭人伝』は墓の構造について「棺ありて槨なし」とする。石室のような、棺を収める構造物は存在しないとする。この記述が卑弥呼の墓についてかは断定しかねるが、石室を持つ箸墓を卑弥呼の墓とするにはこの記述と矛盾する。私が卑弥呼の墓とする玉手山の古墳では、地中レーダー探査を行ったが石室の存在は無かった。
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崇神が箸墓を造った理由

 崇神が全長280mという巨大な倭途途日百襲媛の墓を造った訳は、崇神は自分がこの王権の正当な継承者であることを、国内に知らしめるためである。
文字の普及がない時代、もちろんテレビや新聞などのメデアも存在しなかった時代、誰がこの国の権力者であるかを、広く告知するには、目に見える巨大構築物を造ることが有効なのである。
崇神は、自分が正当な王権の継承者であることを、倭途途日百襲媛の墓を造ることによって国民に知らしめたのである。

 次の図は倭途途日百襲媛に至る系譜である。倭途途日百襲媛という女性が大和朝廷の王権の血筋を色濃く引く女性であることが理解できる。

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 『日本書紀』によると崇神が王位に就いた初期の頃は王権は不安定な状況であった。国民が流亡したり、武埴安の反乱が起きるなど決して安定した王権ではなかったのである。
しかも王権の継承者としては、必ずしも崇神が筆頭という訳でもない。
『日本書紀』は少し奇妙な記述をなす。開化記の中で次のように述べる。「六年伊香色謎(いかがしこめ)を皇后に立てた。后は御間城入彦五十瓊殖(みまきいりひこいにえ)天皇を生んだ。これよりさき、天皇は、丹波の竹野媛を入れて妃とし、彦湯産隅命(ひこゆむすみ)を生んだ」とする。普通に考えれば先に娶った女性が正妃すなわち皇后で、あとに娶った女性が妃のはずである。ところうが『日本書紀』は、先に娶った竹野媛を妃、後に娶る伊香色謎を皇后とする。
竹野媛は単なる妃ではない。天豊姫(あまとよひめ)と言い『魏志倭人伝』が台与とする女王である。その女王の子供は彦湯産隅命(ひこゆむすみ)で、王権の継承者としては筆頭となる存在である。『日本書紀』には崇神を正当な王権の継承者とするための潤色がうかがえる。

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崇神は彦湯産隅命をさしおいて、王権の座に就くわけである。そこに至るには、物部氏の意向が強かった事が推測される。崇神が王位に就く前の時代、物部氏は孝元の皇后、欝色謎命を皇后に立てる。次に開化の皇后に伊香色謎を送り込んでいる。物部氏が王権の中で強力な立場を築いたことが推測される。崇神はその物部氏の女性伊香色謎の子供である。物部氏の意向を反映して崇神王朝が誕生するのである。
このように系譜から見えてくる状況を推測すると、崇神が大和朝廷の正当な王権の継承者であることを誇示するために、王権の血筋を色濃く受け継ぐ、倭途途日百襲媛の巨大な墓を築造したのである。またその墓の形は長期王権の座に君臨した、卑弥呼すなわち宇那比姫命の墓をモデルにしたのである。

 また倭途途日百襲媛は竹野媛すなわち台与の従妹でもある。台与が西晋に朝貢したのは266年である。この時代は、まだ開化の時代である。箸墓が築造されるのは崇神の時代である。したがって、私は箸墓築造の年代を280年前後と推定する。
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2014年03月17日

想い込みが認識を誤る

 STAP細胞作成をめぐる報道がなにやら怪しくなってきた。「小保方晴子氏に元気をもらった」とする私も複雑な心境である。
もしSTAP細胞作成の論文が、事実の誤認や実験の不備、あるいは意図的なデータの改ざんによるものであるとしたら残念である。
華々しいマスコミ報道を、何の検証もせず信じた私がバカであったということである。

今回の出来事を教訓とするなら、私の邪馬台国論や卑弥呼論において、論拠となる事実の解釈に誤りがないか慎重を期す必要があるということである。
特定の結論を持って推論を組み立てると、結論に都合のよいデータのみを集め、都合の悪いデータは除外する。あるいはデータを仮説に合うように解釈する。そのような誤り犯していないか検証する必要がある。

 私は秋津遺跡から出土した大規模な建物遺構は、六代孝安天皇秋津島宮の一部またはその関連施設と考えている。
孝安は、私が卑弥呼とする宇那比姫の義理の弟で『魏志倭人伝』が伝える、「男弟ありてたすけてく国を治む」とする男弟に他ならないと考えているからである。
したがって、孝安の秋津島宮の存続時期は、卑弥呼が王位に在った二世紀末頃から三世紀前半でなければならない。

室と言う秋津嶋宮の伝承地から特異な建物遺構が出土したのである。秋津遺跡が秋津嶋宮と無関係とは思われない。そのような想いで出土遺物の詳細な検討を行った。その結果、出土遺物の中に、多孔銅鏃という遺物が有ることを知った。多孔銅鏃は二世紀代から三世紀前半の遺物とされる。このことから私は、この遺構が二世紀末から三世紀前半まで古くなると確信する。
調査主体の橿考研は、庄内式が出土しないから、この遺構の年代は、布留の古式すなわち三世紀末ごろより古くならないという前提に立つ。したがって多孔銅鏃の存在についても、これをもって遺構の年代を古く見ることには否定的である。
同じ遺構を見ても私とは、異なる見え方になるのである。

