2013年06月12日

『勘注系図』は何を隠さねばならなかったのか

『古事記』によれば、開化の妃とされる竹野姫の父親を、丹波の大縣主由碁理とする。
一方『勘注系図』は、建諸隅命の亦の名を由碁理とする。『勘注系図』の初めの部分は、丹波の支配者の系譜であり、『勘注系図』に、丹波の大縣主由碁理が登場する事は当然の事である。
またその娘の名を竹野姫として、建諸隅命は開化に「仕え奉る」とする。加えて竹野姫の屯倉を置いたとする。屯倉とは天皇家の直轄領地である。この女性は『記紀』が開化の妃とする竹野姫で間違いはない。また『勘注系図』はこの女性の名を大倭姫命、天豊姫命とする。天豊姫命こそ卑弥呼の後に、年十三歳で王位に就いた台与である。すなわち開化の妃、竹野姫=大倭姫命=天豊姫命=台与=邪馬台国の女王なのである。『勘注系図』の作者はその事を100%熟知している。
 
 しかし『記紀』は竹野姫を開化の妃とする。単に妃であれば、倭王権の最高権力者ではない。竹野姫を中国史書が伝える倭の女王という最高権力者とするには問題がある。この女性を『魏志倭人伝』が伝える台与とする、私の主張も危うくなる。
問題は竹野姫、亦の名天豊姫が、台与であるか否かである。この難問を解く鍵がやはり中国史書にある。

266年、台与と一緒に中国の爵位を受けた男王

636年に成立した『梁書(りょうしょ)』と、801年成立の『通典(つうてん)』の次の記事である。
『梁書』は「復立卑彌呼宗女臺與爲王。其後復立男王、並受中國爵命」
『通典』は「立其宗女臺輿爲王。其後復立男王、並受中國爵命。晉武帝太始初、遣使重譯入貢」とする。

台与が王位に擁立された後、再び男王が立ち、並んで中国の爵位を受けたとするのである。
266年西晋に朝貢した朝貢の主体は女王である。この女王は台与であろう。そのとき女王と共に中国の爵位を受けた男王がある。この男王こそ開化なのである。
歳十三歳で倭の女王として擁立された台与は後に、開化と夫婦になり、開化も男王として帝位に就く。しかし遣使の主体が女王である以上この時点での倭国の最高権力者は、天豊姫すなわち、『記紀』が開化の妃としか記さない竹野姫なのである。

二人の女性の最高権力者の存在を知っていた

 中国史書は三世紀代に、卑弥呼と台与という二人の女王が在ったとする。だが『記紀』は、相当する時代には、男子の天皇を記すのみで、女性天皇を記さない。
一方『勘注系図』の作者は、中国史書と同様に、二人の女性の最高権力者が在ることを知っていたのである。
宇那比姫の亦の名とする、大倭姫という名はもちろん、天造日女命が、天下人の名であることは、『勘注系図』の作者は十分承知しているのである。
これは、後の大和朝廷が、男子一系を正当な皇統譜とする主張と異なる主張である。
この事が危険であり、命がけで隠さねば成らなかったのである。
ところうがしばらくすると、系譜の何が危険なのか解らなくなってしまう。
従って『本系図』がなぜ途中を記さないか、その意味を理解できなくなっている。ましてや現代の私が、それを解明することは困難を極めた。ようやく私はその意味を完全に理解し

2013年06月03日

国宝「最奧之秘記」に何が書かれているのか

 国宝に指定される「最奧の秘記」がある。
天橋立で有名な丹後半島の付け根、籠(この)神社の宮司家、海部(あまべ)氏に伝わる『勘注系図』という系図である。

系図の末尾に「今ここに相傳(あいつたえ)以て最奥之秘記と為す。永世相承(あいうけたまわって)不可許他見(たけんゆるすべからず)」とする。また「海神の胎内に安鎭(やすめしずめ)もって極秘」ともする。

江戸時代、天下の副将軍と称された水戸光圀(みとみつくに)が、『大日本史』を編纂するにあたり、この系図を見たいと申し入れた。だが海部氏は断ったという。それほどまでにして秘匿しなければならなかったこの系図に何が書かれているのかである。
そこに日本古代史最大の謎、卑弥呼や邪馬台国の謎を解く鍵が潜んでいた。

もう一つ同じ系譜を伝える系図が海部氏に伝わる。『本系図』と称される系図である。こちらは朝廷の提出命令に応じて作成された系図の副本あるいは控えである。こちらも国宝となり現物の古さでは『勘注系図』より古い。だが、その内容は当主の名前を書き連ねるだけの簡略な物である。
しかも系譜の一部を大きく欠落させる。その部分が不明であった訳ではない。意図的に隠しているのである。その意図的に隠した部分に『勘注系図』を最奧の秘記とする理由があることは想像に難くない。だがそれが何なのか私にも今一つ解りかねていた。ようやくその疑問が解けた。

二人の大倭姫


 隠さねばならなかったのは二人の「大倭姫」という名である。
大倭姫という名は、丹波の女性の名ではない。『勘注系図』の作者はこの二人が、大和朝廷の最高権力者の名であることを熟知していたのである。
大倭(おおやまと)とは、古い時代の天皇名に冠される名前であり、この二人の女性は天皇と同格の権威の持ち主である。いわば大和朝廷の女王の名であり、中国史書が倭国の女王とする名前なのである。これこそ『魏志倭人伝』が伝える、卑弥呼と台与である。

また最初の大倭姫である宇那比姫(うなびひめ)の亦の名を、天造日女命(あまつくるひめみこと)とする。これは古い時代の天下人を意味する。『勘注系図』の作者がその意味をを知らないはずはない。
これは『記紀』が伝える、大和朝廷の最高権力者の系譜と若干異なるのである。そのことが危険であり『勘注系図』を隠さなければならなかった理由である。

『記紀』には見られない記述

系図とされる物の多くが一般的に人物同士を線で結び系譜上の関係を示す。『勘注系図』もまた同じである。
ところうが最初の大倭姫という名を持つ宇那比姫について、『勘注系図』は例外的な書き方をする。六世孫とするが、系図の中でどのように繋がるのか記さないのである。単独でその名を記すのみである。
宇那比姫は丹波の人ではない。だが丹波の一族に繋がる重要な人物であるから、系譜の端にその名前が記されるのである。『勘注系図』の作者はそのことを熟知の上で丹波の系譜にこの名前を記したのである。

 中国史書は三世紀代の倭国に、二人の女王が存在していた事を伝える。ところうが『記紀』伝承では、初期の大和朝廷最高権力者は何れも男子である。女性が最高権力者に就いたとは記さない。
これまで、その点が、中国史書と『記紀』伝承を結びつける上で最大の難関であった。
だがここに『勘注系図』に二人の女王の名前を見るのである。
日女命(ひめみこと)という卑弥呼と、天豊姫(あまとよひめ)という台与である。男子一系とする皇統譜とは異なる伝承である。このことが危険であり最奧之秘記として命がけで隠さねばならなかった理由である。

「最奧之秘記」とする理由

 ところうがしばらくすると、何が危険であるか解らなくなるのである。
『勘注系図』の末尾に系譜成立の経緯を詳しく記す。序とするから本来は系図の最初に添付されていた物であろう。そしてそれは系譜が完成してから後に書き加えた物である事が記される。
そこに次のような記述がある。
「この系図(本系図)は養老本記によるところうといえども、新たに数代の歴名を録し、神代並びに上祖の歴名を載せない。本記の體をなさずなり」
この序が作成された時点で、なぜ『本系図』が古い時代の系譜を削除したのか理由が解らなくなっている。
ましてや現代の私が、その理由を理解することは容易では無かった。だがここにようやくその理由を明確に知る事ができたのである。
歴代の人物を削除することなく詳細を記した『勘注系図』は『記紀』が伝える、男子一系の皇統譜とは異なる、二人の女性の最高権力者の存在を記すことであった。そしてそれは中国史書の記述に符合するのである。
それは男子一系を正史とする、時の権力が許すはずの無い危険な記述なのである。朝廷に提出した『本系図』ではその部分を削除して提出したのである。