もともと私の推論の根拠は出土遺物ではない。文献である。孝安は宇那比姫の義理の弟であるという系譜から導かれた結論からである。宇那比姫が卑弥呼なら孝安の秋津島宮の存続時期は二世紀末から三世紀前半で秋津遺跡もその時代の遺構という推論である。そこで調査報告書を詳細に読んでみた。

橿考研の報告書は重要な点で矛盾する


奈良県遺跡調査概報(第二分冊)2010年度版、とされる橿考研による報告書のP225からP231である。
私が最も関心を持つのは、第1遺構面とされる、古墳時代の方形区画施設、掘立柱建物、竪穴建物の出土した遺構である。


その出土状況の写真である。
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そしこれを元に橿考研が描いたイメージ図である。
 
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だがこのイメージ図と報告書の間には重要な点で矛盾がある。

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 橿考研が方形区画施設と名づける柵あるいは垣または塀と思われる構造物がある。その方形区画施設は3→2→6の順序で造り替えられたとする。
さらにその中の建物は、大型建物SB0029→竪穴建物SB00101b→SB00101aの順序で立て替えられたとする。
一方SB00101aの床面から出土した炭化物によりこの竪穴建物は火災に会ったと考えられる。同じような炭化物が方形区画施設6の柱穴からも出土したことにより、SB00101aと方形区画施設は同時代とするのである。
問題はこのような論理の組み立てによって、次のような図を示す。

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しかしながらこの考察は報告書のP238で記す、次の記述と矛盾する。
「SB0028、SB0029を囲み同位置で造り替えの行われた方形区画3、2、6」とする記述である。
SB00101aと方形区画6を同時代とする限り、SB0029はすでにそこには存在しないのである。方形区画6がSB0029を囲むことはできないのである。これは方形区画6がSB0029を取り囲んでいるイメージ図とも矛盾する。

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私はSB00101aと方形区画6とが同時代とする推論に誤りがあると考える。
方形区画6が取り囲む建物は、イメージ図にあるように、SB0029という高床式の大型建物であろう。竪穴建物は一般的な住居建物である。それをこのような堅固な塀が取り囲むことはなかろう。取り囲んでいたのは高床式の大型建物であろう。したがって方形区画6とSB0029が同時代であろう。その関係を図示すれば次のようになろう。

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3→2→6の順序で立て替えられた方形区画3の年代は、布留古、中相とされるSB0010aからさかのぼれば相当古い。
私は二世紀末あるいは三世紀初めということも十分ありえると考える。

 私たちは専門外の事や難しい事については、ついつい専門家の見解を鵜呑みにしがちである。今回の小保方晴子氏のSTAP細胞作成の論文も私にとっては、まったく解らない分野であり、詳細に検証してみる動機も意向もないまま、最初の華々しいマスコミ報道を鵜呑みにした。

だがここに取り上げた橿考研の秋津遺跡調査報告は、私にとって極めて関心の高い事柄である。それゆえ報告書を詳細に読み込んだ。その過程でこの報告書には、年代推定に誤りがあると考えている。庄内式が出土しないから、この遺構の年代は布留式の時代をよりは古くならないという先入観である。これが年代推定を誤らせている。
橿考研は我が国最大の考古学者を抱える研究機関である。その研究機関による調査報告である。だがその報告書の内容は、無批判に受け入れるには極めてずさんである。

 そもそも今日の考古学者の大部分は、孝安天皇などという人物の実在を信じていない。したがって秋津島宮など信じる訳も無い。仮に秋津島宮の伝承地とされる室の地で大型建物遺構が出土したとしても、それを秋津島宮との関連で考えることなど無い。
私はそのことを一番危惧している。この遺構を単に豪族居館跡くらいの認識で片付けられることを恐れているのであう。仮にここが秋津島宮であっても、単に歴代天皇の宮の一つに過ぎないと言うだけなら調査の後、記録に残して、自動車道の橋脚の下に埋め戻されてもやむを得無いと考える。だが私の仮説では、ここは卑弥呼の王宮であり、その王都の建物跡である。万全の保存処置と、更なる周辺の調査が必要と主張するのである。

2013年08月31日

卑弥呼の系図

私とて卑弥呼という人物が、ここまで明らかになるとは思いもしなかった。
系譜伝承のすごさを知ることになる。

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PDFファイルはこちら
himiko.pdf

私は系譜という文献の中に卑弥呼や台与を見た。しかしそれのみではその系譜伝承がどこまで正しいかを見極めるのは難しい。
そこで物的証拠を提示することによってその正しさを立証する事に努めた。