『勘注系図』の詳しい内容はこちら

http://kodai.sakura.ne.jp/kanntyuukeizu/index.html

2013年05月11日

葛城の歴史

 秋津遺跡の性格を理解するためには葛城の歴史を知る必要がある。
どんなに精緻な発掘調査が行われようとも、考古学的な探求のみでは絶対に解らない事がある。
たとえば立派な住居跡が出土しようとも、そこに何と云う名前の人が住んでいたかは、文字資料が出土しない限りまったく不明なのである。
そこに文献史学の出番がある。そして文献史学の資料の一つに系譜伝承がある。これまで系譜伝承は、歴史資料としてあまり重要視されてこなかった。しかし私は『日本書紀』や『古事記』そして偽書ともされる『先代旧事本紀』などの歴史書と共に、系譜伝承は我が国の古代史を解明する、有力な歴史資料であると確信する。

そこで葛城の歴史を、系譜伝承と神社伝承から概観する。
古くは葛城とは、奈良盆地東南部葛城山の山麓に広がる地域を指す。南は現在の御所市あたりから、北は北葛城郡王寺町、上牧町あたりまで及ぶ地域である。
飛鳥時代には葛城上郡(かつらぎかみのこおり)、葛城下郡(かつらぎしものこおり)に分かれる。
秋津遺跡のある御所市近辺は、葛城上郡(かつらぎかみのこおり)と称された地域である。

葛城に居た氏族

 この地域と関連する氏族は、神武が大和朝廷を樹立した時、葛城国造(かつらぎのくにのみやつこ)に任じられたとする、葛城氏である。そしてこの葛城氏と婚姻を通じて密接に関わる尾張氏である。
もう一つ葛城氏や尾張氏がこの地に進出する前の時代、この地に勢力を持っていたと思われる氏族がある。大国主の子供とされる事代主(ことしろぬし)や味耜高彦根(あじすきたかひこね)を祀る鴨(かも)と称される一族である。この一族は後の大神氏(おおがみし)あるいは三輪氏(みわし)である。

そしてもう一つは四世紀の中頃葛城国造、荒田彦宿禰の娘、葛姫(かつらひめ)を娶つた竹内宿禰(たけのうちすくね)に始まる葛城氏である。竹内宿禰と葛姫の子が葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)で、全長230mの前方後円墳宮山古墳を築く、強力な氏族となる。葛城襲津彦は葛城国造の娘の子であるが、それ以前の剣根に始まる、葛城国造と竹内宿禰に始まる葛城氏とは性格を大きく異にする。
この点を理解しておかなければ、秋津遺跡の性格を理解することは出来ない。なぜなら現在出土している方形区画施設と称される特異な建物遺構は、四世紀中頃に終わる。竹内宿禰やその子供葛城襲津彦の活躍する年代には、この遺構は消滅しているのである。したがって宮山古墳を造った氏族との関連では秋津遺跡を理解することは出来ない。

葛城国造の系譜

 神武が最初に大和朝廷を打ち立てた時、椎根津彦(しいねつひこ)を倭国造(やまとのくにのみやつこ)。剣根命(つるぎねのみこと)を葛城国造(かつらぎのくにのみやつこ)とする。
これは興味深い伝承である。神武によって支配地を与えられたのは、その多くが奈良盆地侵攻に当たって活躍した人物に対する論功行賞である。だが『日本書紀』が伝える限り、剣根命については何の活躍も記さない。剣根命は特段の活躍が無くとも賞にあずかる立場なのである。そのことを伺わせるのが、その剣根命に至る系譜である。
剣根命は三嶋溝杭(みしまみぞくい・溝咋耳)の子、玉依彦(たまよりひこ)の子とされる。
三島溝杭の娘、玉依姫が事代主と結ばれ、後に神武の皇后となる、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずよりひめ)を生んだとされる。
この時代の葛城氏は、大神氏の祖先である事代主とも関わりを持つ、名門の出なのである。
樹立直後の大和朝廷は、早くからこの地域で勢力を持っていた有力氏族を無視できなかったのである。
奈良盆地は、南西部をこの剣根命が国造となり、北東部を椎根津彦が国造となる。大和朝廷お膝元の地域支配は葛城国造と倭国造の二つの国造によって行なわれるのである。


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そしてこの剣根命の娘、賀奈良知姫が尾張氏の天忍男命の妻となる。その子供が瀛津世襲や世襲足媛である。
この辺りから尾張氏と葛城氏は婚姻関係を通じて深い関係となる。

尾張氏と大和朝廷

 尾張氏が何時からこの地に進出したかは定かではないが、世襲足媛や瀛津世襲の時代には間違いなくこの地に住む。瀛津世襲を亦の名葛城彦ともする。そして世襲足媛が五代孝昭天皇の皇后となって、天足国押人命と倭足国押人命すなわち六代孝安天皇を生むのである。

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孝昭の宮は掖上池心宮とされる。掖上とは現在の御所市南部の地名である。掖上池心宮の伝承地の碑が建つ場所がある。御所工業高校前、塀で囲まれた民有地の中である。宮山古墳前方部の八幡神社境内に建つ、秋津島宮伝承地の碑と同じく、大正四年、大正天皇の即位を記念して建てられた物であるが、この池心宮伝承地も場所としては疑わしい。
なぜなら、御所工業高校が建設された際事前発掘調査が行われている。その際出土したのは縄文時代の遺物で、弥生や古墳時代の遺物は出土していない。したがって池心宮はここではなかろう。
伝承によれば、池心宮は「よもんばら」あるいは「よもぎはら」と称される場所にあったとする。現在「よもぎはら」と呼ばれる場所がある。御所工業高校の西側一帯である。
京奈和自動車道建設に伴う事前調査で、御所市茅原の河川跡地から、庄内式同時期の土器と布留式土器が多数出土している。この河川跡の上流に庄内式時代まで遡る集落の在ったことを伺わせる。
わたしは掖上池心宮の場所は、御所工業高校の西側、300〜400m離れた場所あたりではないかと推測する。

大和朝廷と一体を成す尾張氏

『魏志倭人伝』は、卑弥呼が邪馬台国の女王として擁立される前、70年〜80年に渡って「男王」の時代があったとする。私は孝昭が、その最後の男王と考える。したがって中国史書が伝える「倭国大乱」はこの孝昭の後に起きた戦乱と考える。

そしてこの掖上池心宮から2kmほど南の、室という場所に、六代孝安の秋津島宮が在ったとされる。室とは現在秋津遺跡と名づけられたあたり一帯である。したがって現在出土している特異な建物群は、秋津島宮の一部で、これこそ卑弥呼の王宮に他ならないと考える。

そして私が卑弥呼とする、宇那比姫の甥にあたる建諸隅命は、葛城国造大諸見足尼の娘、諸見己姫を娶って、天豊姫を生む。天豊姫が『魏志倭人伝』の伝える台与である。また266年西晋に朝貢した、倭の女王でもある。
宇那比姫と天豊姫という二人の尾張氏の女性が、大和朝廷の王権の座に就くことによって、この時代の大和朝廷は尾張氏と一体なのである。

宇那比姫の兄建多乎利の墓

 御所市の北隣は葛城市である。そこに通称笛吹神社(ふえふきじんじゃ)と呼ばれる古い神社が在る。祭神は天香山命(あめのかぐやまのみこと)で尾張氏系譜で、始祖神、天火明命の子とする人物である。
この神社の宮司家、持田氏に古い系譜が伝わる。その系譜に私が卑弥呼とする、宇那比姫の二番目の兄、建多乎利(たけたおり)が登場する。
この神社裏手に、笛吹神社古墳群と称される古墳が在る。神社伝承によるとその一つが建多乎利の墓とする。神社すぐ裏手の一番大きな古墳は、その横穴式石室と石棺から、建多乎利の時代のものではない。だが更に、その奥に続く尾根上に、直径5〜6mくらいの円墳が3基ほどある。私はその一つが建多乎利の墓であろうと推測する。