『魏志』倭人伝は卑弥呼について「年すでに長大、夫婿無し」とする。夫が無かったとする。
当初、私も卑弥呼は生涯独身の女性で夫は無かったと思っていた。
だが和邇氏系譜により、私が卑弥呼とする宇那比姫には子孫のある事が判明した。
その子孫の墓である東大寺山古墳から出土した中平銘鉄刀を提示することにより、卑弥呼には夫があり、その子孫が在ったことを立証できたと考える。

詳しくはこちら

http://yamatai.sblo.jp/category/872520-1.html

また『魏志』倭人伝は「男弟有りて佐(たす)けて国を治む」とする。卑弥呼の政治を補佐する弟が有ったとする。系譜伝承から弟とは六代孝安天皇であることを突き止めた。
孝安の宮は秋津島宮である。それにより卑弥呼の王宮は秋津島宮であることが解った。
現在京奈和自動車道建設の事前調査で、秋津遺跡と名付けられた遺構から、大型の高床式建物を塀で囲む特異な建物群が出土している。ここは「室(むろ)」という秋津島宮伝承地である。調査主体の橿原考古学研究所は、この遺構の年代を三世紀末から四世紀半ばの遺構とする。
だが私はそこから出土した多孔銅鏃によって、この遺構が二世紀末から三世紀半ばに及ぶことを立論した。またそこからは、東海を初め、瀬戸内海西部、瀬戸内海東部から持ち込まれた土器が出土する。この事を以てここは王都の場所であることを主張する。
秋津島宮こそ卑弥呼の王宮なのである。

詳しくはこちら

http://yamatai.sblo.jp/category/776681-1.html

そしてこの秋津島宮の北東1.5kmのところ玉手山に、径百余歩の尾根と一体になる古墳を発見した。
玉手山は孝安が葬られたという山である。卑弥呼もまたこの山に眠るとしても不思議は無い。
私は、宇那比姫が卑弥呼であることの決め手となる、径百余歩の卑弥呼の墓を提示するのである。

詳しくはこちら

http://yamatai.sblo.jp/category/776680-1.html
posted by 曲学の徒 at 11:38 | Comment(7) | TrackBack(0) | 卑弥呼は宇那比姫

2013年06月12日

『勘注系図』は何を隠さねばならなかったのか

『古事記』によれば、開化の妃とされる竹野姫の父親を、丹波の大縣主由碁理とする。
一方『勘注系図』は、建諸隅命の亦の名を由碁理とする。『勘注系図』の初めの部分は、丹波の支配者の系譜であり、『勘注系図』に、丹波の大縣主由碁理が登場する事は当然の事である。
またその娘の名を竹野姫として、建諸隅命は開化に「仕え奉る」とする。加えて竹野姫の屯倉を置いたとする。屯倉とは天皇家の直轄領地である。この女性は『記紀』が開化の妃とする竹野姫で間違いはない。また『勘注系図』はこの女性の名を大倭姫命、天豊姫命とする。天豊姫命こそ卑弥呼の後に、年十三歳で王位に就いた台与である。すなわち開化の妃、竹野姫=大倭姫命=天豊姫命=台与=邪馬台国の女王なのである。『勘注系図』の作者はその事を100%熟知している。
 
 しかし『記紀』は竹野姫を開化の妃とする。単に妃であれば、倭王権の最高権力者ではない。竹野姫を中国史書が伝える倭の女王という最高権力者とするには問題がある。この女性を『魏志倭人伝』が伝える台与とする、私の主張も危うくなる。
問題は竹野姫、亦の名天豊姫が、台与であるか否かである。この難問を解く鍵がやはり中国史書にある。

266年、台与と一緒に中国の爵位を受けた男王

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』と、801年成立の『通典(つうてん)』の次の記事である。
『梁書』は「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
『通典』は「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」とする。

台与が王位に擁立された後、再び男王が立ち、並んで中国の爵位を受けたとするのである。
266年西晋に朝貢した朝貢の主体は女王である。この女王は台与であろう。そのとき女王と共に中国の爵位を受けた男王がある。この男王こそ開化なのである。
歳十三歳で倭の女王として擁立された台与は後に、開化と夫婦になり、開化も男王として帝位に就く。しかし遣使の主体が女王である以上この時点での倭国の最高権力者は、天豊姫すなわち、『記紀』が開化の妃としか記さない竹野姫なのである。

二人の女性の最高権力者の存在を知っていた

 中国史書は三世紀代に、卑弥呼と台与という二人の女王が在ったとする。だが『記紀』は、相当する時代には、男子の天皇を記すのみで、女性天皇を記さない。
一方『勘注系図』の作者は、中国史書と同様に、二人の女性の最高権力者が在ることを知っていたのである。
宇那比姫の亦の名とする、大倭姫という名はもちろん、天造日女命が、天下人の名であることは、『勘注系図』の作者は十分承知しているのである。
これは、後の大和朝廷が、男子一系を正当な皇統譜とする主張と異なる主張である。
この事が危険であり、命がけで隠さねば成らなかったのである。
ところうがしばらくすると、系譜の何が危険なのか解らなくなってしまう。
従って『本系図』がなぜ途中を記さないか、その意味を理解できなくなっている。ましてや現代の私が、それを解明することは困難を極めた。ようやく私はその意味を完全に理解し