もう一つの笛吹き神社

 更に同名の神社が秋津遺跡の近くに在る。秋津遺跡の南側は條の集落である。その山際に笛吹神社という小さな祠がある。葛城市の笛吹神社と同名の神社である。
当初私は、ここも祭神は、尾張氏の祖先である、天火明命か天香語山命と考えた。ところうが調べてみると、祭神は瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)なのである。しかし後に笛吹神社の宮司家、持田氏に伝わる伝承によってこの疑問が解けた。
持田氏の伝承によると、祖先の櫂子(かじし)が崇神天皇の時代、建埴安彦(たけはにやすひこ)を討って功あり、天皇より天磐笛(あめいわふね)を与えられ笛吹連(ふえふきのむらじ)の名を賜ったとする。そして瓊瓊杵尊を奉祭すれば国家は安泰とならんとする。
崇神の初めの頃大和朝廷は建埴安彦の乱が起きるなど必ずしも安定した王権ではなかった。そこで崇神は、尾張氏に共に共通の祖先神につながる祭神を持ち出して、より強固な忠誠を求めたのであろう。このことから條の集落にある、笛吹神社も祭神は瓊瓊杵尊であるが、尾張氏の祭る神社である事を理解した。

秋津遺跡と同時代の日本武尊の墓

秋津遺跡の東1q、国見山の尾根が西に延びる、その尾根の背に琴引原白鳥陵(ことひきはらしらとりりょう)と称される古墳が在る。
日本武尊の墓とされる。遺跡地図では古墳とは記さないが、墳丘の周りを掘り、墳丘に土を盛り上げた古墳である。ただし遺骸はなかろう。もしこれが本当に日本武尊の墓なら、その築造は四世紀前半の中頃と推測される。
秋津遺跡に住居群が濃密に存在していた時代である。日本武尊の妃は宮簀媛(みやずひめ)である。父親は尾張氏の乎止与(おとよ)である。この人が、四世紀の初め愛知県に移り、土地の豪族、尾張大印岐(おわりおおいきみ)の娘、真敷刀俾(ましきとべ)を娶って生んだのが宮簀媛である。したがって、尾張氏と日本武尊は浅からぬ縁にある。それがこの地に日本武尊の墓が造られたとする理由であろう。
また秋津遺跡に住んでいた人達がこの墓造りに関わった可能性は十分ある。
秋津遺跡を発掘調査する橿考研の研究者は、しばしば秋津遺跡と宮山古墳との関連を口にするが、関連を究明されなければならないのは、孝安が葬られたとする玉手山の古墳と、この琴引原白鳥陵である。

しかしこの葛城に居た尾張氏は成務朝に仕えたとする大縫や小縫という人物を最後に、王権の中枢から姿を消す。尾張氏系譜でも『勘注系図』でも、愛知県に移った乎止与に続く系譜は伝えるが葛城の尾張氏の系譜を持たない。私は秋津遺跡が四世紀中頃で終わる事と関係があるんではないかと考える。



武内宿禰に始まる葛城氏

 替わってこの地に台頭するのは、武内宿禰が葛城直、荒田彦宿禰(あらたひこすくね)の娘、葛媛(かつらひめ)を娶って葛城襲津彦(かつらぎそつひこ)を生むあたりからである。
武内宿禰は一四代仲哀亡き後、神功と応神を担いで、神功応神朝を支える。積極的な朝鮮半島への出兵を繰り返し、巨大軍事国家へと成長する。この神功、応神朝を支えた武内宿禰につながる一族は、五世紀初頭、全長238mの宮山古墳を築く強大な豪族へと成長する。宮山古墳は、葛城襲津彦が、その父武内宿禰と自分の為に築造した古墳である。その場所は、ここも室と称される、秋津遺跡に近い南西500mの所である。
秋津遺跡を発掘調査する橿考研の研究員は秋津遺跡と宮山古墳との関係を口にするが、宮山古墳が造られた時代には、秋津遺跡の建物群は存在しない。
私はこの武内宿禰に始まる葛城氏との関係では、秋津遺跡の性格はけっして解明できないと考える。

巨大古墳を築造するに至った、武内宿禰に始まる葛城氏も460年頃、葛城円(かつらぎのつぶら)が、雄略に攻められ滅びるのである。
葛城山麓の高台に位置する、極楽寺ヒビキ遺跡で見つかった大型掘立柱建物は火災に見舞われた形跡がある。雄略に攻められ滅んだとされる、葛城円の屋敷跡ではないかと推測する。

出雲王権につながる鴨一族

 これまで、葛城氏と尾張氏の関係を中心に葛城の歴史を概観した。も一つこの地方と深く関わる氏族がある。
大国主の子とされる、事代主(ことしろぬし)や味耜高彦根神(あじすきたかひこね)を奉祭する一族である。
御所市にはこれらを祭神とする神社がある。高鴨神社(たかがもじんじゃ)、御歳神社(みとしじんじゃ)、鴨都波神社(かもつばじんじゃ)そして大倉姫神社である。
高鴨神社は大国主の子供の一人味耜高彦根を祭る。また御歳神社は須佐之男命(すさのおおみこと)の孫ともされる御歳神(みとしのかみ)と、積羽八重事代主の妹、高照姫(たかてるひめ)を祭る。
そして鴨都波神社は大国主の子、積羽八重事代主(つみはやえことしろぬし)。大倉姫神社は味耜高彦根の妹、下照姫(したてるひめ)を祭る。
これらはすべて須佐之男に始まる出雲王権につながる。神武が大和盆地を平定して大和朝廷を樹立する以前、ここは出雲王権の支配下にあったことを伺わせる。
神武が大和朝廷を樹立すると、事代主の子とされる媛蹈鞴五十鈴媛(ひめたたらいすずひめ)を皇后として、それまでの支配者の権威を取り込むのである。

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秋津遺跡から弥生中期(今から2300年前)の水田跡地が出土している。現在知られている限り我が国、最大規模の水田跡地である。このあたりは早くから人の集住があった事が伺われる。この地に出雲王権につながる神社が数多く祭られることが、大和朝廷成立以前の歴史を垣間見せるのである。
高鴨神社と御歳神社の創建については明らかではないが、鴨都波神社については次のような伝承がある。
十一代垂仁の時代、この一族の大鴨積が鴨都波神社を祭る。弟の大友主が三輪神社の祭主となり、後の大神氏(おおみわし)または三輪氏と称される氏族になったとされる。

鴨一族の墓か?

鴨都波神社の近く、鴨都波遺跡から四世紀中頃の方墳が出土している。鴨都波1号墳と称される古墳である。
現地説明会資料には次のように記される。

『一辺20mほどの方墳にもかかわらず、豊富な副葬品を有す。この程度の規模の前期古墳で、棺の内外合わせて4面もの三角縁神獣鏡を副葬する例はほかには見当ない。一方で本墳の三角縁神獣鏡には特殊な意匠を持つものが多く、大形碧玉製紡錘車形石製品と呼んだものも他に例をみない。棺構造も異例に属し、こうした特殊性と鏡の特徴的な配列は、弥生時代以来、鴨都波遺跡周辺を中心とする南葛城に本拠を置いた、伝統勢力の性格の一端を示すものとみられる。』

私はこの古墳の被葬者を大鴨積またはその一族ではないかと推測する。


ここに挙げた系譜伝承の出典は次のようなものである。
葛城氏は中田憲信著、『各家系譜』難波田使首及び中島家家系。
尾張氏は『先代旧事本紀』尾張氏系譜。海部氏『勘注系図』。
大神氏は『先代旧事本紀』地祇本紀。
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2013年03月16日

橿考研は方形区画施設の年代を誤っている

 秋津遺跡から出土した方形区画施設と称される堅固な塀がめぐる建物遺構の年代を、橿考研は多量に出土した布留式土器の年代から四世紀前半とする。
だがこの認識は誤りである。確かに数多く確認されている竪穴建物の年代は、布留式時代のものであろう。これは一般的な住居である。
一方、広大な塀が高床式の建物を取り囲む遺構の年代は、竪穴住居が存在していた時代との間に年代の差がある。

竪穴建物と高床式建物とは年代が異なる

その理由の一つは、図に示した方形区画施設6の内部に存在する建物の年代である。

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報告書の中で、塀は3、2、6の順序で、高床式建物を囲んで少なくとも3回建て替えられたとする。そしてその高床式建物を、2度に渡って建て替えられた竪穴式建物が切り崩す。したがって年代順は大型建物SB0029→竪穴建物SB0001b→竪穴建物SB0001aである。そしてこの竪穴式建物SB0001aの年代を布留古相または中相とする。
これだけ堅固な塀が取り囲んでいたのは、報告書が「高床式建物を囲んで」とするように、竪穴建物ではなく高床式建物なのである。
したがって、布留時代の竪穴式建物が切り崩す高床式建物の年代は、それより古く、しかもそれを取り囲む塀は、少なくとも3度は建て替えられている。
建て替えのサイクルをどのように見るかは難しいが、20年毎とすれば、最初の塀は布留時代の60年前ということになる。

更に図の竪穴住居1、2は方形区画施設1と3を切り崩す。

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重要な建物を取り壊して一般の住居が建てられるとは考え難い。竪穴住居がここに建てられるのは、方形区画施設が消滅して、相当時間が経過した後であろう。方形区画施設と竪穴建物の間には相当大きな時間差がある。


もう一つ重要な徴候がある。
小さな流路である溝が、方形区画施設の塀に沿って認められる。この溝跡の上に竪穴住居が出現する。

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住居を建てる場所として、水の流れるような湿潤な溝の上に住居を建てることは無い。
考えられるのは溝がその機能を失って、干上がり、埋まった後に、住居が建てられたと云うことである。
溝が存在していた時代と、竪穴住居が造られるようになる時代との間には、相当の年代差がある。

布留式以前の遺物が出土している

橿考研がこの方形区画施設の年代を三世紀前半に遡らないとするのは、庄内式の土器が出土しないからである。
だが庄内式土器が出土しないとしても、明らかに二世紀代から三世紀と思われ遺物が出土している。
それは多孔銅鏃である。

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多孔銅鏃一点のみであれば、たまたま古い時代の遺物が何らかの理由によって、まぎれ込んだとも考えられる。しかしながら、この遺物の編年に詳しい研究者に出土遺物の写真を見せたところ、この多孔銅鏃と同時代の東海系の土器片が存在するとする。

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ここは秋津島宮という王都である。

 秋津遺跡の竪穴建物の年代は布留の時代であっても、塀が取り囲む高床式建物の年代は二世紀末から三世紀前半の遺構である。
ここは六代孝安天皇室秋津島宮の伝承地である。秋津島宮の一部が出土しているのである。
東海系をはじめ瀬戸内海東部、西部、そして山陰あるいは中国地方から持ち込まれたと思われる土器の出土は、ここが王都で有った事を物語る。
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六代孝安天皇の実在を信じない人たちには、この遺構の重要性を理解できない。宮山古墳を造った一族の居館あるいは祭祀建物などとしか想像が及ばないのである。


2012年09月23日

方形区画施設の年代

下の図はたぶん橿考研によって描かれた、方形区画施設1.2.3.4.6のイメージ図であろう。

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方形区画施設と名づけられた、塀が囲む高床式の建物は一般的な住居ではない。これだけ大掛かりな塀に囲まれる建物は、かなり特殊な建物である。
一方、図の左下に描かれたような竪穴建物は、一般的な住居である。

橿考研はこのように方形区画施設は高床式の建物を囲んでいたと推測するのである。
にもかかわらず、三回に渡って建て替えられた最後の方形区画施設の年代を、SB0001aとされる竪穴建物と同時代とする。

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SB0001aはその切り合い関係から、大型建物SB0029→SB0001b→SB0001aの順序で建てられた事が解っている。
SB0001aと最後に建て替えられた方形区画施設6とを同時代とする限り、そこには大型建物SB0029は存在しないのである。
大型建物を囲んで方形区画施設が建て替えられたとする記述と矛盾する。

私は方形区画施設が図のように大型建物を取り囲んで建て替えられたという認識は正しいと考える。
問題は方形区画施設6とSB0001aとを同時代とする推測に問題があると考える。

同時代とする根拠は、方形区画施設6の柱穴から出土する炭化物を、火災で焼失したとされるSB0001aの炭化物とすることによる。
しかしその炭化物が本当にSB0001aの物かどうか確かな決め手は何も無い。同時代とする根拠は、このような脆弱な論拠の上に成り立つ推測なのである。
おそらく方形区画施設6とSB0001aを同時代とする推測が誤りなのである。

私は次のように推測する。

方形区画施設はイメージ図が示すよう、大型建物を囲んで三回に渡って建て替えられたと考える。当然最後の方形区画施設6も、大型建物の為に建てられたのである。
すると次のような関係が推測される。

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そして焼失したSB0001aの布留古相あるいは中相の年代から遡れば、最初に造られた方形区画施設3の年代は相当古いのである。私は二世紀の末くらいまで古くなる事を予想している。